苦しみ犠牲について
 苦しみ犠牲について、「聖体より三位一体」「キリストの神秘体」「愛の招き」「私の霊魂における神の慈しみ」「私に啓示された福音」「イエズスに出会った人々」「マグダラのマリア」「イエズスたそがれの日々」「復活」より抜粋。

『「人もしわが後に来たらんと欲せば己を棄て、己が十字架を取りて我に従え」(マルコ8・34)。  
 そこでいかに苦しむべきかが重大問題となる。
 すべての苦痛がよきものとは限らない。無益なものも有害なものもある。ある人々は苦しみそのもののために苦しみを求め、それを愛したのしむ病的な傾向を有する。彼等は、苦しみが目的でなく、常に愛を生ぜしめるための方法、手段の一つに過ぎぬことを忘れて、神のご計画に背くのである。苦痛を聖なるもの、功徳あるものとするのは、苦しむ者の心構えによる。苦しみは神の造りたもうたものではなく、罪の結果である。もしも愛がそこに入り込んでそれに価値を與え、我等の罪多き本性の浄化に役立たせるのでなければ、それは依然として呪われた果実でしかない。カルワリオ山上にて、キリストの傍らに、一人づつ盗賊が十字架につけられていた。その一人には、苦痛は楽園の扉を開くことゝなったが、他の一人には、その悪を極みまで押しすゝめて、永遠の悲惨の序幕となり終ったのである。
 故に、問題は、むやみに苦しむことではなく、神の御意志に順応してよく苦しむこと、キリストと共にキリストの如く苦しむことである。
肉体の苦痛にせよ虚弱にせよ病気その他にせよ、人間の自然性にとって非常に耐え難いものであり、従って霊魂にとって功徳となり神に御栄えを帰すものとなりうるからである。』
                        (聖体より三位一体へ)
 
 「今日の世人は、罪を頭痛よりも小さいと見なしているほどであるから、神秘体の贖罪の価値など見過ごされてしまう。しかし罪があるから贖罪ということも存在するのだと言うことを繰り返す必要がある。すべての罪には二つの要素がある。すなわち禁断の実を犯した喜びと、神に対する不従順である。それゆえにこれを償って平均させるには、禁を犯して味わった喜びと同じ程度の苦痛をなめてこれを償うこと、痛悔の念をもって不従順を償うことが必要である。この二つの要素の内で後者がより重大である、なぜならば、前者に道徳的意義を与えるのは、後者である。そうでなければ、苦痛は単に苦痛の為の苦痛であって罪が赦される為の犠牲とはならないからである。…悲しみ、痛悔、神への愛の希望、これが苦痛を犠牲に化するものである。しかし我々の罪を悲しむだけでは十分ではない。罪は負債を含む。そして負債は支払わなければならない。

あるキリスト者は、キリストによって贖われた以上、彼らの成すべきことは何も残っていないとの幻想に迷わされている。これらの人々は、真理よりも遠いところにある。我らの主は我々を贖ってくれたが、しかし主の贖罪が我々の霊魂に適用されることが残されている。主は天的貯水生けに恩寵を満たした。しかし我々は、我々の霊魂に、この恩寵を注ぎ込まなければならない。しかしこれを可能にするには主の死と生命にあやからなければならぬ。主はご自分の人性に於いて成したことを、我々が主を通じて我々のものと成すことを望まれる。すなわち我々が永遠の復活の前奏曲としてこの世と罪に死し、我々の愛を証明することを主は望まれる。」                       (キリストの神秘体)
  
 「死と苦しみとは、悪魔の妬みの為にこの世に入った。神が死と苦しみを作ったのではなく、また生きる人の苦しみを喜ぶものでもない。天の国は多くの艱難を貫き通して至る。それに私が行ったように、そして私は誰よりも先に、その道を歩き、そこを通って御父の元に戻る。他の道があったなら、私はあなたたちに教えたであろう。」         (復活)
 
