ミ サ 聖 祭   第二週                      

          修徳文庫 16
                著 者  R・プリュス
                共 訳  小田部胤明 ・ 上野和子
                出版社    ドン・ボスコ
                再版発行 1962年8月8日
 
                第 二 週

     1. 託身の記念
     2. ミサと𦾔約
     3. 聖マリアとミサ
     4. 祈れ, 兄弟たちよ
     5. アーメン
     6. 献物としての犠牲であるミサ
     7. 彼に由りて, 彼と共に、彼において
 

          第一課 託身の記念

 ミサ中、司祭は託身の玄義を二度記念(起想)する。それは、
  信經の「人となり給い」
  終わりの福音の「かくて御言は肉と成りて」
の二カ所であるが、その都度教会は跪くことを司祭に要求する。キリストのほかの玄義を想い起す場合には司祭は直立のままで良いが、降誕の馬槽を記念するときには、その玄義は、司祭が立ったままこれを背負いきれないほど重く見える。ルブリカ(典礼書に赤い小文字で註した典礼法規)は、彼に跪くことを厳命する。
それは或いは、人と成り給うた神(即ち嬰児なる救い主)の前に跪いた羊飼や三博士に倣って跪くのかも知れないが、それと共にこの馬槽の玄義が(外観こそ愛らしいが)いかに圧倒的な力を持つものであるかを、われわれに想い起させるためでもあろう。
 ふしぎなことに、奉献を閉じる「聖なる三位よ献物を受け納れ給え」と、聖變化に引き続く「されば主よ…を記念しつつ」の二ヵ所では、救霊の玄義として、御受難と復活と昇天しか挙げられていない。ギリシャ教会の典禮は形式が良くまとまっておらず、典禮が一層豊富であるが、託身と降誕と聖霊降臨の三玄義をもげている。ローマ教會は、神の御子の地上への来臨が想い浮べられる所で二度前述の通り、深い意味をこめて跪くことにより、その沈默を補っている。

      一、御降誕の玄義の壓倒的な所

 一、神は、人間が原罪により失った超自然の恵みを、人間に再び興えないなら輿えなくても良かったが、それを回復して下さった。しかも、その回復の使者としては天使でなく、神の御獨子をお遣わしになったのである。                            
 今夜この馬槽において、寂寥(せきりょう)たる岩だらけの田舎にて、この御子、みどり兒が、うら若き御母の腕に抱かれていた。そのみどり見は、あらゆる世界をその手に握り、すべてのものを服従させ、すべてをその絶對的な意欲により治める御者である。
 十字架は更に劇的である。更に悲劇的で圧倒的な感じを興える。恐らく、それは感覚に訴えるからであろう。木、鞭、茨、釘、流された御血など。事實十字架は、われわれの心を悲劇的な恍惚にひたらせる。
 とにかく、人間の場合においても、われわれを納得させる幾つかの例を見出すことができる。例えば、人間の心といえど、もし愛に満ちていれば、人類を救うために殉教することができる。それならば、(勿論、感嘆に絶えないことではあるが、とにかく)人間にして神なる御者が、人間を救うために、犠牲となられることを承諾し給うたことも、納得できる。われわれは、(人と神との間に)並行線を見出し、標點を持つ。
 しかし、人間的な、どういう場面のうちに、託身の崇高さまでわれわれを導くものを見出すことができようか。馬槽の玄義に多少とも似通った、どういう場面があり得ようか。偉大な心を持つ人が、他人のために身を捨てるということは、われわれも理解できる。しかし、われわれのように貧しい者のために神が犠牲となり給うということは、どうして想像できようか。 十字架の玄義を想い浮べるときに教會は司祭を直立したままで置かせるが、馬槽を想い浮かべるとき跪かせるということも、この玄義のふしぎな崇高性を思えば理解できるのである。
 二、 その上、周知の如く、これら二つの玄義は互に結び合っており、馬槽は十字架の先き駆けでしかないのである。御降誕の祝日の八日間の日曜日の典禮は、福音奉奉読(ルカ2-33~40)において、聖ヨゼフと聖マリアがイエズスを神殿に捧げる場面を示しているが、これはそのまま、カルワリオの十字架の前表であり、そこにわれわれは、みずから「さからいを受くる徴に立てられたり」と申された御者の世から捨てられた姿そのものを見、更に苦しみを共にした御母の痛ましい姿をも見出す。
 三、もう一つ御降誕の祝日の典禮で注意すべきは、キリストのため聖ジャンヌ・ダルクと同じ刑(火炙り)に處せられた殉教者、聖女アナスタジアのことが御降誕の祝日の第二のミサのうちで(第二集禱文)記念されているのみならず、御降誕の祝日直後の三日間に、ほかの三つの殉教のことが記念されているという點である。即ち、聖ステファノ、使徒ヨハネ、罪なき嬰兒の殉教である。しかも十二月二十九日には、もう一人殉教者、一一七一年に、司教の權利を守ったため、カンタベリーの司教座大聖堂において殺された聖トマを記念するのである。
 四、われわれに要求されているのは、血の殉教ではない。しかし、われわれは清貧の神に仕えているということ、その神は生活の安楽を少しも求めずに、最後には十字架の上で釘づけにされた神であることを忘れてはならない。
 それ故、われわれのキリスト教的實踐の生活には強固な意志が是非必要である。御降誕の祝日の
八日目(一月一日御割礼の祝日)の福音の文は翌日(一月二日イエズスの祝日聖名)の福音文(ルカ2-21)と同じであり、御割禮の日の聖務日課(これは通常のミサと密接な関係を持っている)の朗読には、聖パウロのロマ書簡中の外見的にユダヤ人であっても真のユダヤ人ではない、本當の割禮は内的な心の割禮でなければならない、という教えが述べられている。この教訓をよく學び取ろう。
 御言は、薔薇水で出來た無意味な安易な宗教を齎すために託身し給うたのではない。馬槽は、道徳の實踐を要求する、すごみのある玄義である。この點を黙想し、忘れないように。

     二、 ミサの玄義の壓倒的な所

一、犠牲としてのミサ聖祭のすばらしさは一時さしおいて、後で默想することとし、ここではただ聖變化の度毎に(日々世界中捧げられるミサの総数を考慮すれば一秒に四回ほど行われるであろう聖変化の度毎に)示される「託身のいわば再現、再版」というふしぎな出来事をながめよう。
 背景は同じではない。託身では、ナザレットの小さな部屋。マリアの胎内。聖變化では、いつもの祭壇布が敷かれ聖體布がひろげられている祭壇。 ナザレットでは、神の御子を世に齎すことを承諾したマリアの言葉。祭壇では、司祭がキリストの御名において唱える比類なき言葉「これわが體なり、これわが血なり」
 現實も完全に同じではない。託身においては、御言はヴェールにつつまれたようにとは云え、人間の姿を取るが、聖體においては、聖主はパンの形色のもとに隠されている。託身の場合には、聖主は始めて地上に降りるのである。もしも聖主が最初にマリアの胎内に来られなかったならば、ミサの祭壇に聖主が實際に來り給うということは、あり得なかった。この意味において、聖體は託身を再生するというより、延長するのである。
 しかし、そうとは云え、聖變化の前に祭壇にイエズスは實在されなかったし、聖變化の後には實在されるということは、否めない。その意味において、聖變化は、現實に、託身の再生とも云える。それは、われわれの想像に絶する、類例なき出来事なのである。
 二、一回の聖體の聖變化が齎す奇蹟の数と性質とが研究された。モンサプレ師 (Monsabré) (1827-1907)が昔パリのノートルダム大聖堂で熱烈な訓話で述べたように、主はいかなるものの前にも尻込みし給わなかった。フランスのアカデミー會員ジォルジュ・ゴアイヨー(Georges Gau-yau)が聖體について、いみじくも云ったように、聖體は「人間歷史中、最も偉大な出来事」である。そしてこの出来事はただ一度あっただけではない。ミサの度毎にすべての司祭は、この神人を祭壇の上に再び降りさせる。それは天上のイエズス、即ち、その昔榮光に満ちて復活し、もはや苦しむことも死ぬこともなきイエズス、御父のもとに行かねばならず、それでいてわれわれと共に地上に踏みとどまることを望み給うたイエズスである。
 三、「活けるパン、活かすパン」と聖トーマス・アキナスが、わかりよい定義で總括しているようにこの活けるパンは、他人の糧となることを望み給うた。地上における使命が終り聖主は昇天によって、地上の生活に終止符を打たねばならなかった、だが、聖主の御心はそれでは満足できなかった。聖主は三十三年の御生活のうちに、もはや地上から離れることができなくなられた。全體的に見て(否、良い人々の方だけを見ても) イエズスの愛に値しないような人類を、主は救いに来られ比類のない愛で愛し給うた。そしてその無限の愛情のうちに、一つの解決、即ちこの世を去りながらこの世に踏みとどまるという方法を見出し給うた。御父の右に坐さんがために天に昇り、しかも「活けるパン、活かすパン」として、われわれの望む度毎に、われわれに御体を糧として與えようとして、われわれの近くに、聖櫃のうちに御身を隠す方法を見出し給うたのである。
 四、愛というものの性質から推測して(特にその愛が無限の場合)、聖體はほとんど自然に託身から流れ出たもの、託身から(強いられなかったとしても、少なくとも)導き出されたものと思える。愛する人は、その愛を証明するあらゆる方法を以て、相手の人に自己を興えたいと望むものである。御言は肉と成り給うたとき、御自身をその人間性において、われわれに興えずにはおられなく成られた。しかも、昔パレスチナにおいて主を仰ぐ幸幅を味った人々にして興えるだけではなく、世の終りまで、そして全人類に対してであった。
 一九一五年ケーニヒスベルグで捕虜の生活を送ったジャック・リヴィエールはこの愛の、論理的頂點を、次の文章を書いたとき、かいま見たのである。「私は、五官に觸れる形色のもとに自らを與えることに決せられたイエズスの氣持を、一瞬の内に私の中に見出した。私は今、他人の糧となることにより、苦しむ人々に力を與えるような何物かに成りたいと云う耐え難い慾求を、想像することができる。人のとりことなった神に當てはめてみるとき、これは極く自然な動きとなる。神は恐らく、無限な愛故に苦しみ、その愛の重荷に耐え切れなくなり、この重荷から遁れて人々の苦しみを和げるため、聖體の制定をなさったのであろう」    それはそれとして、もし愛がこういう論理を持つものであるとしたら、これ以上感嘆すべき美しいものは、他にあり得ない。
 五、この聖體の持つ素晴しさを、よく體得するように努力して、このような深い愛に觸ことによって、愛の何たるかを学び、現在の私の状態においてどの程度まで自己を捧げたらよいかと云うことをも學び取ろう。このイエズスの御體が今日よりもなお理解され、あがめられ、訪問され、そして主の愛が、人類すべての愛によって、もっとよく報いられるように願おう。そして、あらゆる冷淡、無頓着、無爲を補おう。

           第二課  ミサと舊約

      一、 イザヤに関する記念

一、福音奉讀の前に、司祭は祭壇の上へ身をかがめて、その昔イザヤが聖なる言葉を語る前にその唇を、燃える炭火で清められたように、今自分もまた、心と唇を清められんことを、神に願う。これが即ち、「わが心を清め給え」 Munda cor meum である。
 イザヤはキリスト前七百年頃の最も偉大な予言者である。彼は聖殿にて祈りを捧げている途中、神の力につつまれるのを覺えて云った。「ああ、どうしよう。到底駄目だ、自分は汚れた口の持主、不淨な唇を持つ民族のうちの一人だから」と。すると一位の天使が近づき、火箸で祭壇から炭を取って、イザヤの唇に觸れた。「汝の不義は取り去られた、汝の罪は消された」と。こうしてイザヤは力を得て、「わが民のもとに行け」と命ぜられたその使命のために、神に身を献げたのである。しかし民は始めのうちは、光を受けるのを拒み、そのため滅ぼされた。しかし時を経て、その切り株から若芽が生じ、イスラエルは、聖なる種子を産出することになった。
 この象徴のもとに來臨を予言された贖主について、イザヤは、贖主の不可思議な出と、恐るべき受難とを述べる。イザヤは、何とかしてイスラエルを悪い道から救い出そうとして、言葉を換えて忠告する。「もし信じないならば、汝らは立ってはいられない。もし掟を守るならば、ヤーヴェへの信頼と平静のうちに力を得るであろう。ヤーヴェは汝らを守るであろう」と。諸民族の上に呪いを招くものは罪である。神は或る民族を罰するために他の一つの民族を利用し、そしてその後、後者の民族をも滅ぼし給うのである。
 しかしヤーヴェは痛悔を好む。「もし汝らが義に戻るならば、汝らの罪が、紅の如く赤くとも、ヤーヴェはそれを雪の如く白く爲し給うであろう。イエルサレムよ、イエルサレムよ、起きよ、眠を醒ませ、汝らを蔽う塵を拂い、その鎖を解け。汝は神の怒りの杯を既に飲み過ぎるほど飲んだ」
 イザヤがこう餘り何度も同じことを説いたため、不敬虔なマナッセ王は、それに飽き飽きしてイザヤを眞二つに切った、と傳えられている。
 二、これは多くの教訓を含んでいる。その教訓は、民族だけでなく、個々人にも當てはまる。罪がどんなに大きな賠償を要求するかということ、そして、聖人や使徒の言葉に世間がどんなに敵對するかということを、忘れないように。
 また更に、神の使者という使命は非常に素晴しいと同時に恐ろしくもあるということも、忘れてはならない。しかし、神が力を與えるとき、使徒に不可能なことがあろうか。願わくは、神が私の唇をも、その燃える炭で焼き給わんことを。そして、その努力の報いとして殉教が興えられるならば、それは世にも有難い大きな褒美である。生木と同様に扱われた枯木!(ルカ23-31)
 神の眞實の親しみと神の眞の訪れを、本當に良く示すものは、積極的に自己を差出すことより、ひかえ目に謙遜することである。聖寵に満ちた魂は、神の近づき給うことより、遠のき給わんことを願う。それは、怖れるがためではなく、自己の貧しさを知っているがためである。
 三、ミサでもう一カ所、イザヤに關係した言葉が述べられる。それは「聖なるかな」 (Sanctus)で、これは實は教会がイザヤから借りて来たものである。イザヤは始めての召出を知り脱魂狀態に陥ったとき、「聖なるかな」を聞いた。それは天上の霊たちにより交るがわる歌われていた。「聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉、萬軍(地上の軍ではなく天軍)の主・・・・・・」と。
 この三重の呼び掛けのうちに、われわれは神のペルソナの三位と神性の一対とを、同時に見出すのである。それは丁度、聖アンブロジオが述べているように「或る一種の、孤獨の神を示すために一度限り云うのではなく、聖霊を省いてしまって二度だけ云うのでもない。多くの神々があるわけでないから複数形を用いてもいない。この言葉は三回、そして三回とも同じように述べられる。それは、この讃歌が、三位相互の區別と同時に、神性の一體を、理解させようとしているからである」
 舊約時代の信者たちは、この三聖誦 (サンクツス)(Trisagion) を、意味がわからないまま、読んでいた。彼らは、神の一體を信じていたが、三位については何も知らなかった。われわれキリスト信者はイザヤが聞いた。この天使たちの讃歌を繰りかえすとき、その意味を良く知っているし、そして天上に住む者と共にわれわれも、聖父と聖子と聖靈を祝っているのである。
 三重の「聖なるかな」を、屢々思って喜びとしよう。神の偉大さを喜び、そして三位一體を有効に信じよう。
     二、舊約における三大犠牲の追憶        

 聖變化の後である。聖なる犠牲は既に祭壇上にまします。司祭は、アベルアブラハムやメルキセデクが捧げた供物を、神が嘉し給うたように、聖主御自身捧げ給うたところのその御體と御血の犧牲を、聖父が當然受け納れ給わんことを祈る。
 一、舊約聖書における犠牲という言葉の通念
 a、通常、犠牲とは努力を要する行動で、捧げるときに苦しみを伴うことを意味する。        b、語源学的に、犠牲 (sacrificium)とは、「聖なることを為すこと」 (sacrum facere)から來ている。この語義には、「苦痛を伴う」という現實の観念は含まれていない。
 c、 歴史的に見れば、犠牲は、通常の解釈よりも、語源學的解繹に近いようである。聖アウグスチノは「犠牲(sacrificium) とは、神と聖なる一致をするためにわれわれが行う業そのものである」と云う。本質的に云って人間は絶對的に神に依存することを告白し(礼拝)、その御恵みを謝し(感謝)、必要な御助けを願う(祈願)。この目的を達するために、人は神から頂いた御恵みの一部を再び捧げて返すのである。神に何か捧げるときに、人間が何か多少苦しむと云うことは、人が元來罪を犯し神の意に反してまで被造物に執着し、不當な快樂を味ったのだから、それに対する當然の報いである。そのために、大抵の場合、何か捧物をするとき不自由を覺悟して、捧げなければならないのである。
 舊約において一般に犠牲とは(罪滅ぼしの観念が強い「贖罪のための」犠牲の場合のほかは)宗教的表敬以上の何ものでもなかったのである。即ちそれは、全能なる、萬物の主宰者の偉大さを認めることであったのである。
 二、アベルの犠牲―それは、アブラハムとメルキセデクの場合と同じように、完全なる犠牲(即ちイエズスの犠牲)を豫め示したものであるが故に、価値があるのである。アベルは、兄のカインとは違って、義人であった。いたましくもキリストがその兄弟なる人類の手で殺されると同じく、義人アベルも、血を分け合った弟即ち悪人カインにより殺されるのである。
 三、アブラハムの犠牲これは、象徴的であるだけ非常に大きな感銘を人に与える。神は一瞬たりとも、イザアクが父アブラハムによって犠牲として屠られることを望み給わなかった。しかし神は、アブラハムの信仰とイザアクの従順をお試めしになったのである。だが、新約の犠牲においては、聖父は聖子が犠牲になることを承知なさるのである。アブラハムにおいても犠牲はわれわれにとってあれほど不可思議なものであったが、キリストにおいては遙かに不可思議なものとなる。次の聖パウロの言葉を思い出して、その怖るべき意味を測ろう。「神のこの世を愛し給えることは、御子を賜うほどにして」
 四、メルセデクの犠牲アベルは最初の義人であり、アブラハムは神を信ずる者の父祖であるが、メルキセデクは、神に最初にパンと葡萄酒を捧げた人であって、この意味において彼は聖体を明確に想い浮かばせる。 北伊ラヴェンナ市の聖ヴィターリス聖堂には、メルキセデクの犠牲を表わす有名なモザイクがある。そのモザイクは、祭壇の役目の机の上に、二つのパンと、初代教会で使われたような手の二つついた聖杯の置かれた有様を描いている。初代教会では信者たちが犠牲用の葡萄酒を持って来るので、その葡萄酒は、手の二つついたこの甕のようなものに入られて、分配された。この甕(かめ)は助祭が、捧げ物を容れるために用いたのである。 司祭と信者たちが頂くために必要なものはこの大きな甕から取り出したのである。      
 ミサにおいて教會が舊約を追憶することにより、われわれは深い教訓を得る。即ち、舊約と新約との間には一致があり、新約は舊約の延長、完成でしかない。両者の間に、對立はないし、勿論衝突もなく、一致が存在する。舊約の犠牲は、十字架によってその價値を得る。事實、世界にはただ一つの犠牲(ぎせい)、即ちミサにより繰りかえされるカルワリオと、ただ一つの犠牲(いけにえ)なる聖主しかないのである。
私たちは、聖書、少くともその一番重要な箇所を良く知っているか?

