人類の創造の目的
  「八日間の霊操」        J・マクケクニ 著    中央出版社                               
    「三位一体の神を生きる」 望月 光   著  天使館

  「聖体より三位一体へ」      ベルナルド   著   ヴェリタス書院             より抜粋
                              
 人間は創造された
 「全能の神によって、人間は創造されたのである。創造されたとは、無から造られたことである。人間は自分の持っている素質も、才能も所有物も、人間が自分の努力で得たものについても、人間の本性に属する能力についても、すべて神の賜物である。ゆえに、人間は何よりもまず、自分が完全に神に依存することを、人間自身には何もないことを、心の中に深く認めなければならない。
  全能の神によって、人間は創造されたという前提から、人間は神に従うべき者であって、自分の意志に従うべき者ではない。。人間は自分勝手な道を行くように、自分の気まぐれに従うように、気ままに振る舞うように、自分で自分の主となるように創造されたのではない。人間の価値は、人間が創造された目的を果たす、その果たし方によるものである。ある道具がその製造された目的を果たさなければ、その道具は役に立たないものとして捨てられるのである。」
                                     
   創造の目的
 「 神が人間をお造りになった目的は、神御自身の幸福への参与、神の内なる生命活動への参与なのである。 すなわち神は霊的被造物を御自分の内的生命活動(聖三位の御命)に直接与らしめようとされた。
 これが創造の最終的唯一の目的なのである。この目的以外に神が人間をお造りになった目的はほかにない。」
 「 人間は何度も罪を犯して神から離れ転落し、この目的から逃れるようなことをしたが、神はこの目的を変えようとはなさらなかったのである。神は常にこの目的を可能ならしめる為にのみ凡てを賭け、御摂理を働かしておられるのである。然り、これを中心として被造界の凡ては回転しているのである。悪魔の誘惑も、じつに巧妙にもこの唯一・無二・不変の目的にかかわり合っているのである。
 神の姿に似せて人間が造られたのは、実は神の生命活動に人間があやかることが出来るようにと、神が計画されたからである。」

 神の生命活動に人間があやかるとは
 「神は大いなる愛により、彼を「多くの兄弟の中に長子」(ロマ8・29)として、我等がその肢体として形ずくる大いなる神秘体の頭として定められた。「彼はその体なる教会の頭にて在す」(コロサイ1・18)。
 そこでイエズスは「其の兄弟たち」を、自ら受けたもう所に與らしめんと望み給う。至聖三位より彼の聖なる御人生に流れ入る生命は、あらたに溢れ擴がる。それは頭から手足に下る。それはイエズスのすべての御能力を浸し、その頭から信者の形づくる肢体へとあまねく流れ下る。そして我等もまた、三つの尊きペルソナの密なる御生命とその光と愛に與る事になるのである。          
 これは、イエズスと教会とに依って形づくられ、完うされた「大キリスト」である。イエズスは信者達と共に一つの体を形づくり、一つの生命に生きるまでに彼等と融合し給い、その生命は頭より身体へとあまねくめぐりわたる。なぜならイエズスはその神的な生命を我等に注ぎ、我等のものと成し給うたからである。「我は葡萄樹にして汝等は枝なり」(ヨハネ15・5)葡萄の幹と枝とは同一の存在であり、共に身を養い、共に働き、同じ樹液を取ることによって同じ實を結ぶ。そのようにイエズスと信者達は一つに合体している。すなわちイエズスは其の御人性の福楽として無量に享け居たもうこの照らす「光」、燃えたゝす「愛」なる神的生命を、肢体にまでめぐらせ、我等に注ぎ給うことによって、ついにイエズスと我等に、其の御霊魂と我等の魂に、その聖心と我等の心に、同じ生命、同じ恩寵、そして唯一の聖霊に於いて御父への同じ愛の一致が存することゝなるのである。」