「苦しみを、正義を持って迎えるなら、苦しみは罰ではなく、それは一種の祭司職で、神の御心に対して大きな力を持ち、その人の功徳となります。いや、それだけではありません。彼らは主に嘉される生贄として、皆の為に苦しみます。罪と共に生まれた苦しみすら、神の正義をなだめることができます。憎しみが人を苦しめる為につくったものを、神はよいことの為に使われます。私は罪を消す為に、私は誰よりも先に、その道を歩き、贖いを果たした。これ以外の手段を望みませんでした。なぜなら、これ以上威力のある手段はないからです。     (イエズスたそがれの日々)

 『星も木も動物も、それぞれ神に服従して神を誉め讃えるのに、人間だけが服従せず、十分に神を誉め讃えません。だから皆に代わって償いをする霊魂が必要です。罪を犯すことしか知らない人々に代わって、苦しみの多い償いを果たすのは無邪気な子供たちであり、また自発的に自分を生贄にする聖人です。
 「しかし、子供たちは……」
 「自分自身を捧げるとは何かを、まだ知らない者のことを言いたいのですか……神が彼らに話される時が分かりますか……神は霊的な言葉で話され、霊魂はこれを聞きます。それに霊魂には年齢がありません。そればかりか幼い霊魂は、悪意を知らないので、神を知る能力として、年寄りの罪人よりも大人であると言えます。シモン、幼い子供が英雄的な愛の知恵を教えることがあるのだと、いつか悟るでしょう。しかし肉体的な理由のために死ぬ小さい子供には、神が直接働きかけます。」』                              (イエズスたそがれの日々)
   
神は、ある人を、だんだん沈んでいく泥沼から救い出す為に、自分の嫌悪、自分の反感、自分の憤慨に打ち勝つ他の人の犠牲を待っておられる。繰り返して言うが、全能の神は、ある霊魂の滅びを決めるか決めないかについて、関わりがない、他人が、ある犠牲、ある祈りをするか、しないかを待っておられる。                 (マグダラのマリア

「人間が苦しみを耐え忍びがたいと感じるのは知っています。御父は、人間ならそう感じるとあらかじめ知った上で、わが子達に苦しみを与えるつもりではありませんでした。後から罪が入ったのです。しかしこの世での苦しみはどれくらい続きますか。人間の一生涯を考えても、ほんのわずかな時間です。たとえ一生涯続くとしても、そこで言いたいのです。いつまで苦しむよりも、わずかの間、苦しむ方がよいではないか。煉獄で苦しむよりも、ここで苦しんだ方がいいのではないか。そのために、私はまことに言うが、苦しみを呪うのではなく、”恵か、憐れみ”と呼んで迎え、苦しみを祝福すべきです。」             (私に啓示された福音)
 
 「真にあなたたちに言います。神が与える一時間の、たったの一時間の懲罰に比べれば、全生涯奴隷、癩者、乞食であることは帝王並みの幸運です。」                     (私に啓示された福音)
 
純粋で完全な霊である天使たちは、至聖三位一体の光の中で生き、彼らの完璧さのうちにありながら、天から遙かに遠いあなたたちに対して、ある劣等感を抱いています。人の贖罪に協力するために自らを生贄にすることが出来ない、苦しむことが出来ない、という劣等感を抱いているのです。神は、御自分の御子の、その生贄がいかに計り知れず、その力が限りなくとも、まだ及ばず。今も人類が積み重ねる罪の総計に対比する功徳の総計の不足を満たすために、神はあなたたちに向かって言われるのです。「あなたたちを生贄として捧げ、苦しみなさい。私の子羊に似るものとなりなさい。共贖者でありなさい……」と。私は、天使たちの大群が、地球に向かって跪き、「私たちの、またあなたたちの、永遠の神のために、キリストと共に苦しむことの出来るあなたたちは祝された者たちだ!」と言うのを見ています。                  (私に啓示された福音)