      三、洗者聖ヨハネ

 この聖人は、最後の豫言者であるから、新約より旧約に属していると見て良いであろう。その特徴は、キリストのすぐの先駆者であるという點である。
 一、このような理由により、ミサは彼に特別な待遇を與えている。祭壇のもとで唱えられる二回(司祭と侍者)の告白の祈りでは、一回に二度ずつ結局四度、その名があげられる。奉献の部でも、「聖なる三位、この献物を受け納れ給え」に続いて「……洗者聖ヨハネの光榮のため・・・・・・にこれを捧げ奉る」とその名があげられる。聖體拝領のすぐ前、司祭は「世の罪を除き給う天主の羔」と三度唱えるが、この言葉は、洗者聖ヨハネが、彼の教えを聞きに来て彼こそキリストでないかと問うユダヤ人たちに、眞のキリストを指示するために唱えた言葉である(ヨハネ1-29)。
 二、典禮もまた特別の上席を洗者聖ヨハネに與えている。聖ヨハネ誕生の徹夜(6月23日)に朗読される書簡は、エレミアの預言書から取られている。教會はエレミアにつき云われた言葉を、聖ヨハネにあてはめて云う。「われは、汝を母の胎内に形づくらない内に、既に汝を選み、汝がいまだ母の胎を出ない内に、汝を聖とし、汝を諸々の民の豫言者とした」と。
 六月二十四日が聖ヨハネの誕生日であるが、典禮上誕生を祝われる聖人は、聖母と洗者ヨハネだけである。なぜなら、二人とも、原罪なしにこの世に生れ出たからである。聖母は御孕りのそもそも始めから原罪なく、聖ヨハネは生れ出るに先立って原罪から淨められていた。
 待降節中も、一月中も、聖ヨハネは屢々(しばしば)あらわれる。洗者聖ヨハネが、六ヵ月歳下の、みどり見のイエズスと遊んでいる繪を描いた画家がいるが、それは間違っている。なぜなら、聖ヨハネは恐らくヨルダン河で始めてイエズスに出合ったのだから。洗者聖ヨハネは、聖師の先驅を告げるにふさわしく、殉教し、八月二十九日がその斬首の記念日である。斬首の場面にも、先驅者の生涯の他の場面と同じように、多くの貴重な教訓が見出される。
 三、洗聖ヨハネは典禮のほか、信心業においても特別な扱いを受けていた。昔、洗者聖ヨハネに対する尊敬は非常にポピュラーであり、現代の「小さき花の聖テレジア」にする尊敬に(調子こそ少し違うけれど) 匹敵する。
 四、私もまた、一人の先駆者となるように祈ろう。先駆者には何が要請されるかを、注意深く調べよう。私は必要な条件、即ち心の寛さ、生活の厳しさ、信仰の焔、止むことなき熱心を身につけているであろうか。

          第三課 聖マリアとミサ

 一見、聖マリアと聖體との間には、相対的に二次的な関係しかないように見えるが、そうではない。この課における默想は、マリアが聖體に対するわれわれの信心に座を占めていなければ、われわれは聖體の秘蹟の真価にあずかることはできない、という事實を理解するにある。
 聖體は、秘跡としてであろうと、犠牲としてであろうと、マリアから離れれば損われるのであこのことを深く、かぐわしく悟ることができるように、このいつくしみ深い御母に、先ず願おう。

     一、聖マリアと、秘蹟としての聖體

 秘跡なる聖體とは何であろう。--それは、常に聖櫃のうちにいまし給い、そして洗禮によって聖とされたわれわれの靈魂のうちに、來り給う神人イエズスである。そして、この聖なる御體を拝領することにより、われわれの靈的生命は、その拜領に続く十分間、または十五分間、イエズスの聖なる御體の實在によって強められるのである。
 一、既に(第2週一課)默想したように、託身と聖變化との間には、まさしく並行線があった。一方にはマリアの光榮ある言葉(仰せの如く我に成れかし)、他方では司祭の光榮ある言葉(これ我が身体なり、これ我が血なり)。そして先に述べたように、祭壇上の、キリストの實在は、聖母の「仰せの如くわれになれかし」に依存するのである。
 更に深く掘り下げてみよう。   85
 司祭は三重の權能、即ちキリストの御體と御血に變化させる權能、こうして實在し給うイエズスを聖父に奉献する権能、このイエズスを信者に分配する權能を、持つ。
 a この三重の權能のうち、マリアは最初の權能を持たなかった。イエズスを秘蹟的に實在させることはできなかった。しかしマリアは、司祭に比しより多くまたより少く貰ったのである。より少なくというのは、マリアは品級の秘蹟を受けていないからである。より多くと云うのは、即ち司祭が祕蹟的實在を聖主に興えるのに反し、マリアは自然的實在を興えたからである。司祭は、託身し給うた御言を祭壇にくだらせる。マリアはこれを胎内即ち、いとも親しくふさわしい祭壇にくだらせた。司祭はその際、聖變化の言葉を発言するだけであるが、マリアは「仰せの如くわれに成れかし」の言葉のみでなく、自分の肉と血をも聖主に供えたのである。マリアこそキリストに、犠牲となるべき運命を帯びたキリストの御體を興えたのである。
 b 奉献の權能についてはどう云えるだろうか。ジャンヌ・ダルクの時代にパリ大學の総長だったジェルソン (Gerson) は、マグニフィカートに關する論説の第九において、いみじくも次のように云っている。「いとさいわいなる聖マリアの魂には、勿論、司祭の資格は記されてなかった。それにも拘らず聖マリアは、王的司祭衆のすべてに優る位置を興えられた。それは、聖體を聖別するためでなく、そのマリアの心における祭壇上で、純粋な、満たされた、完全なホスチア (捧物)を捧げるためであった」と。
 犠牲への準備として過ごした三十三年の間、マリアはイエズスを捧げ通した。そしてカルワリオにおいてもマリアは、犠牲を捧げる者の態度そのまま、十字架のもとにたたずみ、悲しみに刺し貫かれた心を通じて、聖なる犠牲に対し禮拜を捧げたのである。それは、典禮上の司祭職ではないが、それよりも深く、また優れた何物かである。
 イズエスが最後の息をひきとり、聖ヨハネが述べているように(ヨハネ19-34)御脇腹より血と水が流れ出たとき、世のために聖父に、この血と水とを捧げ得た人は誰であろう。それは、公けには 云われていないことだが、普通に考えても、聖マリア、即ち、永遠の司祭に親しく結ばれていた聖マリア、この犠牲の御母、以外の誰でもなかったであろう。
 c 司祭のもつ第三の權能、即ちキリストの御體、御血を分配する権能は、元をただせば聖母から受けついだものなのである。聖母は自分自身を與えたのに反し、司祭たちは先ず最初にマリアから受けたものしか與えることができない。われわれが拝領するキリストの御肉は、神の子羊を世に齎され聖母以外の誰からも齎なかったのである。
 初代教會の教父たちは(二世紀のAbercioの有名な碑銘)、信者たちが子羊の、生命を與える肉を拝領するときに、この肉が誰から齎されたかということを忘れないように勧めていた。彼らが拝領の準備をし、神に感謝するときには、現代のわれわれよりも、ずっとマリアのことに心をくばっていた。彼らにおいて度々マリアは「善き牧者」に比較され、その胎内の祝せられた果、即ち胎内に準備され、祭壇の秘蹟において人々に分配される「天使のパン」を以て、マリアは常に教会を養っていた。
 ここで特にマリアと秘蹟たる聖體を默想するとき、前述の三つの權能のうち、最初のが一番興味深い。二番目のは犠牲としての聖体におけるマリアの役割を、われわれに教えているのである。
 ここではただ、イエズスを最初に齎したのがマリアであることを銘記しよう。イエズスがわれわれのためミサ毎に祭壇上に實際に現われ給い、生き返り給うと云えるならば、その度毎にマリアがいつも大きな役割を演じているのである。初めて聖主をわれわれに齎したマリアこそ、真実に聖体容器(チボリウム)であるイエズスが来り給う度毎に、この聖なる贈物(イエズス)は、いつも同じ、汚れなき聖体容器から生れ出で給うのである。
 二、更にキリストとは、最初に生れたイエズスだけのことではなく、聖父の意に叶った御獨子の手足である所の、われわれ全體を指す。 マリアは、「全きキリスト」の御母として(聖霊の働きによってである)神人としての實在をイエズスに興えるだけでなく、更に、われわれ全體に超自然的生命を與えることにより、われわれをキリストの生ける手足とするという役割を演じている。
 われわれの靈的生命を豊かにする偉大な方法は、即ち聖体である。このわれわれの魂を豊かに する良き方法の源にマリアのいることを、どうして否定できようか。マリアはただ一度われわれにイエズスを與えるために取次いだだけでなく、イエズスがわれわれに来り給う度毎に、マリアはまた仲立ちなさる。そして、母としての取次の価値は、云うまでもなく、われわれを豊かにする超自然的なものの価値と釣り合っている。
 換言すれば、キリストの肉身的體の御母として、更にキリストの神秘的體の御母として、マリアはわれわれに聖體が輿えられる度毎に取次ぎをなさるのである。
 こう考えてみれば、われわれの靈的生命を強めるために定められたこの聖體の偉大な秘蹟に近づく度毎に、マリアに頼り、マリアに助けを乞い、マリアに訴えないわけはないであろう。普通の道順から云っても、聖體のイエズスに達するためには、聖體容器であるマリア、また仲介者なるマリアを経るのが當り前ではないだろうか。生命のパンはマリアを通じてわれわれの靈魂の中に来られたのであるから、われわれも生命のパンに到達するために、更に一層マリアを経て進んで行こう。マリアは道のりの大部分を進ませて下さったのだから、残り少い道のりも、マリアに向って歩もうではないか。
 馬槽で、羊飼も三人の博士も、イエズスを指し示すマリアを見出したのである。「イエズスの母そこに居れり」と福音書 (ヨハネ2-1)は述べている、祭壇で再現される馬槽にも、マリアがやはり居て「お近づきなさい、私の御子を求めているのですか。さあ、ここにおいでです」と申される。
 われわれは、聖體拜領や聖體訪問のときに、それにふさわしい気持や、禮拜、讃美、感謝の勤めを十分捧げることができない場合が多い。それ故、マリアの汚れなき聖心の熱情、禮拜、讃美、感謝を聖主に捧げようではないか。しかし、そうは云え、このマリアに則った捧げ方が、常に自明的であり、聖體に近づくときただこの一様の方法しかあり得ない、と云うわけではない。とにかく、マリアに對する信心にひたることによって、われわれの聖體に対する信心も、得る所が疑いなく大なのである。1

     二、聖マリアと、犠牲としての聖體   

 一、カルワリオにてイエズスは、御一人だけ犠牲になるのを好み給わなかった。十字架の柱のもとにはマリアがいた。云うまでもなく、キリストは神と人との間を仲介する唯一の仲介者にてましますが、キリストは同時に、マリアにも贖罪の業における一役を與えんと欲し給うたのである。われわれもキリストの四肢として、キリストの御受難の足りない所を補う立場にあるのだから、ましてキリスト信者の第一人者なるマリアの使命は非常な重大さを帯びている。勿論この場合、罪を贖うイエズスの功は、正確に等値的な功、即ち de condigno の功であるに反し、マリアの功は、(我らの功と同じく) 合宜的の功、即ち de congruo の功であるが、神がマリアの功を要求し給うた以上、マリアの功は贖罪の業において、最も重要なものであったと云わねばならない。
 理窟の上では、贖罪の業に合宜的な功が必要でなかったとしても、事實上、必要であり、マリアが力を貸さない限り、われわれは一人も贖われないのである。なぜなら、マリアの仲介は普遍的なもの、即ち一人残らず全人類に及ぶものだからである。
 二、ミサにおける犠牲が十字架上のそれと同じである以上、カルワリオにて特別の役を演じなければならなかったマリアが、ミサにおける御子の無血の犠牲に際して、大役を演じないでいるということは考えられない。カルワリオから共贖者マリアを省くなら、神の爲し給うたままの贖罪に傷をつけることになる。無限の唯一の仲介者イエズスの傍にて事實仲介を爲す、いとも聖なるマリアを、ミサの犠牲から省いてしまえば、ミサの捧物は、もはや十字架上のそれの完全な寫しとは云えなくなってしまう。なぜなら、ミサは重要な構成要素を失うことになり、また神が計画し、實現し、そして今なお實行し給いつつある聖なる計画が、きずものになってしまうからである。
 三、それ以上何か云えるであろうか。--然り。すべてのキリスト信者がイエズス・キリストの御體に結ばれるという教義 incorporation を利用するならば、云えるであろう。
 誰しも、マリアがキリスト信者の初花、眞實のキリスト信者であることを肯定する。そもそも信者は誰も、洗禮によって唯一の大司祭イエズスの肢(えだ)の一つとなり、秘蹟的司祭職ではないにせよ霊的な、王的な、真實の司祭職を興えられているのである。聖アウグスチノは云った。「われわれが、あの神秘的な塗油を受けたことによって皆キリスト信者と呼ばれているように、われわれは、唯一の大司祭のを肢(えだ)を為しているが故に、また誰も司祭なのである。使徒聖ペトロ(ペトロ前2-9参照)が聖なる民と王的司祭衆とについて述べたときも、まさにこの點を仄めかした」と。
 一般信者でさえこの通りだとすれば、マリアにおいては、なおさらである。 マリアはこの王的司祭職を、實に王的に有していた。その司祭職は前述のように、聖變化させる權能を持たない。即ちマリアは、秘蹟的司祭職、典禮的司祭職を有していなかった。しかし、多くの著作家が一致して認めているように、聖母はキリストの肢のうちの最初の御者であったから、マリアは神秘的司祭職の塗油を測り知れないほど受けていたであろう。著作家たちは次のように論じている
 幸いなるマリアは、すべての天使、すべての聖人の受けた聖寵を合せた以上の、多くの聖寵を一身に受けていた。その魂の壮麗さは、われわれの想像し得る聖徳を遙かに超えるものである。そして、聖トーマス・アキナスは、マリアの美しさは「神性の境に接する」と云っている。他のいかなる人間においても想定することのできないほどの聖寵の充満を聖母は頂いたのである。のみならず、いかなる美、いかなる特権も不足していないのである。
 こうして論理上まさに、マリアは秘蹟的司祭職を受けてはいなかったが、マリアは司祭獨特の内的な賜、司祭職の比類なき權能に必要な特種の恩寵、それから最も司祭的な徳の習性なども惠まれていたのである。例えば、聖アントニノは、或る日フィレンツェで説教中(他の幾人かの教父達も述べていることではあるが)、神の母は品級の秘蹟は勿論受けていなかったけれども、司祭職に等しい所の尊厳、司祭を司祭たらしめる品級の秘蹟に含まれた所の聖寵、聖靈が興え給う各階級の聖職(司教職、教皇職を含む)に必要な獨特の徳をも、マリアは神から興えられていた、と断言した。
 聖アルベルトは、蔵言八章二三節の「われは永遠の昔より叙品された」という言葉(尤も箴言の真の意味は「品級の秘跡を受けた」とは似ても似つかないものであり、「我は永遠の昔より建てられた」という意味でしかないが、聖アルベルトはこれを「叙品された」という意味にもじったのである。彼の基礎となっているこの思想は誤ってはいない)を用いて、マリアをして一風變った、暗示的な説明を語らせている。「永遠の御父は悪魔を追いはらうために私(マリア)を祓魔師になし給うた。聖殿に潔い人々を入れ、汚れた人々を追いはらうために私を守門になし給うた。予言者の述べた神托が私の身に實現されるので私を讀師になし給うた。光を與える黎明と暁の星に比較されるから、私を侍祭になし給うた。聖なる御言を觀想し、そして、聖書記者に傳えるために心に御言の業の記憶をとどめたので、永遠の御父は私を副助祭になし給うた。御血が人々の飲料となるように、私は人々の靈魂の糧であるイエズス・キリストの御体を形成し、分配するので、私は助祭と司祭に叙品された。また私はすべての教會に對する牧者的思いやりによって、司教とされた。そして最後に私は、すべての人類の母であり、地上と天國、煉獄と地獄において教皇よりも大なる權能をもっているので、私は教皇にされた」と。
 このようなわけであるから、聖なる司祭イエズスが祭壇においてその使命を果しつつあるとき、 マリアも祭壇の側にいると結論することは独断的であろうか。聖祭の功徳を十二分に受けようと思うときマリアの守護を願うのが最上の方法であると断定することは一人よがりであろうか。われわれの霊的(王的)司祭職は常に働かねばならず、殊にそれが司祭の秘的司祭職と共同すると(即ちミサの間に)最も強く働かねばならないのであるが、その瞬間に、マリア以外の誰が、われわれを、霊的司祭職の真髄に導き入れることができるであろうか。
 四、ミサの不思議な性質について考えてみよう。 貧しいわれわれは聖祭に列するとき、自分自身、或いは自分の持つもの以外の何も捧げることができないであろう。幸いにマリアがここにいる。典礼は繰り返し繰り返し何度マリアの御名を呼ぶことであろう。 告白の祈りにおいて、信教において、「聖なる三位よ・・・・・ 献物を受け給え・・・・」において、「生ける者の記憶」につづく「聖なる遍巧によりて…」において、主禱文につづく「主よ、願わくはわれらを・・・ 悪より救い給え」においては云うまでもなく、教皇レオ十三世以来祭壇のもとで唱えられるようになった祈禱文(ミサ後の聖会のための祈り)においても、マリアの御名が上げられている。われわれの虚無と聖なる犠牲の無限大との間にあ大きな淵を埋めることのできるのは、マリアのみであろう。
 もし今までミサ聖祭にあずかりながら、そこから期待されるほどの恩恵を得られずにいるとすれば、それは、マリアに對する信心が不十分であって、われわれが犠牲の献物に沈潜すべきとき自分の力に頼り過ぎて、マリアの力を借りなかったためであるまいか。
 そんなことでは、われわれのすべての行動を鼓舞し行動の魂でなければならないマリアが、われわれの霊的生命のそとに居るようなものである。「イエズスの母そこに居れり」(ヨハネ2-1)。マリアの捧げた犠牲を、御子の献げた犠牲に併せ、われわれの奉献の際の努力を、マリアの力強い守護に合せるのは、何と望ましいことであろう。
 われわれも思念の上では、カルワリオにおけるマリアの傍らに立とう。カルワリオにおいてイエズスは、聖父父の光栄をあげ、われわれの罪を贖うため、全人類の代りに御自身を捧げ給うのであるだが、このイエズスの御心の境地に御母と共にわれわれも入れるよう、御母に向って願おう。
 スタバト・マーテル (Stait Mater)の歌から霊感を受けて、われわれもまた次のように云えるであろう。「御母よ、私にも又御子の傷をお印下さい。どうか御子の苦しみを御身と共に同情し、 御身の苦痛を共にし、罪深い哀れむべき世間のため御身と共に悲しみ、そして贖罪の犠牲の常に捧げられるこのミサにおいて、これに列席を許された私をして、御身と共に、この犠牲をできる限り完きものとするため、私の身を捧げさせて下さい」

          第四課 祈れ、兄弟たちよ (Orate, fratres)     
 
 心靈修業は實に特に祈りの時であり、日常の仕事と縁を切ってしまったこの心靈修業期間中に聖なる省察、深い默想、神との靈的對話などを成功させるために、他のすべてを犠牲にしなければならない。読書、手仕事などは、祈禱の邪魔にならないで却って潜心の状態を助ける場合にだけ、許されるのである。
 このようなわけで、司祭は、奉献が終ってミサ典文が始まる前に、会集に向って、神に一層専心することを勧めるために「兄弟たちよ、祈れ……」 オラーテ、 フラートレス (Orate, fratres)云う。われわれはこの勸告に従わなければならない。「兄弟たちよ、祈れ……」 司祭は聲をあげてこう云いながら、会衆全部に聞えるように、手で丸く圓を描くのである。 この勧告は非常に大事だから、われわれはそれに、つんぼであってはならない。

      一、ミサはあらゆる種類の祈祷のモデルを示す

 一、念禱 殉教者の時代にミサは、(丁度今もなお聖金曜日の聖務の始めに、そうするように) 司祭がミサの祭壇の前に無言で身を平伏することから開始された。 われわれも聖祭にあずかる度毎に、遅刻しないだけでなく、 少しは早目に来て、やがて行われる偉大なミサのため、沈黙のうちに、準備をしなければならない。(自宅でもっと長い黙想をして来ることは言うまでもない)
 現在ミサでは、「生ける者の記憶」と「死せる者の記憶」の数分間と、司祭が御體と御血を拝領した後の暫時の沈默以外には、念禱はなされないことになっている。
 しかし念禱が含む教訓をよく體得しよう。
 二、口祷は
 a 密誦を唱える時のように、唇だけを動かし、聲を出さずに
 b ミサ典文の間などのように、低いで
 c 或る場合には聲をあげて、また時として屡々歌われることもある。
   連禱の形式をとって。 キリエ・エレイソン (Kyrie eleison)は、初代教會において、信仰を渇望する求道者、公の償いを命ぜられた罪人、牢獄や鑛山につながれた殉教者、乃至は教會全體、或いは特定の教會のために行われた嘆願の名残りである。 助祭が意向を述べると、皆で「キリエ・エレイソン」應えたのである。
 詩編の朗讀の形式をとって。階段祈禱の「天主よ、われ審き給え…………」や、洗手式の「主よ......われは手を洗わん」(詩篇25)のように。なお入祭文は、司祭が香部屋から祭壇に進むとき歌われた詩篇の名残である。
 祈願文の形式をとって。集祷文、密誦、聖体拜傾後の文のように。これらは、今日では、ほとんど定型的な祈願文となっているが、昔は、即興的に唱えられていたのである。祈願文は、神に呼びかけるときは「……し給う神よ」であり、神に嘆願するときは「……するを得しめ給え」であり、終わりは、いつも同じく「われらの主、イエズス・キリストによりて」で結ばれている。これらの定型的祈願文は、初期キリスト信者の、禮拝、信頼、信仰、嘆願などの心から自然に発する叫びや、ギリシャ教會のミサの祈願文に比べて、冷淡のように見えるかもしれないが、實はここにローマ的精神の特色が存する。即ち、信者個人の感情と熱心さは勿論、つけ加えられてよいのであるが、テキストとしては、表現の冗長(じょうちょう)より地味が望まれ、神秘的誇張よりも簡潔の方が望まれる。なぜならば、誇張された表現は、すべての信者に向くとは云えないからである。----それらの祈りを唱える前に、司祭は振りかえって「われら祈らん」 (Oremus) という。聖祭中には何度もこれが爲される。
 榮光誦 (Gloria) は特別に説明しなければならない。ミサにおける祈りは、嘆願とか悔みとかの祈りしかないわけではない。ミサ全體が一つの禮拜であるのみならず、グロリアは特に神の御栄えを歌っているのである。グロリアこそは最も純粋な祈りと云える。なぜなら、祈る人がもはや自分の事でなく、ただ神の事のみを考えているから。 本當の感謝は、貧しい自分の受けた數數のお恵みを神に感謝するだけでなく、神が御自身に具え給うた偉大さをも感謝するのである。「主の御榮えの大いなるがために謹みて感謝し奉る」
 ミサのグロリアを、日頃ミサを默想するときの、好きな題目としよう。特に愛する、射祷(呼祷)として、榮誦 (Gloria Patri) を採用しよう。少くとも、自分の利益、自己の欲求に心を奪われている靈をそこから引離すために。 先ず何よりも心がけるべきことは、神と神の利益のことでなければならない。
 祈祷文およびミサ典文の大部分のような、願い奉るための美しい祈りや、グロリアのような、大きな禮拜の祈りのほかに奉献の美しい祈りのあることを忘れてはならない。「至聖なる聖父よ受け入れ給え-----聖なる三位よ受け入れた給え----主よ御身に捧げ奉る」