「人間には苦しみが難しいことを私は知っています。地球上での苦しみはどれほど続きますか?今、私は言います。永遠に苦しむよりも短い間苦しむ方がましではありませんか?煉獄で苦しむよりもこの世で苦しむ方がましではありませんか?この世の一時間は煉獄ではその一千倍にもなることを考えなさい。」               (私に啓示された福音)
 
 「私が経験する苦しみ、逆境、屈辱、失敗、そして疑いは、イエズスよ、あなたへの私の愛を燃やし続ける焚き付けです。」
                     「私の霊魂における神の慈しみ」

 「苦しみは大きな恵みです。苦しみによって霊魂は救い主に似た者となります。苦しみの内に、愛は具体的で明確なものとなります。苦しみが大きければ大きいほど、愛はますます清くなります。」
                     (私の霊魂における神の慈しみ)
 
 「あなたは自分のためではなく、霊魂たちのために生きている、他の 霊魂たちがあなたの苦しみによって助けられる。あなたの長引く苦しみによって人々の霊魂は照らされ、強められて、私の意思を受け入れるようになる。」「私の霊魂における神の慈しみ」     (私の霊魂における神の慈しみ)

 「あなたの苦しみを私の受難に一致させよ
 ミサ聖祭中に、大いなる苦悶のうちに十字架に釘づけられている主イエスを見ました。小さなうめき声が主の御心から漏れました。しばらくすると、主は言われました。「渇く、霊魂たちの救いに渇く、我が娘よ、霊魂たちを救うために、手伝いなさい、あなたの苦しみを私の受難に合わせて、それを罪人たちのために天の御父に捧げなさい。」
                     (私の霊魂における神の慈しみ)
  
   『「他の人々が悪に陥るのを防ぐ為に、苦しみを捧げる人々が居る。あの二人が、もし昨日、罪を犯したのであったら永久に失われる所だった。しかしおまえがした小さい行為が、誘いに抵抗する勇気を与えたのだ。」
  ヨゼファは、そればかりの僅かなことが、そんな大きな結果をもたらすことに驚くと、「それは本当なのだ。私の聖心は、小さな捧げ物にも、尊い値打ちを付ける。私が望むのは愛で、私はそれだけしか望まないのだから。」』
                             (愛の招き)

 「かわいそうな人々よ、沢山の人々が私を知らないのは本当だ。だがそれよりも多くの者が、私を知りながら享楽に走って、私をかえりみない。世の中には、享楽に浸る多くの人々がいる。私の選んだ者の中にさえ楽しみを追う者がいる。私のたどる道が苦しみと十字架である為に、その人々は道から外れてしまう。愛だけが私の跡をたどらせる。だから私は愛を求めている。」                        (愛の招き)

 「彼らに対する私の愛はもっと深い、いかに些細な行為にも聖なる価値を与えて、日常生活を生かしていくばかりでなく、その惨めさ、弱さ、過失さえも、世の救いの為に、私は利用したいと思う。」     (愛の招き)

  「他の人々が悪に陥るのを防ぐ為に、苦しみを捧げる人々が居る。」
                             (愛の招き)
  
  「私の聖心の最も熱い望みは、霊魂が救われることである。」  (愛の招き)
                            
 『「悪魔は叫んでいました。『あいつらを放してはいけない。何としてでも苦しめてやれ!注意しろ!逃がしてなるものか…失望に落とし入れてやれ…。』扇動、わめき、涜聖の叫びが乱れ飛んでいました。突然怒りのわめき声がして、『かまうものか…まだ二人残っている、あいつらに絶望を感じさせてやれ!』私は三人の内の一人が、悪魔の手から逃れたことが分かりました。『早く早く、その二人を逃がしてなるものか。捕まえろ…失望させろ…早く!…行ってしまうではないか…。』それから地獄の中に歯ぎしりのような音がして、悪魔がたとえようもない怒りで吠えまくった。『ああ力…俺よりも強い全能の力…まだ一人残っている。これこそ奪われてなるものか…。』地獄中がもはや、嘆き歯ぎしりの入り乱れた、冒涜の怒声のるつぼと化しました。それで私はあの三人全部救われたことを知りました。望んでいるのに、たった一つの愛の行為さえ私には出来なかったが、喜びに充たされました。周囲の哀れな霊魂達が、み主にいだいている憎しみは感じないで済みました。けれども霊魂達の呪いや涜聖の言葉を聞く時は、み主が侮られ給わない為、み主を悲しませ奉ることを防ぐ為に、何を忍んでいいか分からないことは、この上ない苦しみでした。私の恐れたのは、時と共に、私も彼らと同じような状態になりはしないかと言うことで、それが又苦しみのもとになりました。私はどれほどみ主をお愛ししていたか、又どれほどみ主が私にお優しくしてくださったか忘れることは出来ませんでしたから…」
 「私は非常に苦しみました。それはちょうど火の流れが喉を伝い、身体全体に回るのと同時に、前にもいったような火の板に挟まれているようでした。私はこの苦痛を説明したくても出来ません。あまりにも激しい苦痛でしたから。両眼はえぐられ、神経はとがり、身体は二つ折りにされて身動きさえ出来ず、腐敗の臭気で、息もつまりそうでした。(この耐えられない臭気は、地獄から出てきた時も、悪魔の誘拐や責め苦の時と同じようにヨゼファを包んでいた。硫黄や肉の腐敗したり、焦げたりした時の臭気が、ヨゼファの周囲十五分か三十分も残っていたと目撃者達は言っている)でもこんなことは、神の御仁慈を知りながら、神を憎しまなければならない霊魂の苦しみに比べれば、本当に取るに足らないものでした。霊魂がみ主を深くお愛ししていたならば、この苦しみはなお更大きいのです!」』
                             (愛の招き)

 「これこそ霊魂に生命を与える聖心である。この愛の火は、人間達の冷淡や忘恩よりも強いのである。
 罪人達は私を引き裂き、聖心を悲しみでみたす。私の選んだ小さい生贄よ、おまえはこれほどの忘恩を償いたいと思わないか。
 世は滅びへと走っていく。私は神のみいつに対してなされた侮辱を償う霊魂を求めている。聖心は赦したい望みに駆られている…。そうだ、愛する子等を赦したぃ望みに…彼らの為にこそ、私は自分の血を流し尽くしたのである。哀れな霊魂達…どれほどの者が滅びて行くことか…。どれほどの者が地獄へ落ちることか。」                (愛の招き)

 「多くの霊魂がどんなに私を侮ることか…。でも一番私の心を引き裂くのは、彼らが自ら盲目的に滅亡へと躍り込んで行くのを、目の当たりに見ることだ。ヨゼファよ、自分の命を賭した霊魂の滅亡を見て、どんなに私が苦しんでいるかをおまえは理解出来るだろうか…。私の苦悩、それは自分の血が彼らの為にならないと言うことなのだ。さあ一緒に償いを捧げ、天の聖父がお受けになる侮辱を贖おうではないか。」 
  「忠実な霊魂の小さなグループが多くの罪人の為に憐れみをかち得る、私の聖心はこれらの人々の嘆願に無感覚ではいられないのだ、私は自分を慰めてくれる者を探していた。」                (愛の招き)

 「ヨゼファよ、私を慰めておくれ。霊魂たちが、もう一度私を釘付けにする……私の聖心は苦しみの淵である。……罪人たちが私を軽蔑し足蹴りにする。彼らにとっては創造主である私ほど、愛したくない者はないのだ。
 どれほどの罪が犯されていることか、どれほどの霊魂が滅びて行くことか。だからこそ私は、私のためだけ生きる霊魂のところに慰めを求めに来るのだ。
 多くの霊魂が滅びて行く。私の血はそれらのために失われるのだ。罪人たちは神の怒りをかう。だから私の愛のために己を屠り、贖罪の犠牲として己を焼き尽くす霊魂は、神の憐れみを引き寄せる。そしてこれこそ世を救う者である。」                      (愛の招き)