      二、祭壇上の犠牲はそれ自體大いなる、禮拜、感謝、償い、嘆願を構成する  
 
 一、ミサと禮拜---禮拜はわれわれの第一の勤めである。だが、われわれはいかにして、神に ふさわしい敬意を拂うことができるであろうか。人間は、ただ一人では、それをなす力がない。ミサにおいては、われわれと共に、そしてわれわれの名において、十字架上のイエズスと一緒に、イエズスの、無限の禮拜の力が、聖父に引き渡されるのである。犠牲を捧げるものも、犧牲(いけにえ)に捧げられるもの(キリスト)も、聖性そのものである。こうして、この禮拜により、神の聖性に、十分なる光榮が帰せられたわけである。
 御言は、託身の前に、天においては聖父にし、對等者間の敬意しか捧げることができなかった。そこでは、禮拜をするものが、禮拜を受けるものに依存していると云う關係がなかったから、本當の意味の禮拜はなかった。御言は、人となり給うて以来、この地上から聖父に向け、(人間が神に対して現わす有限の賛美とともに)無限の価値のある敬意をも捧げることがおできになるようになった。なぜなら、御言は(人となった為被造物に結ばれた)人となり給うた後も御言はその神性を失い給うことはなかったから。
 二、ミサと罪の償い――人間は、罪を犯したので、元來虚無でありながら、神の無限なる稜威に傷をつけたとも云える。人間は同僚に對するように神にして云った。「君は存在しない。君の誠は意に介さない。僕は自分の好きなことをする。君の意思に敗けていないぞ」と。このようなわけだったから、人間の犯した罪は無限のものであった。或る侮辱がいかに重いかということは、侮辱を行った者の如何ではなく、侮辱を受けた者の如何によって測られるのだから。
 人間は、このような忌わしい行爲を、いかなる方法によって十分に補い、神に最もふさわしく償うことができようか。勿論それは不可能なことである。しかし、聖主が犠牲として御自分をお捧げになったその奉献は、人間として人類の名において捧げ給うたのみならず、同時に神としてお捧げになったので、無限の償いの価値値を持っている。聖主がカルワリオにおいて決定的なものとして爲し給うたと同じ事が、われわれの祭壇におけるミサの度毎に爲されるのである。
 三、ミサと感謝(Eucharistia エウカリスチアまたユーカリスチアという語は聖体の意味に用いられるが、語源上は感謝という意味にである。この点について後で第三週五課さらに良く黙想するが、ここでは次のことだけを指摘しよう)
 人間はこの世に生れ自然的および超自然的恵みを受けたので、神に感謝する義務がある。だが、その受けた恩寵と、それを與え給うた御者にふさわしい感謝を、いかにして捧げることができよ。
 沈黙だけがそれにふさわしいものであるだろう。詩篇(ヘブライ語原典によれば65-27)も「沈默は最上の讃美である」と述べている。フォリニョ(イタリア)の福者アンジェラ (Angela de Foligno) も、脱魂のときに「至善を含む至美」を見た後、次のように断言している。
 「私が何を見たかと仰言るのですか、それは彼御自身のほか何物でもありませんでした。それは一つの完全さ、それは内的で満ち溢れるような光であり、それを表現できる言葉も、それに比較できる何ものも、ありませんでした。體を有するものは何ものも見えませんでした。丁度天上 にましますが如く、そのときは地上にも同じく、彼はましましたのです」と。そして聖女は、彼女の見たもので而も表現できないものを説明するために「それは唇を閉じさせるような美でした」と述べている。
 神の偉大さに値する讃美を與える口は、ただイエズスの御口のみであった。なぜならイエズスは御言にてましますから。イエズスは肉となり給うて後も、無限なる聖父に無限なる光榮を歸する能力を失い給うことはなかったし、そして、御父に實にふさわしい讃美の捧物(ホスチア)ともなり給うたのである。
 四、ミサと嘆願 祈祷の四つ目の目的は嘆願(希願)、即ち願い奉ることである。嘆願は、また最も優れた祈りであるミサ聖祭の、四つ目の目的でもある。
 原則として物に缺けている者だけが、物を願うのである。聖主は天上のあらゆる寶を享有しているので、御自身のためには何も要求なさることはない。聖父が聖子に必要なものを何で拒み給おうか。
 しかし聖主はわれわれの代りを勤め給うた。 聖主はわれわれのうちの一人となることを欲し給うた(托身)。それのみならず、われわれのうちの一人一人を御自分のものとし、一つの「完きキリスト」においてわれわれ全部を御自身に一致させることを欲し給うた(アウグスチノが述べたように「キリストの体の充満」を欲し給う)。これこそ、われわれの體がキリストの御體に結ばれるという玄義である。
 イエズスは、われわれの要求を全部取りまとめ給う。人々のため犠牲となることも辞し給わなかったお蔭で、われわれの嘆願も、イエズスがわれわれの名によって御自らを聖父に供える場合に、聖父に受け納れられるのである。ヘブレオ書(10-19)が述べているように、キリストは御血によって聖所に入り給うたのであり、われわれも聖主のあとに従い、かつ聖主と一體となっているので、聖所に入り得るのである。われわれのキリストはその民のために「執り成しを爲さんとて常に活き給う」大司祭である(7-25)。ヨハネ福音書十七章における、次のキリストの司祭的祈りに耳を傾けよ(これはそのまま、そして屡々黙想しなければならない) 「父よ、父は御子(キリスト)には、萬民の上に權能を賜えり・・・・・・わが祈るは、われに賜いたる人々のためなり……汝のものはわがものなり……父よ、われに賜いたる人々を御名を以て護り給え・・・・・・わが喜びをかれらの身に圓満ならしめんがためなり・・・・・・ 願わくはかれを眞理のうちに聖ならしめ給え…… 父よ、これ汝のわれに在しわが汝に居るが如く、かれらもわれらに居りて一ならんためなり……願わくはわれに賜いし人々も、わが居るところにわれと共ならんことを。これ世界開闢以前よりわれを愛し給いてわれに賜いたるわが光榮を、かれらに見せんためなり……」
 そして聖主は、自分の願いが果して聞き入れられるかどうかと疑う嘆願者の如くでなく、必ず聞き入れられると確信せる者の如くに、祈り給うている。なぜなら、聖主は、祈りの相手(聖父)と一體であられるから(カ-ル・アダム著「キリスト真相」のうち「イエズスの祈祷」参照)。
 ミサの度毎に聖主は、最後の晩餐の高間における如く、無限の犠牲の讃美を繰りかえしつつ、聞き入れられるという権利を主張しておられる。それ故に、われわれの嘆願も、イエズスの聖心を經て目的を達そう。ただわれわれ自身のためだけでなく、世のために祈ろう。ミサの中の主禱文を通じて(主禱文において聖主は、われわれの願うべき事柄を言いつくしておおられ、主禱文は大抵の場合生聖體拜領の準備として、最も古い聖體の典禮にも見出されているが)次の事柄を願おう。
 -聖主の御名の尊まれんことを
 -御園のらんことを
 -御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを
 この祈りの先を続けて強調するならば、第一に「魂の糧」これは聖體拝領のうちにわれわれが求めに行く糧のことであり、終りに「われらを悪より救い給え」という「悪」とは即ち、この聖なる糧よりわれわれを遠ざけキリスト御自身の祈りを無駄に終らせるところの罪のことである。

      第五課 アーメン

 今度は「アーメン」という一語につき默想すべき段階である。
 キリストの全生涯はアーメン (Amen)という言葉、或いは、これと同じ意味のイタ・パーテ(Ita Pater)「然り、父よ」(マテオ11-26)という言葉に總括される。人祖の不從順を補うために、神の御言は託身により御自身(即ち無限の御者、聖父に等しき御者)を、従順にして服せる状態に置くことを望み給うた。主は
「従える者となり給いしなり」(フイリッピ2-8)。主は一生涯、服従する。そして、死(しかも十字架上の死)に至るまで従える者となり給うたのである。
 私もまた「もう一人のキリスト」とならなければならない。それ故に、キリストの内心の基礎をなしていた「然り、父よ」という祈りを私自身の祈りとしよう。

     一、職責を受け容れること

 一、職責というものは、各自を聖ならしめるための枠組である。私は德を實行するに當って、いわば多少人工的な夢のような環境において實行するのではなく、一定の仕事を一定の環境において實行しなければならない。
 二、神は摂理という意思を持っておられ、攝理からわれわれに関する助かりと聖性が出て来るのである。私がもし、摂理の望み給う所に居なければ、私はこれら多くの聖寵を失うであろう。いずこにも、私の運命を保障するに必要な最少限の聖籠はあるにはあるが、私の霊的生活に有益で必要な多くの尊い助け手の聖寵は、神が私に望み給う所に私が居ない限り得られないのである。
 そういうわけであるから、職域を選擇することは重大事であり、また神の御光りに照らされて選んだ職域においてその本務を忠實に果すことも重大事である。
 三、屢々逃げたくなるものである。特に日々の仕事が單調であり、われわれの夢みていたものに反する場合にそうである。先ず何よりも自分の義務に忠実であること。そして熱心に努力し、自分の専門に熟達すること。何かする場合にはそれを立派にするように心がけること(勿論あまり細かくてもいけないが十分慎重に仕事をしなければならない)。
 四、仕事に當たるときには、できる事なら喜びを以て、むしろ熱狂的な調子をこめて、しなければならない。「忍耐のまことの姿は、義務が負担であるということを全然気づかないことである」とよく云われる。

      二、種々の事件が齎すもの

 一、戰争、同盟、革命のように一般社会にかかわりあるもの
 a 怖れというものは、屢々恵みであり、何もかも無くなるということは解放である(テイボン曰く「惨事ほど ものを簡単化するものはない)ということを自分に云い聞かせよ。
 b もっとひどい出来事もあり得ると思って自ら慰めとせよ。 怖れているほどの苦しみはめたにこない。(それはちょうど我々が期待していた喜びが非常にまれなのと同じよう)。
 c すべてのものを通して神は御業を行い給うということを悟れをれ
 d われわれの時代は、幾つかの缺陷があるにも拘らず
  美しいものである。というのは、すべての問題は既に提供されており、神が必要であることを表している。
  最上のものである。と云うのは、この時代は私が自由になし得る唯一のものである。私はそれより最善 の結果を引き出さねばならない。
  もし危険がそのうちにひそまれているにしても、それは私にとり良いものである。危険があればこそ偉大な 靈は生き甲斐がある。
 二、私の周園の人にかかわりあるもの
 a 喜びも悲しみも、周園の人と一緒にすること。
 b それらの人々のため安易な生活を望まないこと。なぜなら、安易はわれわれを弱くするからである。
 c それらの人々の世俗的および靈的の利害の問題をすべて神に委せること。
 三、自分だけにかかわりあるもの
 a 喪--既にこの世を去った人々のために永遠の生命を望み、それを信ずること。これらの人々は御父の家に行ったのである。
  彼らのために祈ること
    この地上の生活はほとんど意味のないものであるという気持ちを彼らから受け取ること。
  b 財産の喪失など 
  生きるために(更に、死ぬために)これほど沢山の物が必要であろうか。
    仕事がつらければつらいほどなおさら喜ぶこと。
    
             三、 健康状態および精神の気分が齎すもの

  一、健康上
  a 病気
  それを過大観しないこと
  一度に今日一日だけを生きること
  もしできるなら、苦を忘れるために働くこと
  平然として療養すること(自分の苦についてあまり語らないこと)
  超自然を上手に利用して向上に努力すること
 b 老年 フェーバー師 (Faber)は「病弱者のための注意」という題目のもとに、幾つかの賢明な注意を興えているから、それから少し書き抜いてみよう。
 口祷や念祷の長いものはやめて、また、信心を却って働かせなくするような長い聖務をやめて、 それよりも、途中で屢々休みながら霊的読書をした方がよい。これは餘り疲れさせないし、神との一致を容易ならしめる。
 聖主の生涯、われわれに対す御愛るなど、特に託身について黙想することとし、四終よびそれに関連した出来事はり黙想しない方がよい。換言すれば、題目としては靈魂の静寂さを失わせるほど怖ろしい事實よりも、平和を與え慰めるような事を選ぶのがよい。
 ずっと以前に犯した罪は余り考えるな。
 もったいぶって批判したり、批評したりする悪い癖をよく注意せよ。「舌をつつしむことは弱者にとり克己の偉大な職場である」
 寛大な親切心を持ち、いらいらした感情に負けるな。
 それと同時に、普通以上の同情心も警戒せよ。
  二、性向
 あるがままの自分を見極めること。試煉はわれわれの自由にならない。いつも平和であるように最善をつくすこと。感情の苦しいおののきの内にも、意思により絶えず平和でいられるのである。このことは、色々の異るプランのもとに行うことができる。
 ジャンヌ・ダルクのように、「すべてを良い方に解釋する」よう努めること。
 いつも客観的であること。ものごとを大げさにしないこと。なぜなら、無意味な苦しみは屢々このような事から起るのであろう。
 霊的方面においては特に勇気づけてくれるような題目を利用すること。

     四、霊的傾向が齎すもの 

  一、乾燥
 信仰の精神が完全になるよう自己を修めること。教義(ドグマ)に眞實の優値を與えること。自分の感情よりも教義の方に重きを置くこと。
 信心生活においては、なるべく自分のことは考えないこと。即ち、神にする感嘆、愛、人々の魂についての思索などが上位を占める遠心的な霊性をわがものにして、自分の苦しさなどは餘り考慮しないこと。
 二、己がみじめさに對する敏感
 それは謙遜を生む場合があるから、或る程度まで許されるが、失望させるほどになったり熱心を冷ますほど強くなれば宜しくない。
 聖主が神として義人、罪なき者を好み給うとしても、人として、罪ある者を一層愛し給う、ということも忘れてはならない。なぜなら、キリストは罪ある人々を救うためにこの世に来られたのであるから。ボスエがノートル・ダム大聖堂で行った御降誕に闘する説教を参照せよ。或いは聖ベルナルドの、諸聖人の祝日の最初の、即ち、あわれみの御父は必然的にまた罪人の御父である、という言葉、或いはサレジオ聖フランシスコの二番目の訓話「私はいつも慈愛(ミゼリコルド)の王座はわれわれの貧(ミゼ-ル)しさであると云って来た」という言葉、或いは教皇ピオ九世が一八七〇年にずシネシー(イタリアに近いフランスの町)の「聖母訪問童貞會聖堂造營」のためのいわゆる奉加帳の冒頭に、大きな慰めを含んでいるが故に、書き入れたいと望んだ「神は、淨配としてふさわしいほど清らかな魂を見出せないときには、それらの靈魂に病を持たせ、そして醫師としてわれわれを訪問し給うのである」という言葉を参照せよ。
 三、布教の無能力
 やり方に誤りがないか、方法に缺陷がないか、技術を信頼し過ぎてはいないか、人間的方法を餘に見過ぎていないか、などを良く調べること。
 眞理を拒む者の善意を云々できるのは神だけであることを忘れぬこと。
 われわれの失敗や無力さを神に捧げることは、非常に贖いのためになる。

         第六課 捧物としての犠牲であるミサ   
      
 この課の默想の目的は、生活において、できるだけ完全な形に、御旨を實現させることにある。私も「もう一人のキリスト」とならなければならない。キリストの絶え間なき息、いつも持たれた渇望は、一體何であったろうか。それはイタ・パーテル (Ita Pater) 「然り、父よ、かくの如きは御心にかないし故なり」という叫び、および、 アーメン (Amen) 「お望みのままに」であった。このイエズスの心の基本的な傾向をわがものとしたとき、私も始めて「もう一人のキリスト」となれるのである。
 しかし、そこまで達するには、神が私に都合のよいもの、或いは必要なものとして示されたものを、採用するよう努めなければならない。これらの方法につき具体的な形の決心が必要である。有益な作戦計画を作るには、今こそこれについて考えなければならない。
 次のようなことを默想して力を得るのが一番良い。

     一、ミサがいかにして献物としての犠牲となり得るか

 トリエントの公會議は宣言した。「ミサで行われる聖なる犧牲は、かつて十字架上で御血を流して御自らを捧げ給うたキリストが、また再び、そして今度は御血を流さず、このミサのうちに現存し給い、そして犠牲に供せられ給うのである。實に、ホスチアも同一であり、司祭も同一である。かつては十字架上で御自らを捧げ給い、今は使徒たちの行う聖役を通じて御自らを捧げ拾うのである。違うのは、捧げ方だけである」と。
 この聲明は、次の三つのことを断言している。
 一、ミサの犠牲と、十字架上の犠牲は、ただ十字架上においてはその献物のため血が流されミサにおいては流されないという違いがあるのみで、同一の犠牲である。
 二、十字架上にても、ミサにても、いずれも司祭が同じなので、同一の犠牲である。
 十字架において神に聖なる犠牲を捧げたのは誰であったろうか。それは聖主であった。
 ミサにおいて犠牲を捧げる者は誰であろうか。見たところでは、司祭である。しかし、彼はた自分のことをするためにそこに居るのではない。そして、その手と唇を聖主にお貸しするのである。さればこそ、パンと葡萄酒をキリストの御体と御血に突如として變える、美しい聖變化の言葉を唱えるとき、司祭は第三者のことを云う如く「これキリストの體なり」とは云わず、唯一の司祭たる主イエズスに成り切って直接「これが體なり」と云うのである。勿論この場合その體とは、司祭の人間としての體ではなく、司祭が代理をつとめているところのイエズス御自身の體である
 三、司祭、即ち奉献者が同一であるばかりでなく、捧げられる犠牲(いけにえ)もまた同じなので、同一の議牲なのである。
 カルワリオで犠牲(いけにえ)にされたのは誰であったろうか、救世主イエズスであった。よく観察すればわかることである。そして祭壇で犠牲(いけにえ)にされるのは誰であろうか。ここでもまた、それは救世主イエズスである。聖木曜日の最後の晩餐における最初の聖體に始まり、十字架上の「成り終わり」まで続いた状態においての、イエズスである。後ほどこれについて更に深く默想しよう。多くの著述家は、このパンと葡萄酒との二つにわけられた聖變化のうちに、聖主が十字架上で御血のすべてを失い御體と御血とに分離され給うた姿を見てとっている。
 四、このミサの否定し得ない威厳故に、教會は信者たちに、成るべく多くミサに與ことを勧めている。日曜日はミサに與らなければならないし、その他の日も任意に與るように。

     二、自分も聖主と共に己を捧げること

 一、われわれがキリストと一の體を形成するという教義は、このことを強く要求している。われわれは洗礼によって、頭であるキリストと「唯一」の一體を形成したのであるが、それは、われわれがキリストから受ける威厳を盾にとって何もせずに無気力でいてよい、ということではない。キリストが救世の行為をなし給う度毎に、われわれは、生けるキリストの眞實の延長としてキリストと共に、役を果たさなければならない。 キリストがわれわれ全體をその神秘の一致に引き入れ、素晴らしい複數として自らを世のため御父に捧げ給うとき、云うまでもなくわれわれはキリストと一なのであるから、キリストと共に自分を捧げなければならない。手足を頭から離すことはできない。私という者が位置を變えるとき、私全體が移動するのであって、一つの手、または片目、片足が「私はここに踏みとどまる」と云って、全體の活動に参加せずにいることはあり得ない。キリストが「全きキリスト」としての完全な姿を見せ給い、かの偉大な行爲のため活躍し給うとき、私はキリストと一致しキリストと共に己を捧げ、更にキリストと共に、聖なる司祭と聖なる犠牲とに参加しなければならない。私が洗禮によって受けた「王的司祭職」(それは勿論霊的なものに過ぎないが、非常に強い)は、私にそのことを要求する。もしこれを實踐しなかったとすれば、私のキリスト的精神は無に等しい。
 二、このことは、ミサの祈りの言葉が複数形になっていることにも表現されている。
 司祭は、極めて稀にしか單數形を自分の名において用いない。大抵の場合、司祭は、その民全の名において、信者全體(複数形)としてに願い奉り、犠牲を捧げるのである。
 このことは奉献の部の祈りにおいて明らかに現われる。「主よ、われらはこの救霊のカリスを主に捧げ奉る。そは、われらと全世界との救霊のためなり」 そして、すぐあとで、「主よ、願わくは深くへりくだり且つ痛悔の心を以て捧げるわれらを受け納れ給わんことを。 主なる天主、われらの犠牲をば…」続いて、「祈れ、兄弟たちよ、われと汝との捧物が全能の父なる天主に叶わんために」と。これに對し侍者は、すべての信者を代表して、「願わくは献物をわれらにも、全聖會にも······」と答える。
 「生ける者の記憶」において、司祭は、始めから聖なる犠牲を教會のため、頭と手足とを含めてミサに輿るすべての人たちのため、殊にミサを立てることを願った人たちのために捧げるのである。(ミサのもたらす色々のお恵みは、この最後の者、即ちミサを願ったものが一番豊かに受けるのである。昔、信者たちはパンと葡萄酒を持って来た。しかし現在は、これにかえ信者は謝礼金を出し、司祭は「この賛美の犠牲を捧げる所の僕、婢何某を記憶し給え」と、その人の名あげて祈るいるのである。)
 聖變化の後にも複数形で祈られる。 「天主よ、これらの物を、主の聖なる天使の手を以て、主のいとも尊き祭壇に運ばしめ給え・・・・・・拝領し奉るわれらをして、すべての天の祝福に充たさしめ給わんことを」
 三、ミサの禮式の幾つかも、複数形を表現している。例えば、
 一滴の水を、カリス(杯)に入っている葡萄酒に混ぜること
 殉教者の聖遺物が、祭壇の石の中に安置されてあること
 献物の上に司祭が手を伸べる掩手の動作。この動作をボスエは次のように説明している。聖なる司祭が御自らと、キリスト信者全體とを、これからいよいよ聖変化させるパンと葡萄酒と共に捧げ、そしてその全體が唯一のそして共同の献物であるということを示している、と。(この掩手は、𦾔約時代に行われそして同じ意味を持つていた動作をここに寫したものである)
 初期キリスト教時代に行われた「共同聖祭」即ち数名で共同に捧げた祭 (concélébration)の慣習は(現在では叙品式だけに名残りをとどめているが)明らかに複數形を示しており、それはすべての司祭が共同参加すること、そして司祭と共に信者全部が共同參加する點を強調していたのである。

           第七課 彼に由りて、彼と共に、彼において
               (per ipsum, cum ipso, in ipso)

 ローマの昔の典禮においては、司祭は聖なる形色(聖體)をさく丁度その時、それらを揚げて信者達に禮拜させたのである。
 その後これには二重の變革が起った。即ちパンをさくのは所謂「小さき奉擧』より少しあとですることに改められ、また、特に一二〇八年に亡くなったパリ司教ユード・ドゥ・シュリー(Eudesde Sully)以来、聖變化の直後にあの荘厳な奉擧が行われることがならわしとなったのである。幾人かの人は、この荘厳な奉舉はベランジェ(Béranger)の異端(聖體におけるキリストの實在を霊的實在に過ぎないと説いた異端)に對抗する目的で行われたものであると見た。しかし他の人たちは荘厳な奉擧は、パンは事實上、葡萄酒の聖變化の後にしか聖變化されないと説いていたパリ大學の神者ビエール・ドゥ・シャシール(Pierre de Chantre) の意見に抗議する目的で行われたと見ている(この人の見方の方が正当らしいなぜな、ユード・ドゥ・シュリーの指令が出たときには、ベランジェはもう一世紀前に死んでいたから)。全教會は、この「奉擧」を採用すると共に、別のパリ司教ギョーム・ドゥ・セニュレ (Guillaume de Seignelay) が一二二〇年にこの奉擧を信者たちに合圖するために定めた鈴の使用をも採用した。
  〔註〕御血の入ったカリスの奉擧は一三一一年即ちアヴィニョンの最初の教皇クレメンス五世のもと    に実施され、そしてこの儀式は十六世紀の終りにトリエントの公会議のミサ典書によって始めて    義務づけられたのである。
 「小さき奉擧」は存續したけれども、形式は萎縮した。むしろ、この動作の直ぐ前、聖別されたホスチアを以てカリスの上に十字架の記を三度しるしつつ司祭の唱える、次の記憶すべき言葉の方が重要である。「彼に由りて、彼と共に、また彼において、聖霊と共にすべての光榮と讃美とは主に歸すべきなり」

     一、彼に由りて

 一、アダムに由って超自然的生命は失われた。第二のアダム(キリスト)は我々を聖なる特権に復帰せしめるため、自らを犠牲にする。御言は永遠の響きを持って「見よ、我は来る」と発言する。その時が来ると御言は地上に来たり給い、その御降誕、御生涯、御死去は我々を救う。至聖なる者と我々との間に罪によって出来た淵は、埋められることになる。惨めな我々と、いと高き御者との間には、何者かがその腕を十字の形に広げて、裏切れる人類の上に神の審判の降るのを防ぐのである。聖パウロの言うように、人たるキリストが中間にましまし、愛の奇跡によって仲介し、我々に助かりを得させるのである。
 二、キリストなくして救霊はあり得ない。聖主は唯一の通路であり、聖主は真理であり、聖主は原理であるり、聖主はアルファであり、オメガーである。聖主は唯一の道である「我道なり」。聖主は唯一の門である「我は門なり」。そしてどの羊も、聖主の所を通らずして羊小屋に入ることは出来ない。
 「小さき奉擧」の「彼によりて」は、先ずこのことを我々に思い起こさせる。ミサにおいて聖主は仲介者としての役割、態度そのまま、我々に現れ給う。いと高き所には、御父、聖三位。即ち「聖なる父、受け入れ給え」「聖三位よ、受け入れ給え」と、キリストによって捧げられた教会の賛美は、三重の聖なる神に捧げられるのである。一番低い所には人間。即ち、虚無の踊り場には、罪を犯した憐れむべき者でありながら、罪を悔やみ、そして善を願いつつも、その数限りない罪に相応しい償いを自分の力だけでは神へ捧げる能力のない人類が居るのである。無限の施工者と、虚無の罪人の間には、イエズスが、我々のために御自らを捧げ、我々すべてを後ろに控えたまま御父の前に現れ、赦しとお恵みの扉を開き給うのである。これが即ちミサである。
 三、このようなわけであるから、聖祭におけるすべての祈願は「我らの主イエズス・キリストに由りて」という語で結ばれる。キリストの仲介を阻むものはない。御父のすべての宝の鍵を持っておられるのは御子でないか。二重の意味においてそうである。先ず、「御父と共に聖霊との一致のうちに世々に生き且つ治め給う御子」なる御言としてである。第二に、贖われた人類の頭としてである。この後者については、神秘體の頭としての聖主を黙想するとき、即ち「彼において」を黙想するときに掘り下げよう。

     二、彼と共に

 一、ここに至っては、仲介だけでなく「共同」と「同伴」が問題となるのである。聖主は我々に道を開き給うただけでない。道すがら聖主は我々と共にあることを望み給うたのである。仲介者は我々の上にいるに反し、同伴者は我々の傍らにいる。
 トビアを案内した天使ラファエルを想うこと。そしてエンマウスに赴く二人の弟子と同道し給うた聖主を思うこと。(ルカ25・13)
 二、我々は
 a 主の模範が我々を引き上げてくれなければ、苦難、暗黒、失望、悲歎の時、どうなるであろうか。
 b 主の聖寵がなければ
  -先立つ聖寵がなければ、どうなるであろう。
  -手助けする聖寵がなければ、どうなるであろう。この聖寵は我々が最も惨めな苦しみにある時我々を訪れることを忘れない。迷える羊を探しに来るよき牧者を想うこと。(ルカ15・4)。何かの家具の後ろに転がり込んでしまった古代ギリシャの銀貨を、あちこちと探し回る主婦(ルカ15・8)。家出した放蕩息子が、旅先で大饑饉に逢い、或る小作場で、豚の食う豆がらで己が腹を満たしたいと望んだが、豆がらさえ呉れる人がなかった時、その放蕩息子を襲った後悔の念(ルカ    15・26)、弱くて無鉄砲なひよこたちを、いつも翼の下に集めてかばおうとした牝鶏(マテオ23・37)を想うこと。
 三、 次の事のうちに大きな喜びを見出すこと。
  イエズスその御目差しによって私に意味するもの(ペトロに向け、富める青年に向け、聖フランシスコに向け、投げ給うたイエズスの御目差)
 その力強き御手が私に意味するもの。「我を強め給う御者においてわれは万事を為し得」
 イエズスの聖言葉がが私に意味するもの。福音書は何と豊かであろう。「われに従う者は暗黒を歩まず」(ヨハネ8・12)
 聖主の祈りと、その絶え間なき献物が私に意味するもの。「人のために執り成しさんとて常に活きたもう」(ヘブレオ7・25)
 イエズスが、その御母であり私の母でもあるマリアを通じて、私に意味するもの。
 イエズスが聖体を通じて私に意味するもの。エリアを力づけたパン
のことを考えよう。
「『立ち上りて、食せよ。道は汝にとりて遠過ぎるが故なり』エリアは立ち上りて飲食し、この食事によりて強められ、四十日四十夜、神の山ホレブに到るまで彼は歩けり」(列王記上19・6-9)
 イエズスの教會が
 教職者として私を眞理のうちにとどめ
 祭職者として私に必要な秘蹟を興え
 牧職者として私を正しい道にとどめて、私に意味するところのもの。

      三、彼において

 一、三つの言葉のうちこれが一番神秘に満ち、同時に我々の贖いの言語に絶した真意を表す言葉である。「彼に由りては」仲介を、「彼と共に」は協同を意味したが、「彼においては」成就をなしている。よく理解するように努めよう、これこそキリスト教の精神の神髄である。
 二、神の御独り子は単に、外からの救い、外面からの解放をなし給うたのみではない。この外面からの解放というのは、例えば、多大な金銭を支払うことによって贖ったような場合であり、即ち、贖う人と贖われた人との間には固有の絆が出来上がるが、その絆は勿論血族的なものまでにならず、その二人を同じ血を分かつ間柄までにはしない。
 このような外面からの贖い方をされただけでも、もうすでに素晴らしいことだが、それでは、「主において」ではなく「主によりて」救われるにとどまる。
 キリストが我々を再び聖なる者とするために、我々をキリストに化し、我々を聖主に並んでキリストたらしめると言うことは、玄義中の玄義、一つの神秘、妙なる発見である。聖主は外から我々を助けるのではなく、我々を聖主と一つのものとなし給う。聖主は頭であり、我々は手足である。聖主はブドウの樹であり、我々はその枝である。頭と手足も、ブドウの幹も枝も、ただ一つの「一体」を構成する。キリストにおけるこの「復興」の計画を考慮して、教会はミサの奉献の部において司祭をして「主は人生を奇しくも造りたまいしかど、さらにこれを妙なるものに改め給いしにより」と言わせるのである。最初の(人類の)聖化のご計画は、すでに非常に美しいものであったが、キリストはそれに加わり給わなかった。今はキリストが実際に登場し給うのであるから、どんなに素晴らしいことであろう。
 今までの黙想で、我々はこの偉大な教義に近づいていた。聖パウロはこれを奥義(ミステリウム)と呼んだが、これは福音の精髄だから、我々の霊的基礎としてここで掘り下げて黙想しなければならない。
 三、ミサにおける「彼において」が幸いに我々に想起させるこの頂上に到達しなければ、我々は結局、本質的なものを見出さなかったことになる。そして地平線以上に上がれないままである。
 洗禮によって私がキリストと真に一なることを理解しよう。(丁度博物館で一つの絵を摸写するように)ただ外面からキリストを複写するだけでなく、うちからキリストを延長し、外観は「私」でもうちは「もう一人のキリスト」となるように、さらに熱心に努めよう。(常に生活においてこの内からのキリストを実現するということが、私にいかなる意味を持っているかを、私は測ったことがあろうか)。聖主がミサにおいて御自らのすべてを捧げ給う時、私が生贄の外にあることは許されないのである。
 もし私がキリストと事実、一體であるならば、私もまたミサを捧げる者とも一なのである。それゆえ、聖主と共に捧げよう。(これについてはすでに六課の二で黙想したが、教義によってさらに照らされて、ここでまた思い起こすことがよかろう)。
 もしも私がキリストと事実、一体であるならば、私はまたミサにおいて捧げられる犠牲(いけにえ)とも一なのである。それゆえ、犠牲のホスチアと共に己を捧げよう。
 このようにして、ミサにおける献物は、ただ一人のキリスト、孤立したキリストではない。即ち、カルワリオにて御血を流した歴史上のキリストがその昔の役を全世界の祭壇の上でただ一人続け給うのではないのである。昔の犠牲のお陰で、私も聖主の御体のうちに入り、それと結合されることが出来るようになったのである。それ以来キリストは複数形の人物となった。そしてこの複数形のキリストこそ、ミサの度に、かの偉大な行為を能動的に行うのである。これを理解してこそ、聖祭全部を理解したことになる。
 四、屡々、ミサにはどういうふうに与ったらよいか、と尋ねられる。即ち、司祭が唱える通りの祈りを唱えなければならないだろうか、自分一人で祈って良いだろうか、祝日毎に變る典禮の部分と、祝日によって變らない部分との、定型的な祈りをいくつか黙想し、そのほかのことは余り重視しなくて良いだろうか、と聞かれる。
 この点については既に少し触れてきた。
 肝心なのは、司祭およびホスチアとして、自分を聖なる生贄のうちに入れ込むことである。そこに達するように、今述べた方法のうち一番有益なものを選べばよいのである。形式よりも精神が重要である。
 [註] 司祭は公けの役を演ずるから、個人的信心にひかれずに、種々の決まった祈りを唱える義務が   ある。これに反し普通の信者は、公けの、外的な役を持っていないのだから、もっと自由に祈って    よい。 一番勧めたいことは、云うまでもなく司祭の祈りに合せてついてゆくことである。しかし、必要    以上に堅くなったり狭くなっては良くない。また、それ以上に よ い方法があれば、それを用いてよい。
 救い主イエズスとの一體のうちにさらに深く私を引き入れてくれるミサを、十分利用しよう。そして日々、キリストの真の手足として、ますます熱心に生きるために、度々「もしこれがキリストであったら、いかにし給うであろうか」と自問しよう。むら気に優位を占めさせてはいけない。私はもはや、生きていないし、生きてはならない。私の肉はただキリストのみが居給わなければならない。「我活と雖も最早われに非ず、キリストこそわれにおいて生き給うなれ」(ガラチア2-20)                    
 それ故、ミサに與れば、私は日常の態度において特に「キリスト」そのものになって生きることがたやすくなり、他方また日常「キリスト・イエズスにおいて」という態度であれば、ミサ毎にキリストに相応しく結ぶつく力を與えられる。

 

 

 

 

                   ミ サ 聖 祭
                      修徳文庫 16
                著 者  R・プリュス
                共 訳  小田部胤明 ・ 上野和子
                出版社    ドン・ボスコ
                再版発行 1962年8月8日


                    序   文
 ミサほど、宗教的思索に美しいテーマを提供するものはない。なぜなら、 ミサは十字架上のキリストの犠牲(いけにえと振り仮名していないときは、ぎせいと読むこと)を再現するものであり、地上にミサ以上偉大なものはないからである。
 われわれは、祈禱を準備し、裏づけるために、色々の題目を三十ここに選んだが、
 ---八日間の心霊修業に用いるため、毎日幾つかずつ默想してもよい。
 ---一カ月間の心霊修業に用いるため、毎日一つの題目だけに限ってもよい。
 われわれの目的は、キリスト教的生活の中心であるミサ聖祭の意義を深めることであって、司祭が自分のため、また牧する羊たち (信者たち)のために本書を用いることができるのみならず、一般信者、修道者らもこれを用いることができる。
 ミサは驚くべき深遠な意味を持っているのであるから、それに与る者は、司祭も一般信者も、 それに沿って行く素晴らしさを、日ましに深く理解すべきが當然である。                   聖イグナチオによる三十日間の心霊修業は四週間に分けられている。われわれも、その分け方を採用して、聖イグナチオの洞察したところから示唆を受けると良いと思う。即ち(第一週に)自己の改善から出発し、(第二週には) 聖主の模範を學び、(第三週には) 十字架、(第四週には)栄えの玄義を黙想することに しょう。

          第 一 週
1. ミサを一瞥して
2. 祭壇の下の祈りの精神
3. 福音と祭壇
4. 動作と色彩
5. ミサと死の思索
6. ミサと痛悔の精神
7. ミサと聖性
8. 心を繋げよ

 

 

       第一課 ミサを一瞥して
 最初から、特に大事な次の二つの眼目について默想し、それに對する理解を深めるように努めよう。細部の検討は後廻しにして、ハッキリした見通しを興えるものから取りかからなければない。
  ――ミサは静止的な祈りであるよりは、むしろ能動的に行うもの(アクション)である。換言すれば一種のドラマの形式をとった祈りである。
 ――ミサは個人的な表敬ではなく、集團的な禮拜で、大勢で行う行爲である。

   一、ミサは能動的で、ドラマである
 一、ミサは祈りである以上に犠牲(いけにえ)である。しかもそれだけでなく、禮拜、表敬、祈禱の価値を 具えた犠牲である。つまり最上の祈りとなるのである。
 わが子イザアクを献げることを承諾したアブラハムの動作を試みに思い浮べてみよう(創世記22章)。彼は不動の姿勢で祈りを捧げたのではなく、それは不思議な行動の展開であった。見よ、アブラハムは犠牲に必要な薪や刀を用意する。屠る場所にイザアクを連れてゆく。疑いの陰一つなく信賴し切ったわが子の質問に耳を傾ける。むごくも正に一刀のもとに・・・・・・
 祭壇でも、これに似たことが繰りかえされる。そこでは至聖なる神の正義に基く要求が全體を支配している。しかもその要求は、聖子(キリスト)の愛によって永遠に承諾されたのである。聖子は燔祭の要具(犠牲の手段)を準備し給う。御自身そのものを犠牲(いけにえ)として聖子の御名において聖子と共に(聖父)捧げる職權を、司祭に委ねつつ。
 二、祭壇では勿論、血は流されず、目に明らかに映ずるものもない。十字架上の犠牲が眼前に再現されていることをわれわれに示すものは、ただ信仰だけである。しかし、犠牲は厳然たる實在であって、否定できない。われわれは、心ゆくまで、それを観想しよう。
 トリエント公會議(1545年一1563年)は、その宣言書中に次のように断言している。
 「われらの神にしてわれらの主なるイエズスは、われらの永遠の贖いを齎すために、死をもいとい給わず、十字架なる祭壇にて、御父に唯一度御自身を捧げ給うたとはいえ、その御死去によってその司祭職が断絶することを欲し給わなかった。かくて、敵にわたされんとする夜の最後の晩餐にて、聖主は最愛の淨配なる教會に、人間性(われらの本姓)の要求に適合した可見的な犠牲の祭を残し給うたのである」
 「イエズス御自身、パンと葡萄酒の形色のもとに御體と御血を、神なる御父に捧げ給うた。そしてパンと葡萄酒の象徴のもとに、主は御體と御血を使徒に糧として興え給うた。この時、主は使徒を新約の司祭に任じ、そして御體と御血を捧げることを、使徒、並びに司祭職における使徒の後継者に命令し給うたのである」
「このミサにて行われる聖なる犠牲のうちには、十字架上にて唯一度、血を以て御自身を捧げ給うたその同じキリストが含まれており、血を流さずして犠牲(いけにえ)にせられるのである」                              この宣言以上に簡潔に、ミサの實體そのものを良く説明したものは、恐らく他にはないであろう。
  
      二、一個人の祈りでなく集團の禮拜
 一、ミサとはイエズス・キリストを中心にした家庭的集いである。と云えば、この點につきミサのハッキリした観念を得られるであろう。
 聖主が始めてこの聖祭を制定し給うたのが晩餐中であり、形色(外観)としてパンと葡萄酒とを選びうたという事を見ても、ミサが大勢で協同であずかる饗宴であるということがハッキわかるのである。
 ミサ中に信者たちは一緒に、或る幾つかの動作を行い、一緒に或る幾つかの態度をとることが要求されている。つまり一緒に腰を下したり聞いたり起立したり頭をさげたり、自分の身に十字を切ったりしなければならない。一緒に、ミサに仕える侍者の言葉に合せたり、歌ミサの場合な合唱したりすることが望ましい。一緒に、一人残らず聖体を拝領するのが望ましい。或る著述家はこう云っている。「饗宴に列席しながら、愛饗にあずかる(一緒に食事する)のを拒む者は、一體何と人から云われるだろうか」と、
 二、初期キリスト教時代には、聖祭に招かれたのは集會全體(エクレジア)であり、止むを得ない理由でもない限り信者がそれにあずからない事は考えられなかった。集會に属する者全部が、幼児も含めて、一體となってキリストの御體と御血を拝領したのである。
 初期キリスト教徒にとっては、聖體拝領によって、個人個人の信者がキリストに一致するとうことよりも、贖われた人類の頭なるキリストのそばにすべての信者が一致することが重視さていた。
 三、當初は司祭職に叙品された者全部が主日に共同聖祭 concelebration の形でただ一つのミサを行うのが慣習であったが、後世、司祭の人數がふえるに従ってミサの數も多くなって来たため、その習慣は次第にすたれてしまった。つまり司祭が個人個人でミサを捧げることができるうになったのである。大ミサ(荘厳ミサ)は今日に至るまで続けられていることは勿論であるが、大抵の信者は、どちらかと云えば、大ミサのような一層公式な共同祈禱において一致するよりも、簡単な讀誦ミサ(低誦ミサ)にあずかる方を好むようになって来た。
 云うまでもなく、ミサをして「集團的」たらしめるものは、ミサの荘厳さではなく、むしろミサにあずかる人の心構えである。即ち、大ミサにあずかっても全教會との一致を目指さなければ集團という意義は全くなくなってしまうことがあり得るし、反對に、狭い禮拜堂の私擧ミサのような、讀誦ミサにあずかっても、その意向のうちに全教會を包含しているなら、その人は、大ミサにあずかっているときよりも一層普遍的な禮拜をなしていることになる。
 なお、客観的な見地から云えば、まことの信者は、居住地を管轄する聖堂で行われる公式なミサに出るのが當然である。
 四、しかし、或いは次のように云う人もあろう。ミサは、われわれも一役演するドラマであるより、むしろ、われわれがただ観衆として見ている見世物のような感じが強くないだろうか?司祭はただひとりで祭壇に昇り、信者に背を向けているではないか? 司祭は司祭で自分の受持ちの祈りを唱えているし、信者は信者で或いはロザリオを唱え、或いは祈禱書を讀んでいるではないか、と。
 起原に遡れば、ミサは饗宴にほかならなかったから、その主人たる司祭は、客の信者たちと同一の方向に向っていたのである。後世ミサが獨自の形式をとり、どこでも大體同じような形になったときに、司祭は信者と向い合いに顔を合せるようになった(ローマの聖ペトロ大聖堂では今日でもそうしている)。更に降ってから、便宜上、司祭が信者に背を向けることになったのである。しかしながら、式の主な部分は鈴で合図されるし、少し注意さえすれば、われわれは司祭の動作に連れて祈りを進めてゆくことがむずかしくはないのである。
聖フランシスコサレジオ或る女修院長に、ミサ中に祈りとしてロザリオを誦することを勧めたことは、この祈りの内容がミサの典禮と大分異っているだけに、一見不可解のようだが、別に深い意味があったわけではなかろう。或いは照明が不完全だったために祈禱書が讀にくかったのかも知れない。それに、現在ほどミサ典書も普及されてもいなかったろうし、何もせずにいるよりはロザリオの祈りを唱えた方が数倍も望ましいことは論を俟たない。ミサにおいては、すべての兄弟と相共にイエズス・キリストの犠牲と一致したいという意向が肝心なのであって、表面的に司祭の祈禱についてゆくということは二の次だからである。
 五、ラテン語の問題が次に残っている。ラテン語は一般の人々にとっては、ますます縁の遠い言語になりつつあるから、これを用いると結局信者から司祭を孤立させることになりはしないか、という問題である。
ラテン語の長所は先ず何よりもその公共性、そしてそれ以上にその普遍性にある。と云うのは、世界中のどこの国でも同じ言葉の祈りが唱えられるからである。それに、段々ミサ典書が普及し、ラテン語に對應した譯文がつくようになってからは、信者が司祭の祈りに正しくついてゆくことも可能になって来た。勿論、一般大衆にとっては、ギリシャ正教會やプロテスタントのように、典禮書が自國語であった方が解りやすいであろう(尤も正教会では通用語ではなくパレオ・スラヴ用語を用いている)。ラテン語がわかりにくいという短所を補うためには、ミサを良く説明すると共に、必要に應じてミサの式文を譯した小葉紙を配布すれば良いであろう。(翻案よりは忠實訳文の方がずうと宜しい)。
 ミサを熱心に黙想しよう。そうすれば、ミサの使徒として、その精神を周の人々にわからせることができるであろう。
  この最初の默想(修業)の結論として、次の二つの決心を勧める。
 第一 黙想を続けてゆく間能動的であれ。ミサが能動的なものであると同じく、心靈修業もまた能動的な展開である。先ず神を見出すために各自が最善を盡くすこと。そしてこの目的に必要、乃至有用な心構えをもつこと、即ち、沈默、潜心、祈禱への集中、心靈修業指導司祭に對するる素直な態度と信頼など・・・・・・
—第二 心靈修業では、各人がバラバラでなく皆と力を合せて努力せよ。ただ一人で心靈修業をする場合は別問題であるが、心靈修業は一般的に言って大勢であずかる集園的なものである。めいめいが他の人々の鑑となり、皆と心を合せて祈り、この協同的な修業にあずからなければならない。
 ミサ中の「生ける者の記憶」の祈りに際しては、「ここに集れる人々」は「信仰と敬虔」を有すると唱えてるし、また他の祈りの箇所では「聖なる民」と云う表現も使われているように、皆のため、その信仰と敬虔と聖性の御恵みとをこい願おう。
心靈修業は、めいめいが何かを得るために、ただし皆と一緒に力を合せて行うものである。