 「私は愛のある心、償いを捧げる霊魂、己を犠牲とする者が必要なのだ……。でも特に自分を委託する霊魂を必要とするのだ。」    (愛の招き)

 「…なぜ怖がるのか、私の力の方が悪魔とおまえの敵全部を併せたよりも強いと言うことを知らないのか。悪魔がどんなに激怒しても私の愛が許す以上の害を加えることは出来ない。愛する者に苦しむことを許すのは、それが必要だからで特に私の選んだ人々にとって、苦しみは霊魂を浄め、その上多くの霊魂が地獄に落ちるのをとどめるのに役立つからなのだ。」
                             (愛の招き)

 「聖父の聖なる御怒りを宥める為、私の苦難を続ける霊魂が必要なことを忘れるのではない。
 罪人から多くの侮辱を受けるが、私を愛する霊魂が沢山あるから慰められる。多数の霊魂が失われていくことはどんなに辛いことであるか知れない。しかしその苦しみは、私の光栄を減らしはしない。多くの罪人の罪を、たった一人の愛でも、私を愛する者が聖心を慰めてくれることが出来るということを、わかっておくれ。」               (愛の招き)

 「世は滅びへと走っていく。私は神のみいつに対してなされた侮辱を償う霊魂を求めている。」                   (愛の招き)

「突然私の目の前に悪魔が現れて、『あの女の足を縛り、手も縛れ』と叫びました。瞬く間に私は自分が何処にいるのか分からなくなってしまいました。堅く縛られたままどこかに引きずられて行くようにも感じました。
 どんなに苦しみがいやだからといっても、地獄に行かない為なら、どんな苦しめでも忍びたいとどれほど思ったか知れません。私には、この世のいかなる苦しみも、もはや愛することは出来ないという苦悩に比べれば、何でもないのだということがはっきり分かりますから…。地獄は憎悪と霊魂を滅ぼしたいという渇きで、息も出来ないほどです。」    (愛の招き)

 『「私は又あの淵に降りました。私は長年そこにいたように思えるのです。ひどい責め苦に遭いましたが、その中で一番ひどい苦しみは、自分にはもう永久に御主をぉ愛しすることが出来ないのだ、と思うことでした。ですうから、意識を取り戻した時には、気も狂うほど嬉しかったのです。…」
 「私はこの目で実際見たことから苦しむ勇気を与えられました。犠牲はどんなに小さくても、価値高いものであることが分かりました。イエズス様はそれらを摘み取って、霊魂を救う為に使ってくださるのです。どんな小さい機会でも、苦しみを避けることは、非常に愚かなことです。私達にとって、それがとても高価であるばかりでなく、霊魂達に大きな責め苦を免れさせるのに役立つからです。」』             (愛の招き)

 「己に打ち勝つことは一人の罪人に光明を与えることになり、面倒なことを喜んで忍ぶのは聖心の傷口をいやし、罪を贖い過失を補うことになる。咎められた時、心を乱さず却って喜んで受けるなら、傲慢によって盲目となった霊魂に、へりくだる勇気を与えるのである。」      (愛の招き)
 
 「 人々は私が慰めをもってゆく時や、私の聖体は喜んで受けてくれるが、私が十字架を負って戸口を叩く時、喜んで心を開けてくれる者は少ない。
  至聖なる神に対して罪が犯され、正義は贖いを必要とする。こんなにも沢山犯される罪に対して償いがなかったら、世は一体どんなことになるだろう。犠牲を捧げる者が足りない。余りにも少ない。」     (愛の招き)