     第二課 祭壇の下の祈り(階段祈禱)の精神
      一、最初の大きな教訓、祈る前に準備せよ
 一、歴史的回顧 ミサ厳密に言えばむしろ「ミサの準備の部」(第一部)は入祭文(入祭誦)において始まる。
 その入祭、および求憐論(キリエ) Kyrie (主あわれみ給え)は、昔祭壇に向う司教の、壯麗な入堂の際に歌われた聖詩集、および連禱の名残りにしか過ぎないのである。
 祭壇の下で唱えられる「天主よ、われ裁きて」の詩篇と告白の祈りとは、聖祭に臨む司祭の個人的準備の締めくくりのようなものである。
 二、ここに示される教訓は次のようである。世俗的な仕事をした直後に、祈りを始めないこと。殊にミサでは(その犠牲は云うまでもなく)その祈りがキリスト御自身のものであるから、前以て潜心して準備することなしには、これを始めてはならないと云うこと。
 潜心するには口禱を以てしても良く
 或いは聖金曜日のように念梼を以てしてもよい(聖金曜日に司祭は祭壇の前に平伏して、だまったまま祈る)
 聖イグナチオはその心霊修業にて、祈りの直接および間接の準備を勧めている。即ち、神の御前に出ること、現場の想設をし(聖イグナチオ霊操の一方法で、観想しようとする事柄を眼前に描くこと)祈りのための物質的條件を處理し、祈禱のハッキリした目的を決定することなど。これらは、神と密接に一致するときに、自分をできるだけ深く、かつ完全に神のうちに沈めるのに役立つのである。
 そして経験に徴しても、初心者は云うまでもなく、相當祈りに馴れた人々の場合でも(神が特別の、無償の聖寵をもって助け合う時は別として)神が人をその個人的な靈の力に打ち委せ給うとき、以上のような心遣いは非常に役に立つのである。

      二、われを裁きて(詩篇四二)
 この詩篇が選ばれたわけは、その一章に「われ天主の祭壇に赴かん」 Introibo ad altare Deiという言葉があるからに相違ない。
 --敗れてイエルサレムから追い出されたイスラエル人が、再び聖殿で祭をあげるためイエルサレムに戻りたいと熱望した歌である。それで、この歌は同時に、
 --謙遜を現わす讃歌である。イスラエル人は罪を犯したため、 流刑も當然の罰だということを知っている。
 --希望の歌でもある。神は慈愛にましますではないか。何とて悲しみに打ち沈んでいるのか。    --喜びの歌でもある。再び聖なる山に神の祭壇を見出す日を夢み、若き日を悦ばせたあの感情を想い起して。
 --これらの渴望は、ミサの始まりに非常に適しているが、同時に、心靈修業を始めるにも不思議なほど適している。即ち、
 --謙遜これは告白の祈りにより更に強調される。
 --遷善の希望。聖殿を再び見、聖櫃に再び近づき、神と約束を結ぶにふさわしい者となるために。
 --喜び。ミサにおいて興えられる聖體の糧と同じように、この靈的糧である心靈修業もまた、神の慈愛から来るものでないであろうか。

      三、告白の祈り。やがて祭壇に昇りつつ唱える「われらより、われらの罪を除き給え」。その
後の「われら罪人なれども」、「わが罪を顧み給わざれ」、「われは不肖にして」

 --罪を犯した被造物(人間)が神の御前で、罪を告白するのは當然である。まして、ミサにあずかるとき、或いは、神の聖寵に満たされた心靈修業に参加するときのような厳肅な瞬間には。
 --この動作は、司祭が先ず行い、次に信者全部が行う(司祭の「告白の祈り」 Confiteorに参会者の「告白の祈り」が應える)心靈修業を指導する人も、この動作をしなければならない。指導司祭といえども、人々を内的潜心に招くにはふさわしくないかも知れないから。また心霊修業の参集者も、その誰彼を問わず、この動作をしなければならない。
 --敢えて云わずとも、われわれは既に、何と多くの不完全と不親切さを持っていることか。
 --されば、願わくは主よ、われらをあわれみ、われらに罪の赦しを給え。 告白の祈りは、準秘蹟であるから、大罪を消さないまでも小罪を消すことができる。
 十字架の聖ヨハネは、悲しみに沈んで己が罪を思っていた。彼の作った有名な詩を、私の場合に用いれば、或いはそれから示唆を得られるかも知れない。

御身より遠く離れ、
われにとり、この生命は
いまはただ死の苦悶
かつてなきほど痛まし死者にほかならず。
死ぬことなきを死すばかり苦しみて
この世に永ららえるわが身を
われ自らあわれむ。
われは、わが死に泣き              
わが生命を歎くほかなし、
この世にて諸々のわが罪が
流謫に我を處する限りは
ああ、わが神よ、わが神よ、いつならん、
われ生く、死ぬことなしと
げに、わが云い得るの日は。
          結  論
「われは罪を犯せしこと告白し奉る……」を以て生きよう。すべての傲慢、退け!
「願わくは、全能の天われらをあわれ・・・・・・」を以て生きよう。隣人の欠点、短所、弱点にたいして寛大であれ。

      第三課 福音と祭壇
次の二つのことが心靈修業に必要である。
 一 聖なる眞理に対する知識。教義上の色々の點を、しっかりと默想するために。
 二  心霊修業が要求する自己放棄を先ず行うために必要な犠牲の精神。 これは、われわれの決心が要求する自己放棄を實行するためにも必要である。
 これら二つのものを得るには、ミサに不可缺なと福音と祭壇の二つを默想するのが最も良いであろう。
      
      一、福音
 一、歷史的回顧-- 聖祭がまさに始まろうとする。聖具室の扉が開くと一人の侍者が出て来て、福音書を持って来る。 この福音書は大抵、祭壇の向う側に、聖櫃と並んで安置されていたのである。一同が敬意を表して起立する。内陣(聖祭の行われる所、至聖所)の入口で一人の副助祭がその福音書を受け取って、祭壇の上に置く。
 今日、讀誦ミサにおいて、侍者がミサ典書を捧持して司祭の先に立って聖具室から出て来るのは、以上の名残りである。
 行列は、聖歌の歌われる中に入って来た。この時の聖歌が後世入祭文となる。先頭には一人の副助祭が香炉を持って進んで来る。その後には七人の侍祭が燭を持って、更に數名の助祭、最後に司祭という順で入って来る  (七人侍祭は「七つの金の燭台の中央を歩むもの」の伴をしているのである。)
 内陣に入ると司祭は、前回のミサの際の聖體で、このミサのときのため留保されたものを、その容器の小箱ごと渡される。
 --司祭は一禮し、ミサに仕える人々に「平和の接吻」を送り、入堂の詩篇が歌われている間(榮誦「願わくは聖父と聖子と聖霊とに榮えあらんことを......」 Gloria Patri によって詩篇が終るまで)静かに祈るのである。
 --次に司祭は祭壇に昇り、祭壇と福音書とに接吻する。侍祭が祭壇の両側に三本ずつ、十字架のうしろに一本と計七本(今日でも司教ミサのときはそうである)蠟燭を据えている間に、司祭は、人々と向い合った奥殿の高座へ赴くのである。祭壇を飾るものは蠟燭だけで、その他の燈火 火や花は祭壇の傍ら、或いはうしろにしか許されなかった。
 福音書の奉讀が、いよいよミサの準備の部のクライマックスと終を告げるのである。十一世紀以来、司祭は先ず低い聲で祭壇に身をかがめ、豫言者イザヤが𦾔約の昔、熾天使によって、燃える炭火でその唇を潔められたと同じように、福音を告ぐべき自分の唇もまた潔められんことを願い奉るのである。
 次に示すような大ミサの式書は、古代の典禮を想い起させる。即ち、
 ――副助祭が朗讀台でただ一人で書簡を朗読している間、福音書を奉讀する役目を持つ助祭は先ず祭壇に赴き、祭主から祝福を受けるために跪く。
 ―――すると、祭壇では香や蠟燭を手にして行列が始まる。香炉を以て撒香し「主に光榮あらんこと
を Gloria tibi Domine (福音奉讀の直前)では、三度十字架の印がされる。これはイエズスの教えは、われわれの知恵を照らし・言葉に靈感を與え・心にしみ込んで心を浄化しなければならないことを示した昔の十字の印のモデルなのである。
 ―――「キリストに讃えあらんことを」 Laus tibi Christe (これは後世になってからである)において、祭主は助祭がもって来たその書物に接吻する(昔は聖祭に奉仕する聖職者も、信者全部これに接吻したのである)。
 ――この間ずっと起立のままだった(王の御前だというのに、誰が座る気になれようか。書簡が副助祭によって朗読されているような時に限り祭主ただ一人が腰を下したのだった)しかも、杖に寄りかかっている人も杖を地面におき、やはり起立してミサにあずかった(司教だけには杖が許されていた。今日、福音奉讀の際に、司教が牧杖を手にしたままでいるのは、このしきたりからきたのである。)
     二、實際に應用して
a 心霊修業の間。 司祭が默想中に指摘してくれた聖書中の教えや眞理を、靈的向上のために用いよう。心靈修業の説教師は人間である以上、神と人との仲介者としては不完全であろうが、とにかく神の御教えを仲介する職權が興えられており、説教で重要なのは聖主の御教えそのものであって、説教師が誰かではない。
 聖主を信じ、教義の力を信じ、司祭の職權を信じよう。司祭は、個人としては、聖體拜領の前に「願わくはわが罪を顧み給わずして、主の聖會の信仰を顧み給え」と祈る。即ち「私は個人としては何の価値もないけれど、母なる聖會に選ばれた司祭としての私を顧み給え」と祈るのである。
 説教を聴くときに、何か自分に役立たせようと思って謹聽するだけでは足りない。更に進んで指導者が述べた省察や指摘した教えなどを内省し、默想し、完全に消化するよう努めなければならない。御言葉または聖書中の出来事の中から、その精神を完全に汲み取り、そして、その中に見つかった教訓は、指導者が話してくれたものであれ、聖霊が内的に私に思い起させたものであ れ、悉く自分に役立たせるよう努めなければならない。
 b 心修業の終了後。
--聖音書を自分は持っているか? イエズス傳は?
--それを読むことがあるか?
--それにつき默想することは?
 誰しも、聖體のほんの一かけらでも失っては大變だと思っている。だが、こと福音に關しては、われわれは、小さいかけらだけでなく大きなかけらまで粗末にしているではないか!
 もしカトリック・アクションの何かの會で福音の註解をするよう依頼されたなら、私はどれほど心をこめてそれに當ることだろう!
 プロテスタントの人々は、聖主の御言葉をわれわれが軽んじていると云って非難する。丁度われわれが、プロテスタントは聖體を無視していると云って非難するように。
 實は、このいずれの糧をも頂かなければならないのである(イミタチオ・クリスチ四巻十一章)
 注意-- 大體において、福音書について述べたことは書簡についても常てはまる。初めは、他の教会の信徒たちから寄せられた便りが讀み上げられた。少したってからは、聖パウロその他の使徒たちの書簡がつづいて朗讀され始めた。それは前回の参詣指定聖堂において朗讀し終った書簡の次の個所から、ミサ中に續いていて朗読するのであった。書簡は次第に、區切られた形で或る節だけが讀まれるようになり、われわれはこの形式に親しんでいるが、どういう經過でそう區切られたかは、ハッキリしない。
 書簡(特にロマ書のように凝ったもの)を一人で勉強することは、むずかしいであろうから、わかりよい書簡から親しむと良い(難解なところは飛ばしても差し支えない)。少くとも、聖體拝領をするときどういう態度であるべきかを克明に教えているコリント書、および、婚姻ミサで読まれる書簡が 載っているエフェゾ書は、のがしてはならない。とにかくボーマンやプラ師の聖パウロ傳などは必讀の書である(Baumann 「真理の使徒」戸塚文卿訳)

     二、祭壇
一、歷史的回顧--祭壇は、昔はただのテーブル、または、殉教者の體をその下に葬った板石でしかなかった。(今日、祭壇石の中に、聖遺物が収められているのは、そこから由来する)。
 八回(荘厳ミサの場合は九回)は司祭は祭壇に接吻する。祭壇はキリストであり、撒香の禮を受ける資格がある(供物や信者にちが撒香を受けるのは、ミサが奉献の部に入ってからのことである)
 昔、司祭は、信者と向い合っていた。ローマの聖ペトロ大聖堂のように、祭壇上には燭臺が輝いているだけだった。 聖體拜領臺もない。拝領するときに、會集は、祭壇そのものであるテーブルに近づいた。
 時代が下って、聖堂を建てるようになると、聖主に祈願するときは東の方を向くという風習ができた。司祭も信者と同じく東の方に向いて祈るようになり、その結果信者に背中を向けるようになった。
 二、應用―われわれの心は一つの祭壇でなければならない。心靈修業に必要な努力、また心靈修業したことを實行に移すときに必要な努力、この二つを共に神に捧げること。
 祭壇は、奉献と犠牲のために出来ているのだから、われわれの心も祭壇である以上、われわれは自己を神に捧げ、神の望み給うことを進んで受け容れる用意がなければならない。
 與えることを嫌う人間は、いつ、どこにも居るものだ。初期キリスト教時代の信者たちは、ミサには、他の色々の供物と共に、ミサに必要なパンと葡萄酒を持参した。三世紀の聖チプリアノは、空手でミサに来るけちんぼうな人々が、聖體を頂く段になると、やはり皆と同じように祭壇に近づいた、ということをほのめかしている。何とずるい人だろう。聖體(エウカリスチア)とは互に與え合うこと(感謝)であるはずなのに。

      第四課 動作と色彩
  一、動 作
一、前述の通り、司祭は私ごとのためにミサを捧げるのではないから、手を合せた静止的な祈りの姿勢をとらない。ミサは大勢で行う集団的な運動であるから、司祭は種々の型の動作をしてみせて、信者にその時々に適した気持ちを起させるのである。
 二、禮拝を示す動作--片ひざを折って跪づく。教会はわれわれを、入口にある聖水で準備させる。 聖堂は神の家であるから、聖殿に入るには、入る時から慎み深く潜心しなければならない。
 三、謙遜を示す動作--或るときは深く、あるときは軽く身を屈める。今にも祭壇に降り給わんとする神に比べれば、われわれは一體何であり得ようか。
 四、嘆願を動作--司祭は両手を開いてあげ、また胸に引き寄せる。あたかも神の祝福をすべて頂こうとするかのように。
 --ミサ中にただ祈るだけでは足らない。司祭にできるだけ協力して、ミサそのものを祈らなければならない。 司祭の動作が表現する色々な感情を、信者が矢つぎ早に起す必要はない。別段のことがなければ、色々の感情のうちの一つを採れば良いであろう。司祭は、公的、共同的、更に社会的な役を演じているのであるから、自由に個人的信心に耽ることは許されていないが、信者は司祭に比べれば自由なのである。
   二、色彩
オランダで大都市に働きかけている或る布教事業団は、子供たちに洗禮の準備を徹底させるために、公要理の進むに従って、それぞれの段階の精神に合った服装または附属品を子供に與て、教えを説くことにしている。即ち、最初は紫色の上衣か帯を與え、紫は教会では悲しみを現わしていること、罪を離れて痛悔し償いをしなければならないことを説く。 次には緑、 これは希望の色であることを教え、同時に宗教的知識を全面的に興える。やがて赤に移ると、聖主の御生涯について詳しく述べ、御受難を特に取り上げて聖主の赤い血を以てなされた救世の玄義を説明する。最後は白、これは信者に必要な純潔の象徴であり、そのまま洗禮式の色ともなる、と。教会も随分昔から、これと同じような事をミサの場合に行って来た。
 八世紀になるまでは、ローマ始め西方諸國には、祭服は存在しなかった(聖職者の服装も定まっていなかった)。
 四世紀から七世紀の頃、聖職者は大抵ローマの富裕な人々の着る服装に従っていた。即ち、通常毛織の茶のプラネタ (のちにカズラと呼ばれる)をまとい、その下に、麻のダルマチカと呼ばれる袖のある上衣を着ていた。なおマップラ(マニブルス(腕布)に変化する)やオラリウム(ストラ(襟垂帯))はアクセサリーに過ぎず、當初は大した意味は なかったが、時を経て決った形をとり、何か意味がつけられるようになった。蔕(チングルム)と肩衣(アミクツス司祭が肩に被る四角い白麻布)は、エジプトの修道者から傳來したらしい。
 このように、司祭は典禮を行うときにも、服装に闘する限り、一般の信者と殆んど異らなかったから、詩人フォルテュナート(六世紀イタリア人)は、メロヴィング朝時代のパリの司教、聖ジェルメーンについて、次のように歌ったのである。「彼の肩を飾るは、石ならず絹ならず、黄金ならず、絆、紫に非ず、ただ全く純粋の信仰のみ」と。
 段々祭服は決った形を取るようになり、それぞれの祝日にそれぞれ異る色を使う習慣が起って 来た。白が、聖主(苦しの玄義を除く))、聖母、證聖者、童貞女たちの祝日に。赤が、聖霊、御苦難の祝日のあるもの、および殉教者たちの祝日に。悲しみの色の紫が、 待降節四旬節に。緑が、聖霊降臨後の日曜に用いられるようになった。
 これら色とりどりの祝日における、變化に富んだ趣は素晴らしい。 一つ一つに十分注意を拂い、周到な準備を以て迎えよう。そのうちに含まれた教訓学びを取ろう。来るべき祝日に前以て備えよう。祝日を迎える度に、教会に對するわれわれの熱心と愛も、一段一段あがらなければならない。毎日ミサで祝う聖人たちのことを覚えよう。少くともその主な聖人たちのことを知らなければならない。 主な聖人の傳記を本棚に備えよう。それに注意を拂わないようでは、何と恥ずかしいことだろう。
 この心霊修業をも、教会の典禮が今要求している精神に合せてゆこう。その時になすべき祈禱のない暇の時には、何かの助けになるなら、適当な聖人伝をひもとこう。しかしながら、読書は決して心霊修業の主要な修業ではない(一般の場合もそうだが、特に心霊修業では、読書は怠惰の一つの表れである)。心霊修行の主な修業とは祈りであり、神を見出すための荒々しさこそ無いけれど、張りつめた努力である。気力なくしては行い得ない。いかにしてわれわれの祈りの効率を高めるか、他のすべてはこの目的に従屬するに過ぎない。
 もし読書するならば、好奇心を満たすためでなく、魂の糧を求めるために讀め。 つまり、走り讀みするより、ジックリ考えて讀むこと。ページを次々とめくるより、眼を止めること。自分の気晴らしにふけるのを戒め、誠意を以て神を探求し続けるよう注意せよ。

      第五課 ミサと死の思索
 
 どのミサも、生ける者と死せる者とのために捧げられる。司祭は「生ける者の記憶」において、この世の人々を記憶し給えと祈るが、聖體を奉挙した後に行われるため一層おごそかな「死せる者の記憶」において、司祭は死せる者、死せる知人、死そのものを思うために、しばし瞑目するのである。
 死者ミサの二つの點を特にここで黙想しよう。 それは、死者ミサの序誦の中の言葉と、「怒りの 日」 Dies Irae の言葉である。

    一、 「生命は変れども、取り去らるることなし」と、死者ミサの序誦は言明する
 魂は不滅であり肉身もまた復活することは、信徑によって既に明らかにされている。死者ミサの序誦のうちでは「生命は変われども、取り去らるることなし」と、力強く響く動詞が二つ(變る、取り去る)あるため、このことは一層ハッキリ断言されている。
 一、二つの死があるのではない--死は外見に過ぎない。勿論最後の息を引き取るときには、霊魂と肉体は分離してしまうが、これはただ一時的の終末であって、肉身こそは墓に埋められ、動くこともできず、そのまま腐ってしまうとは云え、魂の方は滅びることなく、最後の審判の日に、元の肉体と再び一緒になることを待つのである。
 二、生命はただ一つしかない--大罪を持ったままで死んだ人は地獄の永遠の淵に落されるが、そのような霊魂は別として、聖寵に満たされた靈魂は、死後も本質的には何ら變化なく、栄光のうちにその生命が続けられるのである。即ちその霊魂は神を所有するに至るのだが、それは、神と顔と顔とを合わせて光りのうちに相対するのであって、此の世において聖寵に満たされていたときのように、ほの暗く神を持つのではない。この意味において、生命がなくなるのではなく、生命の状態が変るに過ぎない。われわれの霊魂のこの栄光の度合は、臨終に当たって意識の消える瞬間に、われわれが一生の間にどれだけ功を積んでいたか、その総計によって決められる。
 三、--死を望んでもよいであろうか
 a、この世の試練に終止符をうつために死を望むならば、それは卑怯ではないか。捕囚の身とな っていた時代のヘブライ民族の歴史をひもどくと、イスラエルの屈辱を味った多くの豫言者が、これ以上生き延びずに死ぬことを望んでいたことがわかる。
 われわれは、まず忍耐して、いついかにして死ぬか、時と方法との選定を、神に委ねなければならない。
 b、 聖パウロの云う「キリストと共にならんため、われは解かれんことを望む」と同じ意味で、神と共にあらんがために死を望むならば、それは、聖なる望みである。卑怯ではなく、却って愛の證である。サン・ドゥニのカルメル會の病室のドアの上には「もう一歩で天國」と「われは解かれんことを望む」とが書かれているそれは、信仰に人々引寄せ、愛を強める言葉である。
 c、神を観奉るよりは、神のために働くことを好む人もいる。 アビラの聖テレジアは自分の靈魂について語って、こう述べている。
「その靈は、自分の利益を全然考えないので、死も生命も望まず、ただ神の御旨が自分のうちに行われることだけを望んでいる。もし神が生命を延ばすことをお望みならば、生き延びて今まで以上に神に仕えるために、生を選ぶ。ただ一つの靈をして、つかの間でも、神を愛し神を讃美させることができさえすれば、それは、(早く死んで)光榮 (天国)に入る以上のお恵みと思うのである」

      二、「怒りの日」 Dies Irae は、死について二つの觀念を強調する
 一、アダムの原罪の結果としての死
 罪によりて死あり。もしアダムが罪を犯さなかったら、人間は、特殊の、外自然 (préternaturel)の聖寵によって奇蹟的に死を免れることができたのである。しかし原罪を犯したので、その時以来アダムとエワの身には、聖トーマス・アキナスの云うように「死が始った」。死の陰惨な働きを默想することがわれわれにとり有益であるなら、それを默想なさい。例えば、死に最初に襲われた人間であるアベルのことや、われわれの近親の死を默想しなさい。一切は次の言葉に総括されて
 1、 死の後に(腐敗の)怖れがあり
 2、怖れの後に(死體の)悪臭があり
 3、悪臭の後に、うじがあり
  4、うじの後に、灰があり
 5、灰の後には、(人間の體を想わせるようなものは)何もない。「怒りの日、世界を灰に歸せしめん」ローマの或る有名な高位聖職者の墓の上には「ここにあるは、泡と灰のみ」としるしてある。
 二、われわれの個人的過ちによって怖ろしいものとなる死--最後の審判を前以て今から黙想する。
(「怒りの日」の祈禱文は、われわれに、それを強く勧めている「かの日こそ怒りの日なれ・・・・審判者やがて来りまして・・・・・被造物はこれに応えんとし・・・・・今や世は裁かるるなり… 正しき報復の審判者よ……人罪ありて審きを受ん……この決算の日--即ち總決算書を提出する日に)
 私を陥れるものは(積極的)な「罪」ではないかもしれない。私にも、そういう罪のないことを願っている。これほど多くの聖寵に助けられ、特に恵まれた環境にありながら、この私は、最後の審判の日において、爲すべき義務を果さなかった怠りや過失が無数に目の前に現れて来るのではないだろうか。そして私を限りない當惑に陥れるのではないだろうか。例えば、
 a、天賦の才能を用いないでしまって
--怠慢だったり、雑用にまぎれたり、職務を怠ったために、才能を用いないでしまったとか
--不注意だったり、自分の仕事を無秩序にしたために、才能を用いないでしまったとか
 八十七歳で亡くなったフランスの大臣メリーヌ (Méline) (1838年生)は、雄辯な墓碑を刻ませた。
「一度も休まざる者ここに休む」もう一つの墓碑には「休みは、よそにあり」と。
 b 聖寵を無視してしまって
これは明らかに、寛大な心の不足により聖霊の勧めに従わなかったために(私は見た、しかし私はしようと望まなかった)。聖寵に忠實であれ。
 c、気づかずに機會のがしてしまって
 これは、日頃の散慢のため、また自己に對する見張の不足のため、或いは、遊びや仕事に夢中になったために(私は見るための道具を持っていたのに、自分の過ちからも見ずにしまい、多くの聖寵の側を素通りしてしまった。)これらのことを默想することは、罪を黙想するよりもずっと有益である。
一九一七年ルノアール師 (Lenoir) は、サロニックでの心霊修業の際、死を默想して後、次のように書いている。
 「死。野原郎ち戰場、爆撃された塹壕、避難所、或いはこのような野戰病院の一室。色々な苦しみがあるだろうか。多分あるだろう。意識はあるだろうか。ありそうもない。私は聖主のお恵みさえあれば、(死の)準備ができるだろうと信頼している--ただ一つのことが、そのとき氣になるだろう。それは何かと云えば、イエズスの御要求になったほど完全に私が自分の使命を盡くしたか、自分に委ねられた人々の魂を残らず救ったか、という問題である。この使徒としての責任さえなければ、死ぬのはやさしいのだが! しかし人々の魂を救わなければならない、聖體にましますイエズスの御國を地上に齎らすために働かなければならない………イエズスのために私は世の終りまで――たとえ、いかなる苦しみを味うとも--生き延びたい。しかも、またそのイエズスあるがために、死を恐れるのである。なぜなら、自分の使命を十分果せないことを怖れるからである。ここでも、また信頼しなければならない」
 三、それなら、怖れのうちに生きなければならないのであろうか――否、ここでも「怒りの日」の語句が役に立つ。即ち、
 ――神は「慈愛の泉」ではないか、あわれみを以て行動する善き神ではないか、「されど良善なる主よ、いつくしみをもて、われをはからい給え」 イエズスは「慈悲深きイエズス」、即ちこの上なく温厚な救主である。「マリア・マグダレナを赦し、盗人の願いをも容れ沿給いし主」であるから、また救いの道において常に聖寵を與えようと「われを探ねてえ衰え給い十字架を忍びてわが生命を贖い給いし主」であるから、この私を赦し給わぬはずはない。しからば信頼せよ。
ドイツのケーニヒスベルクの捕虜収容所でジャック・リヴィエール (Jacques Rivière) は一九一五年六月十八日に「私はもはや、ただ死の準備をするためにしかこの地上にいない」と書いている。
 私は彼と同じことを云えるし、云わなければならない。
 しかし、この準備は怖れのうちに行われてはいけない。平和のうちにこそ行わるべきである。彼は書き続けている。「私は御父のもとに行くのだ。もし死の瞬間に、萬事をよくなさなかったことが明らかとなれば、主の慈愛にすがろう。これこそ私の望徳誦の目指す所である。神は只で救い給う。 私は、神がすべてをなし給うことを確信しつつ、死の準備に必要なことを一つもなおざりにしたくない。私は神に、私の靈魂をお委せする。今も、死ぬときのためにも」

      實踐的決心
一、死を考えることによって
a 過ぎ去るものであるが故に眞實ならざるものに心を動かされないようにしよう。
b 試煉に負けない力を得よう(「苦しんだものは無意義には過ぎ去らない」聖テレジア)。
c無氣力に打克つための力を得よう。
二、ミサの都度「死せる者の記憶」の所で、私に係りある死者を想い浮かべるだけでなく、私の死をも想い浮かべよう。
三、特に死者のための聖務にあずかっているとき、葬列に加わっているときに、人生のこの重大事を改めて正視せよ。不滅のものに眞の値打があるのである。

      第六課 ミサと痛悔の精神
  一、罪に対する自分の位置
 一、ミサの典禮は二つの場合を想定している。
 極く普通の場合、即ち自分を罪人と認める場合(これは、現在罪の状態にあるという意味ではなく、前に屡々神に背いた者として)。
 祭壇の下で唱える祈りの課で、告白の祈り (Confiteor)につき既に默想したが、(一) 奉献文の次の「聖なる父よ・・・・・・この犠牲(いけにえ)を受け給え。今これをわが無数の罪と主にする侮辱と、怠りとのために捧げ奉る」(二) 「死せる者の記憶」の次に司祭が胸をたたきつつ云う「われら罪人なれども」(三)入祭文のため祭壇に昇りながら云う「われよりわが罪を除き給え」などもまた告白の祈りである。
 義人である場合、即ち自分のうちに過去に特別大きな罪を見出さず、「われは罪なき人々のうちにて手を洗わん.....われは清きに歩めり・・・・ わが足は正しき道に立てり」という言葉(司祭が手を洗いつつ唱える詩篇25)を、文字通り云える人である場合。
 二、もし幸いにして重大な罪を犯さなかったとすれば、この心靈修業の時にする告白に、深い謙遜と共に、喜びに満ちた感謝の色彩を附け加えなければならない。なぜなら、假りに神の助けがなかったら、自分も罪に陥ったであろうし、しかも他人よりも重い罪に陥ったであろうことは確實と認められるから。 
 もし不幸にして前に重大な罪を犯しているとすれば、その悲しむべき時期を謙遜な痛悔を以て回顧しなければならないが、私の告白には、やはり喜の色彩を加えねばならない。ずっと前に私のその罪を赦し給い、そして今日もまたキリストの御血の全能なる流出を以て私を癒やし給う神は、何と慈悲深いことであろう。よく體得された告白の内にひそむ大きな仕合せを味わおう。 聖主が御身を犠牲としてわれわれを再び超自然の聖なる生命に戻すために、洗禮を御制定になりながら、もしも悔悛の秘蹟を御制定になることを忘れ給うたとすれば、それは何と悲しいことだたろう、われわれが一度罪を犯すことによって神聖なる生命を失ったならば、どうなったであろう。もしも最初の秘蹟(洗礼)の次に、これと同じ性質を持ち、われわれを死から生命へ、罪から聖寵の状態へと導くところの、第二の秘蹟(改悛)が制定されていなかったとすれば、多くの靈魂は何と深い悲しみに陥ることだろう。恐らく、完全な痛悔を心に抱けばそれで足りたに違いないが、完全な痛悔は、そのむずかしさを過大視しないまでも、罪人が果して常にこれを手許に持ち合せ得たであろうか。自分で咎めた以前の罪を再び心のなかで咎めた方がよいか否かは、靈的指導者の意見に従いなさい。もしも傲慢に傾いていて心配性の全然ない人であるなら、一番罪深かった時期のことを、もう一度心に咎めるのは、有益であろう。その反対に、少しでも心配性で沈み勝ちで、喜びを保つことがむずかしい人であるなら、思い切って、古い罪の告白はやめて、最後の告白以後犯した罪だけを告白すれば宜しい。なぜなら、霊の最大の寶は内的平和だから。
 三、罪を究明をする場合、無為(なすべきことをせぬこと)によって犯した罪を特に注意せよ。熱心な信者達が 犯しやすい罪は、大抵の場合、してはならないことを行ったという罪ではなく、なさねばならないことを、神に對するゆるがせから、或いは怠慢、勇氣の不足などの理由から、行わないでしまったという罪である。
 四、注意深い靈魂は、大罪だけに氣を配っているのではない。その靈魂は、些細な小罪をも意志をもって完全に承諾することがないようにと努力している。その靈魂は、更に進んで、或る種の勇敢な行爲、或いは愛に満ちた行爲を、神が命じ給わなくとも望み給うことを看て取って、その神の望みに忠實に癒えようと努力している(小罪と、徳の不完全とは別のものである)。
 5、一般的に言って承諾したわけでない行為を、後から気にしてはいけない(そのことは、良心の混乱を避けるためにもまた、人間を迷わそうと狙っている悪魔のおもちゃにならないためにも)。完全に承諾したものは、たとえ小さな不完全さに過ぎぬとせよ、それを重大視しなければならない。それは、道徳的に重大問題だからではなく、神に對する明らさまな、ぶしつけだから。

     二、苦業の効用
 痛悔の精神は内的であるが、もし痛悔が真実なものであれば、単に靈魂の態度にとどまらず、肉体をしいたげることによって外部にも表わされる。なぜなら肉体は霊魂と共同して、神の掟にそむいたのだから。そして、外部に表われた場合には、「苦業」と云う言葉が使われる。
 すべての肉体的苦業について云えることであるが、特に断食の苦業について、四旬節中のミサの序誦は、「主は……肉身の断食を命じて悪徳を抑えしめ、心を揚げしめ、徳と報いとを授け給う」と説いている。
 一、苦業はまず「悪徳を抑える」のに役立つ。われわれは自分のうちに主人ではないので、罪に引っ張られ、五官に負ける傾向がある。悪い情欲から出た悪い力の誘惑に対し、(苦業によって)抵抗力を 餘計身につけている人は、その慾情をくいとめることに馴れており、更に、必要に應じその肉欲をこらしめることもできる。
 苦業は、單に罪からわれわれを護るだけでなく、罪を消滅することにもなる。即ち未来を安全に防ぐ上に有益なだけでなく、更に過去の罪を償う助けともなる。すべて罪は、不義な快楽が引きおこした神に対する不従順であるから、二つの要素を持っている。不従順という要素は痛悔によって赦されたとしても、不義な快楽という要素は別に補いがつけられなければならない。ここに苦業の大きな役割がある。
 二、「心を揚げる」--苦業は、更に、われわれが地上に執着するのを防いでくれる。われわれは、何と、下の方、卑しいもの、或いは少くとも無益なものに目を落して、地平線以上のものを忘れやすいことだろう。苦業は心を離脱させるために、われわれに上の方を眺めさせる。そして、つかの間ではなく、常に、頂上との接觸を失わないように仕向けてくれる。「天使等の聲に、われらの聲を交えしめ給え」われわれはまだ地上にあるのだが、本當の故郷の天國に今からもう生きよう。
 三、「徳と報いとを授ける」……苦業の第三の効用は、徳におけるわれわれの力を更に強め、そしていよいよ豊かな超自然の報いを授けてくれることである。われわれの徳に進むのを邪魔するものは、多くの場合、安楽を求めることである。われわれは偉大な望みを抱きながら、めんどうなために、何もしない。善い行いをするよりも、いつもらくをしたいと云う自然の欲求に、まともに反對することのできる人の方が遙かに自由ではないか!
      
      第七課  ミサと聖性
 罪を避けるだけでは十分でない。聖人となるように努めなければならない。」
 ミサにおいて、
 1 聖性がいかにわれわれの心に呼び起こされ、
 2 諸聖人の面影がいかに記憶に想い出されるかを次に調べよう。
  一、ミサと聖性
 一、「不敬虔な民」(聖ならざる民)という語が、ミサの開始される最初の詩篇(24)に出ている。詩篇作者の考えでは、不敬虔な民とは、選民ユダヤをとりこにした民のことであり、事實異教徒でもあった。
 それと正反対のものに「聖なる民」がある。それは、神の約束と恩寵に恵まれた民のことである。
 二、それとは少し意味こそ違うけれども、われわれも、聖變化の直後に「されば主よ、主の僕なるわれらも、また主の聖なる民も」といわれるところの「聖なる民」の一員である。そして數限りない助力と、眞の光に恵まれているのだから、われわれは、どれほど多くの聖性を欲し、また持ち合さなければならないことだろう。「生ける者の記憶」の祈禱中には「聖なる公教會」という言葉が用いられているが、この言葉は一體何の意味であろうか。
 先ず第一に、公教會の綱領がすべて道徳的向上に置かれている。公教會に属する者は、他の宗教團體の人達に比べれば、その德において優れている。公教會に属する人の絶對的価値は、
――少數とは云え本當の聖人の域に達した人が居り、
――大多数の人が信者にふさわしい真面目な生活を送っていることを見ればわかるであろう。
――福音の欲するところとは明らかに逆な屑のような人々も居るが、このことは、人間性の弱さという見地からすれば、説明されないことはない。
 三、私は果して右の三つのいずれに属しているだろうか。明らかに屑であろうか。願わくは、神のお恵みによって、そうでないように。
 それなら、掟を守るだけに止まっているのだろうか。
 それとも、神に素晴らしい栄光を齎すために、明らかに努力しているだろうか。もし「徳」という言葉が私の場合に使われたとしたら、それは、最も力強い、充実した、真の意味に取ってよいだろうか。

      二、 ミサと諸聖人の記憶
ミサは抽象的に私を聖性へと招くだけでなく、更に進んで聖人達の面影を幾度となく想い起させる。丁度その模範に従うことを促すかのように。
 一、ミサの始めに祭壇の下で唱えられ、また聖體拜領の前にも唱えられる「告白の祈り」に列挙される聖人達を想い起そう。
 二、 次に先ず、祭壇石のうちには聖人の遺物がはめこまれていて、司祭は最初に祭壇に昇ると、祭壇石に接吻しつつ「ここに奉置せる遺物の聖人」並びに「主のすべての諸聖人」によりてわが罪を赦し給えと祈るのである。
 三、司祭が手を洗って洗手のときの詩篇 (25) (Lavabo) を唱えた後、聖三位への祈りに奉献全體を集約するとき、この献物は更に聖母マリア、洗者聖ヨハネは云うまでもなく、聖ペトロ、聖パウロ、そして祭壇の石の下に休む殉教者のみならず、 「すべての聖人」の光榮のためにも、捧げられるのである。聖母と洗者聖ヨハネは、特別な默想に値するから、後に改めて語ることとしょう。
 四、「生ける者の記憶」の後に、聖母の御名に引き続いて、聖人の名の長いリストが始まる―即ち、先ず十二人の使徒の名だが、十二使徒でない聖パウロが聖ペトロと並び上げられているので、聖マチア(裏切り者のユダの代わりに十二使徒にに選ばれた人)の名は自然はぶかれている。これら聖人の名は、例えば待降節の始めの聖アンドレアから十月に祝われる聖シモンと聖タデオに至るまで、典禮の順であげられる。そのあとが十二人の殉教者の名で、頭には五人の教皇、つまり聖ペトロの後繼者三代の聖リノ
聖アナクレト、聖クレメンス、 次に三世紀の二人の教皇聖クシスト二世、聖コルネリオ。その次には、カトリック教会の一致を断乎として守ったアフリカの勇敢なる司教、聖チプリアノ、そしラウレンチオ助祭。終りの五人の殉教者は平信者であって、先ず聖女アナスタジアに教理を教えた傳道士聖クリソゴノ、次に背教者ユリアノ皇帝に斬首された士官で兄弟の聖ヨハネと聖パウロ、最後に二人の醫者聖コスマと聖ダミアノ
 このリストは殉教者しかあげていないから古い初期のものだ、と云われるが、それも一理ある。初期には、殉教者だけが聖人と稱され、公に崇敬される光榮に浴したからである。迫害の時代が過ぎてから司教や苦行者や童貞女らも、その犠牲と痛悔に満ちた生活が殉教に匹敵するものとして、聖人とされるに至った。それは、これらの人達も殉教者と同じく、キリストに対する信仰の真価を証したからである。このように聖人の名のリストが延長されると、地方の幾つかの教会は二、三の名をつけ加えたが、ローマの教会はミサ典文のここ(聖なる通巧によりて)に規定されている「及びすべての聖人」が抱括的な意味なので、更に聖人の名をつけ足す必要を認めなかった。
 五、「われら罪人なれども」の祈りには、洗者ヨハネの名が最初に出て来る。その次には、七名ずつの男女から成る十四名の殉教者の名。 これらは、それぞれ異る生活を営んだ人人であり、丁度われわれに、聖徳なるものは社會的地位とか職業とか専門とかにはかかわりないものであることを教えているかのようである。
 洗者聖ヨハネ預言者の最後の人である。聖ステファノは助祭である。「生ける者の記憶」ではぶかれていた十二使徒の一人聖マチアはここで登場する。聖バルナバは、異教徒に傳道した聖パウロと共に働いた人。聖イグナチオはアンチオキアの司教である。彼は高齢なのでローマの信者らは彼のため減刑運動をしようとしたが、彼はそのような運動などをせぬようにと書簡を送り、ついにローマで殉教して、母なる教会に、その不朽の名をとどめた。聖アレキサンドロは、聖ペトロから五代後の教皇、或いは五月三日に祝われる殉教者である。 聖マルセリノは司祭、聖ペトロは抜魔師で、二人ともディオクレチアノ皇帝の治下で殉教した。既婚者の女性としては、聖ペルペツアと聖フェリチタスという、まだ求道者に過ぎなかった二聖女の名があげられている。聖ペルペツアについては有名な話がある。彼女は闘牛場で牛にはねとばされ、衣をかき乱されて倒れたが、立上って衣服の乱れを整える力を失わず、人々に健気な姿を見せたのだった。聖アガタと聖ルチアは二人ともシチリア島の殉教者である。聖アガタは貴族の娘であったが、知事クィンチアノに妾にされようとして、これを拒絶し、そのため胸を裂かれ、燃える薪の上にころがされ、ついに二四一年、デチオ皇帝治下、カタニア市で死んだ。エトナ火山が爆発したとき、彼女の聖遺物は、何度もその溶岩の流れをせきとめて、町を救ったといわれている。聖ルチアについては、ローマの代官が、洗禮を受けた信者の魂のうちに本當に聖霊が住むか、とあざけりながら尋ねたとき、聖女はハッキリ肯定して、その血を以て證すと答えた、と云われている。聖アグネスは、結婚を申込まれたとき、もう既にイエズス・キリストに身を捧げていたので、自分の夫とすべき方は決っている、と宣言した、うら若い童貞殉教者である。聖セシリアは、親に強いられてヴァレリアノと結婚したが、夫にも自分と同様に童貞を守ることを承諾させた。夫はその導きで、弟のティブルチェと共に洗禮を受けた。聖女は二三〇年頃に、自宅で蒸風呂に閉じ込められ、後に首を切られて殉教した。その體は一五九九年に、切られたときのままの姿で、ローマで見出された。手はにぎられていたが、三本の指だけが伸ばされていて、そこに三位一體の教義が表明されていた。聖人の名のリストは、アキレヤの殉教者、寡婦アナスタジアで終っている。彼女は、コンスタンチノ皇帝の姉妹でやはりアナスタジアという名の人から尊敬を受けたために有名になった。ディオクレチアノ皇帝治下の十二月二十五日に殉教したので、クリスマスの第二のミサでその名が稱えられる。ローマの中心地、皇帝の住んでいたパラチノ宮殿の附近に、アナスタジアのため聖堂が建てられ、宮廷人は、容易にそこにお詣りしていた。
   
      結  論
 一、こまかい手引き ミサで祝うそれぞれの聖人についてミサ典書に簡単な解説がのっていれば、それで少くとも各聖人の略歴だけはわかるであろう。ミサ典文に列挙される聖人については、略歴を記したミサ典書があるから、それを参考にするのもよい。
 二、殉教者始め、多くの聖人聖女により聖主がこのように仕えられているのを、喜びなさい。自分もまたこの奉仕者のグループに属しているだろうか。
 三、心靈修業を機会に、神がいかなる種類の聖徳を私に要求し給うかをよく調べよう。すべての德がすべての人に要求されるのでないが、一つの事だけがハッキリ云える。即ち、神は、或る聖人に要求し給うたことをそのまま私に要求し給わないとはいえ、私が現在聖主に捧げているよりも、更に大きく更に良い德を望み給うていることは明らかである。
 四、もし特に敬愛する聖人があれば、その執成しを願おう。 パリ教区の保護の聖人たちのための序誦は、諸聖人の崇敬には次の三つの目的があると述べている。
 a 聖人たちの生涯から模範を得ること、
  b 聖人たちと超自然的に結ばれること、
  c 聖人たちの成しにより助けを得られること。
 例として「小さき花の聖テレジア」を想い浮かべなさい。いつも聖人傅、或いはキリスト教的偉人傅を読むように。傑作は澤山あるから広い範圍で自由に選べる。
 五、自分もまた「聖なる民」「汝の聖なる教会」に属していることを忘れないように。そして自分が、これほど勇気のいる勤めを立派に果せるように、教會が「人を聖ならしめ給う御者」をも叫び奉ることを、われわれは神に良く願おう。屢々次の奉献の祈りを唱えよう。「人を聖ならしめ給う全能なる御者よ、來り給え、おお來り給え。われを照らし、われを支え、われを導き給え。われは身を献げ奉る。されど實體をも變化せしむるために、願わくは助け給え」
      
      第八課 心を擧げよ (Sursum corda)
   一、心を擧げよ(スルスム・コルダ Sursum corda)
 序誦の始めに、司祭は侍者と共に、非常に感動的な對話をする。その對話のことは、三世紀の聖チプリアノも述べており、聖アウグスチノはハッキリ「スルスム・コルダ(心を挙げよ)と云うと皆がハベムス・アド・ドミヌム(Habemus ad Dominum)と答える、事實われらの心は神にひきつけられている」と述べているから、初代からあったものらしい。
 信心生活において( 信心生活こそ真の生活である)われわれは、たゆまず努力を強めなければならない。なぜなら余りにも早く落胆しやすく、失望しがちであるから。
 その落胆とは、次の事柄から来るであろう。
 一、われわれの戦いは必ずや精神を疲らせるということ。神へ昇る道には終りがない。悪い肉慾はに襲い來たり、悪魔は決してその働きをやめない。われわれは日々の自己糺明、三日間の祈禱(三日黙禱)、心靈修業などをなす度に、同じような傾向、同じような缺點のある自己を見出す。それでは目的地に達し得ぬか。決心はいつも守り得ず、発奮しても貫けず、小さな誘惑や安樂の前にぐらぐらし、日々の単調さから来る倦怠感や、職務の要求にせかされる疲労感にも負けやすい。ま周圏の者にする愛徳の実行を怠り、色々の性格の人に辛抱できず、信心業の無味乾燥さにすぐ負けてしまう。
 これを注意するために心靈修業をよく利用しよう。一方、次のようにも考えられる。
 a 私の決心が余り高過ぎるのではないか。向上を期するために決心は高くなければならないが、高過ぎると早く疲れ、實行出來ずにしまう。この點も心靈修業のとき再検討しよう。始めから逃げ腰ではいけないが、経験を十分活かして、闘争と成功に必要な、具体的條件を慎重に考慮しょう。
 b 私のやり方では負擔過重なのかも知れない。ここでもまた再検討して平均させよう。道は遠いのだから、重い荷物におしつぶされてしまわないように。英雄主義の犠牲になってはつまらない。大き過ぎる決心を立てて必然的に消耗するよりも、いつも變らない中庸の決心をした方がよい。「靴屋よ、よその事まで口出すな」という格言があるように、中庸もまた、用心の徳に属している。
 c 或いは悪魔の誘惑が強まっているのかも知れない。人間の敵、悪魔は、われわれを、あやまちへ陥れることができないとなると、われわれを失望へといざなう。時々信心が非常にわれわれを疲らせ、愛德が重荷に感ぜられても(特に普段から緊張した努力が要求される場合)、また、職責が耐えがたいものに感ぜられても(種々の仕事は非常に勇気を要するし、単調さはすぐ疲れを招く)、それに驚いてはならない。それは當り前のことである。この地上は天國でないから、七轉八起の意氣で起ち上らなければならない。或る人は秘訣を見出したと云ったが、その秘訣は何かと云えば、毎朝「今日こそ始めるのだ」と繰り返すことである。
 二、神の行動が神秘的で、人を迷わすということ。
 A われわれに對して、すべてが、われわれを試みるために存立しているように見える。 煉獄援助修道會の創立者たる「御攝理のマリア童貞」は「私は五つのことを怖れていました。即ち、肉身の者と離れること、修道會を創立するようになること、修道女たちの生活になくてならない物が缺乏すること、借金を負うこと、癌におかされること(を恐れていました)。ところがその五つとも私の身の上に起りました」と云っているが、われわれも、多かれ少なかれ、同じような目に逢う。
 次の事をよく注意しよう。
 a 御攝理が奇蹟を行わないのは、
 われわれの不注意を、たしなめるため、
 人間が気儘に解放した悪を、取締るため、
 (予定通りに次々と事件を起こさせるのであるから)早く時を過ぎ去らせるため、である。
 b けれども、われわれの身に起るすべての事に、神の慈愛が含まれている。
 神は父である。
 神が時たま事件によってわれわれを罰することがあっても(それも又慈愛の現れだが)神は、特に、苦しい事件によってわれわれが信仰、忍耐、愛德、信頼のような、優れた德に進むことを望み給うのである。われわれは人間的幸福の見地から、すべてを判断したがるが、それが本當の價値早見表であり得ようか。「逆境を悲しんではならない。なぜなら、神がそこからいかなる善を引き出すことを望み給うか、わからないから」と、十字架の聖ヨハネは云っている。そして神御自身もイザヤによって、その道はわれわれの道とは違う(55-8)と云っている。これは事實であって、これを証するテキストは山ほどある。「汝のすべての道は慈愛と真理なり」(トビア3-5)。「主のあらゆる道は慈愛と眞理なり」(詩篇25)
 われわれが神の道を理解していることを、いかなる方法で示したら良いであろうか。
 a われわれの貧しさを謙遜に告白することによって、
  b 神の賢明さと慈愛に対してし全面的な信頼を寄せることによって。「主よ、御身はすべてを知り、すべてを爲し得給う。そしてわれを愛し給う」(大聖テレジア)。「聖徒と召されたる人々には、萬事共に働きてそのために益らざるはなし」(ロマ8-28)。またセルティヤンジュ師 (Sertillanges)の美しい次の言葉「色々の出来事は即ち神である。出来事は神の動作、試み、勧め、或は神の援助か忠告である。その名が何であろうと、その姓は神である。それ故、正しく物を見るには、事件の方より神の方に重きを置かなければならない。 宇宙は、半ば混沌と見えるが、一つの霊に充たされており、その動く宇宙の霊こそ御摂理である。出来事には、肉體があり、それは出来事をして、敵意ある向う見ずなもののように見えさせるが、その反面、出来事には靈があり、それは神が興え給うた方向づけにほかならず、その方向は道徳の要求に沿っている。藝術家は或る傑作を造るためには、その魂を筆に移す。運命の藝術家である神も、われわれの生命を造るために、神の霊をこの世の出来事に移すのである。出来事は、われわれのため役立てばよいのであって、われわれをおだてる必要はない」
 B 神御自身に對して。神は御自分の御國に反して働いているように見える、神は、神に反する人々に却って良い採点をしているように見えると云った人もいる。
 どうしたらよいであろうか。
 a われわれの信仰を再び鍛えよう。
 主は御受難のことを豫言しつつ使徒たちに宣うた。「これ汝らがつまずかずして信ぜんがためなり」
 「世においては汝ら難(なやみ)に遇わん、されど頼もしかれ、われは世に勝てり」(ヨハネ16-33)
 ――そして聖パウロも「われは弱き時においてこそ強し」と云った(コリン後12- 10)
 ――ブルダルー師 (Bourdaloue)(1632-1704)も云う。「信仰の眞價は、望みを持てないときに、なお希望させることである」と。
 b 何もかもひっくるめて悪いと判断してはならない。キリストに對して敵意を含んでいるように見えるもののうちから、その實、神の意に叶いただその周園の混沌たる要素により變じられ、ゆがめられているものを、良く識別しよう。
 c われわれの魂と、向上の方法とを、更によく調和させよ。
 福音的方法
 教育の方法
 d 勇氣を強めよ。戦闘の教會は最後まで戦うのだから、力強い魂が必要である。われわれは、神の御國が平穏のときに来ると思い込みやすい。

     二、われらの心主を仰ぐ
     (ハベムス・アド・ドミヌム Habemus ad Dominum)
これは、われわれのいわゆる「非現實的な祈り」(即ち、実際感じているところとは縁もゆかりもない、口先だけの形式的な祈り)になってはいないだろうか。それとも本當に、われわれの心は常に主に向って擧げられているのだろうか。
 一、この祈りは消極的には、自分のことは考えにないということ、即ち、神の見地から事物を見るということを想定するであろう。
 試煉か? 「われなるぞ、畏るることなかれ」(ルカ24-36)
 世の批評か? 「さいわいなるかな、義のため迫害を忍ぶ人」(マテオ5-10)
 肉體的苦痛か? 「われ想うに、この世の苦しみは、われらが身の上に顯るべき将来の光榮に及ぶべきものに非ず」(ロマ8-18)
 地上の財物の缺乏か? 「神は汝らのためおもんばかり給う」(ぺトロ前5-7)
 明日の心配か? 「日用のパンを」「その日はその日の勞苦にて足れり」「明日はどうなるであろう。私の心のするままに。明後日以後は。私の心のするままに」 (Alexis Hanlionの日記からから)
 二、積極的には、いかなるときでも十分にそして本當に、超自然的であるということを想定するであろう。
 われわれが理性のみを以て物を判断したとすれば、それだけでも大したことであるが、理性のみで物を判断しないように。われわれは、信仰を持っているから、理性より常に神の見地の方に重きを置かなければならない。
私の行動の意向、私の輿える模範、私がする批判などを、よく検討しよう。それらは本當にミサの都度「われらの心主を仰ぐ」と大胆に表明する信者にふさわしいものであるかどうか。
                                                          


                聖体の黙想
 
              テニエール  著
              戸塚 文卿  訳
              中 央 出 版 社
              昭和36年8月1日 改訂版発行
 
      聖体の制定された理由
聖体は神のご託身の継続である                         
聖体は主の聖徳の模範の継続である                     
聖体は救い主の受難死去の記念である。                  
聖聖体は天父に対する最上の賛美である。                
聖体は救霊のみわざの継続である                       
聖体は神の正義の御怒りを防ぐ楯であ                    
聖体は聖会の保護、慰め、浄化であ                      
聖体は霊的生活のかてである                           
聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしでる       
聖体は地上における愛の中心であって信者の結合の鎖であ    
聖体はキリスト信者の慰めである                         
聖体は地上の天国であって終わりなき生命の保証である           


     聖体は神のご託身の継続である

礼拝 聖体の中にまことにこもります神にして人なる私たちの主イエズス・キリストを、大いなる信仰をもって拝したてまつろう。そしてかつてベトレヘムにて天使と三博士とが主を拝んだような、心からの礼拝を主にささげたのちに、この秘跡が、神が地上におくだりになった大きな恩恵をいつまでも継続し、またその影響の範囲を広めるために定められたものであるとの、たいせつな真理をよく黙想し、その深い意味を理解するよう努めなければならない。
 あなたたちは神のご託身の奥義を知り、かつこれを信じている。至聖なる三位一体の第二のペルソナであるみ言葉は、神にましましながら人となり、私たちのもとにおいでになり、私たちとともにお住みになった。ご託身によって神ご自身が実際に地上に生活したもうたのである。神は見ることのできない、近づくことのできない御者であるが、イエズスにおいて、私たちは、神に近づき、神に語り、神の御からだに触れることができるようになった。それはまことの人であるイエズス・キリストはまた同時にまことの神にてましますからである。
 イエズスのご来臨までは、私たちは被造物という不完全な鏡を通じて神を見るだけであった。しかし主において、神はまことに、直接にペルソナ的におあらわれになった。神は無限の存在と、あまねき全能の御力とをもって、宇宙のどこにもましましながら、イエズスにおいてひとつの場所に限定され、霊魂と肉体、血液と心臓、頭と手足とを有する人となり、その御口によって語り、その御手によって働かれた。主は私たちのように労働し、疲れ、飢え、渇かれた。主は御血をもってするまえに御汗をもって地を潤わされた。主は私たちの不幸をあわれみ、これに同情し、病と悩みと死とを司る全能の御手をかざしてもろもろの奇跡を行なわれた。また、主は人間の理知のあこがれ慕う真理、すなわち神に関し、そのみいつ、慈愛、あわれみに関し、また、私たちの終わりなき生命に関する誤りのない真理を教えられた。さらにまた、主は正義の神と罪人との両極を一身のうちに結びつけるためにおいでになった。主はそのご来臨と恩恵とによって、最も完全な罪の許しの証拠、並びに将来の平和と幸福との安心を人々に与えて、彼らを神とわぼくさせられた。
 神の地上へのご来臨は、長くやみの中に嘆き苦しんでいた全被造物によって待ち望まれ、慕い求められていた。それは、神のみわざの中の最も偉大なみわざ、神のたまものの中で最も尊いたまもの、その全能のこのうえない大傑作、御あわれみの最大の祝福であった。もし、主のど来臨がなかったなら、世界はあげて悩みと罪と失望との中にとどまり、永遠の死の深くて暗いふちの中に沈まねばならなかったであろう。だから、み言葉のご託身神の摂理の最終目的であり、その最大の祝福であったともいえる。
 そうして、聖体はこのうえない大傑作、この最大の祝福を引きつづき世界に与えてくださるのである。神はこの秘跡の中にペルソナ的に、肉身と霊魂とをそなえられるイエズス・キリストとして来たり、私たちとともに住み、私たちが主に近づいて祈るのを許し、また私たちの姿を見、私たちの言葉を聞き、人間の心をもって私たちを愛してくださる。しかも主は以前ユデアにお住みになったときのように、ただひとところにおとどまりにならず、同時に地球上のあらゆる場所にあり、また、わずかに数年ないし数十年を私たちとともにおいでになるのでなく、世の終わりまで常に絶え間なく私たちとともにとどまられるのである。
 だから、大いなる信仰と愛とをもって、聖体の中においでになる人となられた神の御子、託身なさったみ言葉を拝もう。また、神にして人である主の能力と、その中にたたえられる豊かなご生命とを拝もう。

 感謝 救い主が周囲の人々にお与えになった無数の御恵みを聖福音書の中で読むとき、私 たちは主に近づき、主にまみえ、主の御口から奇跡的治癒を命ずるお言葉を聞くことができた人々の幸福を、うらやましく思うのである。ユデア人らは主をさして『なんびともこの人のように語った者はない』と感嘆し、また地上での主の生涯を『彼は善をなしつつ過ぎゆきたまえり』の一句で総括した。しかし、同一の存在は同一の結果を生ずるはずである。もしイエズスが聖体によって地上に存在をおつづけになるならば、やはり以前と同一の能力、同一の慈愛を示さねばならない。だから、罪の中に沈んでいた世界の建てなおしが、ご託身によって成就したものであるならば、それが今日なお保たれて、あらゆる時代、あらゆる場所で新しい生命が、私たちに与えられるのは、ひとえに聖体の秘跡のおかげである。なぜなら、この聖体は、神の全能なる御子にして童貞母のあわれみ深き御子なるキリストご自身にほかならないからである。実にイエズスが聖体の中にましまして、この世界におとどまりにな事実そのものによって、また、聖体の能力と不思議な御働きとによって、真理も、善徳も、秩序も、平和、世界並びに霊魂の中でのあらゆる調和も存在するのである。また、かずかずの罪悪が絶え間なく世に行なわれるにもかかわらず、神と人間の交渉が依然として存続するのも、同じく聖体のおかげである。もし、かりに一瞬間でも聖体が地上から消失したならば、霊魂の世界に非常な無秩序と混乱とが生じ、この物質世界から突如として太陽が取り去られ、宇宙がこなごなになる場合より、もっとはなはだしいであろう。
 だから、イエズスがあなたたちのためにこの世にとどまり、あなたたちにその存在のすべての恩恵を与えられることを思い、その深き慈愛に感謝しよう。主が聖体の中においでになって、あなたたちに与えられる恩恵は、主がユデア国にお住まいになったときと同じく、いや、なおいっそり大である。なぜなら、ユデア人らは主の御からだを見、御言葉を聞いただけであるが、あなたたちは主によって養われ、主を完全に所有し、主は全くあなたたちに属したもうからである。
 
 償い イエズスがこの世においでになったとき、ユデア人らが犯した罪は、主を知らず、主を認めず、かえって主を迫害し、カルワリオ山上にて主を殺したてまつったことであった。これが十九世紀間、ユデア人の上にとどまった神の御怒りの理由である。ところが悲しいことに、今日の国々も主を認めず、聖体中の神の愛の統治を拒み、人々の信仰を滅ぼし、主を迫害して人間の間より追い出そうとしているのである。この大いなる罪の償いとして、あなたたちはますます聖体に忠実であり、できるだけ多くの人々、特に子供らの霊魂を聖体の秘跡に近づけるよう努めなければならない。

 祈願 神にして人である存在を、あなたたちのために地上にてつづけたもう聖体の秘跡に対する熱烈な信仰を与えられるよう祈ろう。聖体がイエズスご自身にほかならないことを確固不抜の信仰をもって信する恵みをお願いしよう。そうすればこの信仰によって、あなたたちは主に引きつけられ、聖体のみ前に出るたびごとに、ちょうど馬ぶれの中、あるいはタボル山頂、あるいは十字架上に救い主を拝して起こしたような信心をもつようになるであろう。
 
 実行 聖堂内にはいったならばすぐにせいひつに向かって『御身は生ける神の御子キリストなり』と唱えながら主を拝もう。

 

   聖体は主の聖徳の模範の継続である

人としても祭壇上に生き給う私達の主イエズス・キリストを礼拝し、謹んで主のみ言葉を聞こう。「我は世の光なり、我に従う者は暗闇を歩まず。」「我は道なり、真理なり。生命なり」「われは心柔和けんそんなるがゆえにわれに学べ」「我汝らに例を示したるは、我汝らになししごとく、汝らにもなさしめん為なり」
救い主はこれらの御言葉によって、私達に与えてくださる最も大きな御恵みのひとつ、又地上での最も大きな御使命のひとつは、示された御模範である事を教えてくださったのである。それまで人間は自然徳についても度々誤謬に陥り、超自然徳については全く知るところがなかった。だから、もしも「神の聖なるもの」救い主キリストが御教えと御行いとによって、真理と完徳の模範を示してくださらなかったならば、世はまだ死の暗黒に座して、腐敗の道を辿り続けていたであろう。
 人となり給うた御言葉によって示された御模範の中に含まれる聖徳の教えは、実に無限の御恵みである。主は神の愛と他人への愛と、又貞潔、謙遜、忍耐、従順などの諸徳とを世に教えてくださり、その際御自分からこれらの諸徳を実践して、その愛好すべきさまを示し、私たちの怠惰心を励まされた。主は更に主の愛によって行なわれるすべての善業の報いは、天国での主御自身の所有である事を私達に約束された。これによって人々はこのような言語に絶する大いなる賞与を目指し、どんな艱難犠牲にも絶え、英雄的な聖徳さえ実現しようと奮起するようになったのである。
 聖体は世々に至るまで、人となり給うた御言葉の地上的御生涯を継続する。イエズスが聖体の外観のもとで実行される諸徳、いわば聖体の状態でおとどまりになる為の条件とも云う諸徳の輝きを眺め奉るには、聖体を仰ぎ望み、信仰を持って黙想すれば、それで足りるのである。
卑しいパンの状態で貧しい聖櫃の中におとどまりになったのは、如何なる御方であろうか。これこそ全能の神であり、同時に人なる尊い救い主に他ならない。それならば、それは何という謙遜であり、何という貧しさであろう。
司祭の奉献の言葉に服従されるのは、如何なる御方であろうか。聖体拝領者の祈りに答えて御自身をお与えになるのは、どんな御方であろうか。天地の支配者であり、万物の創造主ではないだろうか。であるならば、それは何という従順、何という完全な服従であろうか。
日々、聖体に加えられる不敬、侮辱、冒涜に対してさえ、これを黙してお忍びになるのは如何なる御方であろうか。みいつ尊き神、天使さえも恐れおののいてお仕え申し上げる全能の神ではないだろうか。ではそれは、如何に大いなる忍耐であろう。
最後に、あらゆる人々に、いつまでも常に聖体と恩恵とを与えて下さるのは、どんな御方であろうか。何人にも何物にも負うところのない神、地上での御務めをことごとく果たされた救い主ではないだろうか。にもかかわらず主はまだ何のみ業を営み給わなかったかのように、聖体の中で、御恵みに御恵みをお重ねになるのである。ああ何という御慈悲であろう。
実に聖体の秘跡は、かねて主が地上で人々にお与えになった御教えと御模範と、このように世の終りまで継続されるのである。
だから礼拝しよう。秘跡の中においでになるイエズスを、聖体が聖徳そのものなる救い主に在す事を黙想し、聖体の信心に関する最も重要な上記の真理をよく会得しよう。

感謝 この真理を黙想するとき、あなたは主の感ずべき謙遜とご慈悲とに対して、無感覚ではおられないであろう。聖徳を理解するには、聖徳の生きた教えが是非必要である。そしてこの為に主が地上的ご生活を秘跡によって今に至るまで継続し、すべての人々に完徳の鏡をお示しになるのは、真に極まりない御恵みと云わなければならない。私達は福音書によって、主の言行を知ることが出来る。併し私達の目前で、主の聖徳の模範引き続いて行なわれるのを見る時、私達は更に一層の感激を覚えるのである。しかもこの時における主の御模範は非常に顕著であるから、無知で単純な心の持ち主でも容易に御教えの意味を悟ることが出来る。聖櫃の貧しさ、ホスチアの卑しさ、忘れられ、辱められ、侮られ給うにもかかわらず、常にお守りになる沈黙と忍耐、友と仇の区別なく、すべとの人々に御身をお与えになる御寛仁。すべてこれらは、誰にも見え、誰にもわかる事実であって、これを了解するには、聖体の覆いのもとにおいでになる御者が、神にして人なるイエズス・キリストであるという公教要理の初歩の信仰を持つならば充分である。主が貧困、忍耐、謙遜、犠牲などを余儀なくされる聖体の状態にあることを承諾されたのは、明らかに主が進んでこれをお選びになったからではないだろうか。だからこれらは、主が私達の為の模範として聖体の中で実行される御徳であるに相違ない。
しかも憐れみ深い主は、聖体の中で、このような貴重な模範をお示しになっただけではなく、私達の力を養う為に聖体そのものを与えられる。即ち、聖体拝領に際し、万徳の主は私達の霊魂の中にお下りになり、私達と一致し、その全能を持って私達を助けて徳を行なわさせて下さる。一方、この聖体拝領は、私達が望めば毎日でも可能であり、主はその貴い模範を示される時にも、徳の実行に必要な恩恵を絶えず私達に与えて下さるのである。
ああ恵み豊かな神の富の偉大さ。なんぴとがこれを知り尽くし、これに相応しく主を賛美することが出来るであろうか。

 償い これに関した償いは二つの理由から必要である。第一に、主は無限の御憐れみを持って善徳の模範を私達の目前に示し私達の霊魂を助けて下さるのに、私達は平然として罪悪、怠惰、卑怯な生活を送っている。私達のこのような状態は、いかにも卑しく、又醜く、厳罰に価するものではないだろうか。主は恩恵を与え、模範を垂れ決して倦み給わないのに、どうして私達は惰眠をむさぼっているのだろうか。これは如何に恥ずべきことであろう。私達が如何に謙ってもそれで充分と云うことは出来ない。
償いの第二の理由は、聖体のお示しになる御模範に信者が多くの注意を払わない事実である。実際、殆どすべての信者が、主ご自身の誉れと栄えとを犠牲にして、私達にお与えになるこれらの宝をおろそかにしている。主の御知恵と御慈愛との最大の傑作がこのように無視され、侮られているのは、真に嘆き悲しむべき極みではないだろうか。私達は自分の為、並びに人々の為にこれを嘆き「おのが輩」から忘れられた救い主に心から同情をお寄せしなければならない。

  祈願 私たちは自分の生活をもっと聖体に近く、親しいものとする決心をつくり、必要な恩恵を主に請い求めよう。なお聖体を通じてイエズスの聖徳を学び、これをよく理解するために、しばしば聖体のみ前で福音書を黙想し、特に私たちの境遇に適した模範に注意し、これによって、利益を得るために主の御助けを祈ろう。願わくは、聖体の秘跡が、私たちにとって『道であり、真理であり、生命にてまします』ように。

 実行 今後、徳について黙想するとき、必ずイエズスが聖体の中でお示しになるご模範を考え、また修徳のために聖体拝領をよく利用しよう。

 聖体は救い主の御受難と御死去の記念である 礼拝 私達の主イエズス・キリストが、私達を愛し、私達の救霊の為に甘んじて十字架に上り、一方では、その後受難と御死去を記念する為に聖体の秘跡をお定めになったということは、公教会の最も重要な教義の一つである。救い主は御身を虚無のように、また死者のようになして、パンと葡萄酒の外観のもとに隠れ「わが記念としてこれを行え」とおっしゃった。だからパウロも主のご啓示を受けて「汝らこのパンを食し、また杯を飲むごとに主の死を示すなり」と言った。
 私達の救霊は一には主の御受難、御死去の賜であるから、絶えずこれを思い起こすことは、私達にとって最も大切なことでなければならない。主は、愛する者の為に生命を捨てることが愛の最も重要な証拠であることを、私達の頑なな心を動かすには、これが是非とも必要なことを知っておられた。だから主は、聖体をもって、御受難と御死去との記念を私達の目前に絶えず示すことを望んでおられるのである。
 なるほど聖体は、イエズスが私達の為に苦しみを受け、十字架上にお亡くなりになったことを、世々にわたって全ての人々に示すところのものである。ミサ聖祭の間に、司祭が聖別のことばをもって光栄のうちに統治されるイエズスを天国から祭壇上に呼びくだし、動くことをも、話すことも出来ず、生命さえもないようなホスチアの中にお閉じこめするのは、主の御死去の繰り返しでなくて何であろう。主は神性と人性とを完全に保ちながら、今もこの聖体のおおいの下に潜んでおられる。復活されたキリストは不死の栄をもっておられるにも関わらず、ここでは外面に現れる何らかの行為さえもなす事が出来ず、またその他、私達に対して、生きておいでになる何らかの感覚的な証明さえ与えることがおできにならないのである。この聖体の状態は、死も同然であって、御血を流し尽くした御亡骸も同様であると言えるであろう。
 聖体の中においでになる救い主は、欲するままに望んでおいでになる場所に移ることをも、敵の手から逃れることをも、冒涜に際して助けを呼ぶことをも、人としてのお姿を現しになることもおできにならない。主は御受難の日と等しく、鉄鎖に繋がれ、十字架につけられ、人々に見捨てられ、主の友までが預言者と共に「我は聖別され死パンを見たれども、聖別せられたるものとの間に、何らの差異をも認むるもえざりき」というのである。ああこのような死の状態によらずとも、主はカルワリオ山上での御受難、御死去を記念することがおできにならなかったのであろうか。
 だから礼拝しよう。秘跡の中に在す神のこの忍耐深い御生贄を。柔和にして十字架に釘付けられた主ご自身を。聖体を礼拝するたびごとに、茨の冠をかむせられ、十字架上で私たちの愛のために息絶えられた救い主を絶えず心の中におしのびしよう。

 感謝 聖体に対して救い主の御受難を思う時、私達はそれに引き続いて、甘んじてこのような多くの苦しみをおしのぎになった主の無限の愛と忍耐、並びにこの御受難によって全ての罪人に分かち与えられた罪の赦しの御恵みを、深い感謝をもって思い起こさなければならない。
 御父の正義を満たす為には、他に多くの方法があったにも関わらず、恥ずべき十字架の死をお選びになった大いなる愛と同一の愛が、今ここ御聖体の中に存在している。主は聖体を制定される何らかの義務もなかった。ところが、主は私達の為に、何の条件も付けず、ご自分から進んで完全に、またいつまでも御身をお与えになったのである。これを黙想し、あなた達は雲を通して輝く太陽の光のように、暖かく、優しい主のみ心の愛を感じないのか。主はあなた達の冷淡な生ぬるい心、現世の財宝と愛情とに奪われがちな心を、ためなおそうとしておいでになるのである。かってのゲッセマニのユダ、法廷でのペトロ、カルワリオでの死刑執行人をお赦しになったように、今も主は聖体の中で、主を売る人、迫害する人、冒涜する人の為に、「父よ彼らはそのなすところを知らざるにより彼らを赦し給え」と祈って下さるのである。柔和であって謙遜な聖体の沈黙は世々に続けられる主の御祈りに他ならない。
 あなた達は御受難におけるイエズスの愛を悟り、これに感謝すると共に、聖体への深い感謝を捧げなければならない。24-2

 償い 聖体が救い主の御受難と御死去の継続であることを理解する為に、イエズスがその中で昔と同一の不信、屈辱、暴虐を受けながらおいでになることに注意しよう。
 もし大罪に汚れた霊魂が聖体を受けるなら、それはユダが主をユダヤ人に裏切ったと同一の背信の行いである。もし他人の嘲りを恐れて聖体拝領を怠る人があれば、それはペトロと同様に主を否むことである。
 聖櫃がかすめられ、聖体が土足で踏みにじられるような恐ろしい汚聖行為も世に行われている。ああ、御受難の時に於いてさえ、イエズスはもっと多くの忍耐が必要だったであろうか。
 壞疑者の冷笑、不信者の冒涜、多くの信者の無知と忘恩、主の友である人の恥ずべき堕落、知りながら犯す怠慢、習慣的な不敬、侮辱に近い不注意と無礼、これらがみなイエズスの今日お受けになる御苦しみでなくて何であろう。
 では人々よ、秘跡の中にあって今もやはり堪え忍んでいらっしゃるイエズスの為に、いにしえの敬虔なエルサレムの婦人のようにお嘆きしよう。主のおもてを拭い、主の御恥辱をお慰めしたヴェロニカはいないのか、十字架をになうシモン、十字架の下にたたずむヨハネはいないのか。救い主の御苦しみをわかつ悲しみの聖母に倣う人はいないのか。あの聖体の中で、主が同一の御受難をお続けになるなら、同じお慰めとご同情とが必要なはずではないだろうか。

 祈願 救い主の御受難、御死去の記念は聖であり、力であり、慰めであり、救いでなければならない、しかし、その為には、この記念が心に深く浸み込み、私達の心の目の前に絶えず存在し、私達がこれによって全ての罪を忌み嫌い、あらゆる罪の機会を避けなければならない。
 主は救世のみ業をおろそかにしない為に、今もやはり愛に駆られて聖体の中におとどまりになる。だから、聖体によって救霊の効果があなたの心に結ばれるよう願い、特にミサ聖祭、聖体拝領、聖体礼拝の間に、度々この御恵みを祈り求めよう。
 日常の黙想に際して、より大きな効果を得る為に、救い主の秘跡的御受難の事実を忘れないようにしよう。


   聖体は天父に対する最上の賛美である
 祭壇の上においでになって、秘跡の覆いの下に隠れながら、聖父なる神のみいつを拝し、完全なる宗教的礼拝をお捧げになるイエズス・キリストを、生きた信仰を持って黙想しよう。御言葉のご託身の理由の一つは、被造物には不可能な、神に対する完全な礼拝と奉仕とを、ご自分からお果たしになる為であった。聖体の制定の目的もこれと異ならない。もとより、ご託身及び聖体の直接の動機は人類の救霊の為であったが、これと相並んで天父への完全な礼拝が主のみ旨であったことを忘れてはならい。「我は我が父を敬い父に光栄を帰す。」との御言葉は、今でも主が聖体の中から、おっしゃているのである。
 主がいかに完全に礼拝の義務を天父にお捧げになるかをみよう。礼拝とは、神が何ものにも超えて尊くいらっしゃることを、理性と心情と意志と行為とを持って認めることである。天父の限りない敬うべきみいつ、並びなき尊貴、その全能のご能力、ご威光を賛美することである。
 しかしながら、なんぴともイエズス・キリストのように天父の完徳を知ることは出来ない。「子のほかに父を知る者なし」とご自分でおしゃったように、主の御目にだけ父に関するすべてが明らかである。だから主の聖心から発する賛美は、真に完全な礼拝である。主は御父の神性の無限の富を知り尽くしおられ、これを賛美し、そのご意志の力を持ってご自身を全く御父に委ね、進んで御父の権力のもとにおとどまりになる。ああ、何と完全な霊と真をもってする礼拝であろう。
 御父はすべてに於いて、ご自分と等しい栄えをもつ聖子が、ご自分を賛美する為に、御前にひれ伏して生贄とおなりになりのをご覧になる。主の主である真の神なる御子が、聖父の光栄の為に、愛によって自ら進んで服従されるのは、何という偉大な聖父の喜びであろう。祭壇の下に集まる人々よ、永遠に休み給わない完全な礼拝者イエズス・キリストを信仰の目をもって仰ぎ望もう。主は尊敬と愛と賛美を天父に捧げて、あなたの欠けたとことを補われる。即ち、主御自ら、あなた達が、どのように霊と真をもって神を礼拝しなければならないかをお示しになるのである。
 感謝 敬神徳の第一の義務を礼拝とすれば、第二のものは、すべての被造物が、つきることのない善の源である神にすべての御恵を感謝することである。
 そしてさらに感謝の義務を正しく果たす為には、第一に神がどのように憐れみ深い善でおいでになるかを知らなければならない。神は何人にも又何者にも負うところのない御者でありながら、ひたすら純粋の御憐れみによって、あらゆる被造物に惜しみない賜物を分かち与え給うのである。
 次に私達はこれらの賜物の価値と種類とその量とをよく知らなければならない。自然の賜物、超自然の賜物、この世での賜物、来世での栄光の賜物、一切が神の賜物である。
又、相応しく神に感謝する為には、私達は利己心を持ってはならない。即ちこれらの賜物を自己のものとしていたずらに虚しくおごることがないように、かえって神の栄光の為だけ、忠実にみ旨に従ってそれらを用いなければならないのである。
イエズスは又この点で私達の模範である。主のみひとり天父の善徳を知り尽くし、その御憐れみの深さとその富の豊かさとをお測りになることができる。主はあらゆる被造物の受ける天父の賜物を知っていらっしゃると同時に、御自身の人生が他に比べるものがない絶対的に独自な尊い賜物を与えられたことをも知っておいでになるが、しかもこの為に自ら高ぶられることはない。「我は、我を遣わし給いし父の光栄の他に、我が光栄を求めず」「なんぞ我をよきと言うや、よき者はただ神のみ」と仰せられるのである。
今日も私達の聖櫃の中から、感謝に満ちた賛美の歌が、絶え間なく天父の方に昇ってゆく。それはすべての被造物の頭であるイエズスが、主の御血に洗われた被造物の名によって聖父に感謝なさるのである。
主とともに天父に感謝しよう。あなたが受けた多くの賜物を思い出して、その価値を計ろう。そして、一切に超える妙なる賜物なる聖体を眺め、神に感謝すると共に、主の謙遜、忠実、無私を学ばねばならない。真の感謝は、謙遜、忠実、無私なるものであるから。
 償い 罪がこの世に入ってから、敬神徳は償いと離れることのできないものとなった。しかし無限に尊い神に対して犯した無限に重い罪の償いを捧げるには、無限の価値のある犠牲と無限に聖なる司祭が必要である。
この犠牲と司祭こそ私達の主イエズス・キリストである。主は御手ずから御身を十字架上にお捧げになったばかりではなく、天父の怒りを和らげ、その正義を満たし、罪の赦しを私達に得させる為に、贖罪の犠牲となって祭壇の上に御身を横たえられたのである。
何という聖にして偉大な司祭であろう。天父の光栄、そのみ名の誉れ、み国の建設、人々の改心、罪の赦しの為に、ひたすら御身をお捧げになるこの尊い大司祭。
何という完全な、そして甘美な犠牲であろう。あらゆるもののうち、最も清く最も完全な御生命を供え物にし、その主権を屈辱に、光栄を卑賤に、統治を従順に変え、ご自身をなき者として生きながら葬られ、屍のように世の終わりの日まで一切を黙し忍び、すべてに絶えず従い、パンと葡萄酒の外観のもとに隠れられるこの尊むべき犠牲。
天使と人との光栄の主である生けるキリストの横たわれる聖体の、み墓の中に入ってみよう。御父神を礼拝し、その正義を満足させて、御父の怒りをなだめ申し上げる為に、御受難、及び今日の屈辱と清貧と従順と愛とを、衆人の侮辱、反逆、罪悪、忘恩の償いとしてお捧げになるイエズスを仰ごう。ああ人類によって最も無惨にそむかれた御父は、この英雄的な大司祭、無言にして忍耐深い犠牲によって、どれほど完全に礼拝され給うであろうか。
 祈願 創造主に対する被造物の第一の義務は、神に対する信頼と、すべての賜物が神のご厚意によって与えられることを告白することである。祈りはこの義務の表現に他ならないが、人々はそれをいとい、自己と自己の力量とに頼って神に祈ろうともしない。ところが御子は私達に代わって天父に祈り給う為にこの世にお降りになった。イエズスは昼夜を区別せず、御父の御前に跪き、その喜び給う謙遜な、愛にあふれる祈りの香りをおたきになった。今日も私達の聖櫃は疲労することも休息しすることもない聖体の祈りの至聖所である。
 イエズスは御父のみ旨をすべて知り、そのみ旨、そのご光栄の他には、何ものも求め給わないから、主の御祈りは完全である。イエズスは聖であって汚れなく、御父の愛子であって御父は何ものも聖子にお拒みにならないから、主の御祈りは完全である。
 だから、この愛すべき大司祭と共に祈り、神のみ旨に従い、万事をみ摂理に委ね、キリストと共に、キリストに於いて、キリストのみ名によって祈ろう。

 実行 秘跡の中においでになるイエズス・キリストをっ大司祭としてみることを学ぼう。


     聖体は救霊のみわざの継続である

 聖体のおおいの下においでになる主イエズス・キリストを私たち人類の救い主として礼拝しよう。主は十字架上で私たちの救霊の為に尊い御血をお流しになったが、今もなお祭壇上にあって、絶えず救霊のわざを続けられるのである。聖体の秘跡の御制定は、もとより御父の光栄の為であったが、それはまた同時に人類の救霊の為でもあった。なぜなら、イエズスが天父に光栄を帰したもう主要な手段は、私たちの救霊であるからである。こうして、主はかつて祈りと説教と、善業と御受難とによって、人々の救霊の為に尽くされたように、今日も聖体の秘跡によって同一のことをお続けになるのである。
 救霊の事業にいとまなくいそしまれる主のみ姿を仰げ、主はかって寂しい山に登って幾代かを夜もすがらお祈りになった。同じように今日、世界中の聖櫃から絶え間なく主の御祈り天父に捧げられる。聖櫃は都市と世界との安全を守る物見櫓である。
 また、主はかって人々に教えて、信仰、従順、信頼、謙遜、忍耐などの諸徳をお説きになった。同じく今日、聖体の秘跡的状態そのものが、これらの徳の模範を示し、私たちに無言の説教されるのである。
 聖体は、またかつての日のように、私たちを癒やし、養い、慰め、私たちに霊的生命をわかってくださる。それも昔のように単なる祝福ではなく、実に主ご自身をお与えになることによってである。
 最後に、主はかって十字架上に死なれてこの世を救ってくださったが、今日では聖体が主の御受難御死去の反復であって恩恵の源泉でもある。すべての秘跡の効果はもとより、私たちがどんなお恵みを祈り求めてもそれが聞き入れられるのは、みなこの秘跡的犠牲の賜である。
 このように聖体は、その秘跡的状態そのものにより、また、その祈りと賜と犠牲とによって、絶えず人類の救霊のみわざを営み続けられるのである。この雄々しい忍耐深い大司祭が、ご自分の仕事を終わる時、すなわち御父から委ねられた御任務を完全にお果たしになる時は、世の終わりにほかならない。感嘆すべき愛のみわざを仰ぎながら、主を礼拝し、主を賛美しよう。

 感謝 聖体によって救い主が私たちの救霊の為に、私たち一人一人ももとに来てくださる事実をよく考えるなら、私たちの心は、どんなに喜びと幸福に満たされることであろう。地上での御生涯の間、主は全ての人々の為に一様にお祈りになった。しかし今では私たち一人一人のもとにおいでになり、私たちの心の中で私たちと共にお祈りになるのである。主は恩恵と善徳との甘露を持て私たちを養い、私の心にみ教えを刻みつける為に親しく私を訪れてくださり、尊い御血を私の心の中で流し、御功徳と償いとを全部分け与えて、私の為に死にたもうたのである。だから私たちはみな、めいめい次のように言わなければならない。「私は救い主が真実に私の救霊の為に努力されることを知り、私の霊魂の中にそれを感じる。私は確かに主のご自愛と、ご苦心との対象であるから、私は自分さえ主のみわざに一心に協力するなら必ず救霊の御恵みを受けるに相違ない」と。
 ああ聖体は、いかに尊い愛のあらわれ、救い主が私を救おうとなさるみ旨のいかに確実な保証であろうか。
 主の御憐れみと御慈愛とにふさわしく感謝する為に、秘跡の中のその御忍耐を考えよう。そうすればあなたたちの心に、このあまりにも慈悲深い救い主の御心に対して、感謝の念が自然と湧あがるであろう。
 償い イエズスはかって主の御勧めを聞き入れず、救霊の御恵みを退けたユダヤ人らを責められた。ユダヤ人はこのかたくなさと忘恩との為に厳罰を受け、主に捨てられることとなった。
 それでは、聖体の中の救い主の生贄と御勧めとを拒み、主の愛に背く人たちの運命はどうなるであろうか。彼らは、主が私たちと一緒においでになって、私たちの心を主のお住まいとなさりたいとの思し召しを無視し、主が日々全世界の各教会の祭壇で尊い御生命を犠牲として、ご自分を亡き者とされるのに、その愛を考えてみようともしない。又、主が御体を、私たちに欠くことの出来ない生命の養い、旅路の糧、悩める時の慰め、罪の償いとして与え、私たちの心をかち得ようと絶えず私たちを追い求めておいでになるのに、侮辱と冷淡とを持って主を退けてしまうのである。ああ、主は荒れ狂う波濤のうちに諸人に向かって救霊のみ手をお広げになるのであるが、人々はその御腕に抱かれることを拒み、主に御苦しみを加えるのである。この忘恩、この不可解な頑固さ、この未曾有の愚かさは、いったい何を意味しているのであろうか、必ず救い主は二千年前にユダヤ人に対しておっしゃったお言葉を、この世に向かって繰り返されるであろう。「我もし来たらざりしならば、汝らの罪は軽かりしものを・・我を見てなお信じぜざる人々は災いなるかな」と。
 だから私たちは、救い主が聖体によってお与えになる救霊の恩恵を重んじ、忠誠を尽くして御心を慰め衆人の罪を償おう。ことに私たち自身が聖体に対してどのように振る舞っているかを吟味しよう。果たして聖体への奉仕が私たちの生涯の主な部分を占めているか、度々聖体拝領するか、ふさわしい準備と大きな愛を持ってこれを拝領するか、聖体拝領の効果を私たちの生活の上に実現しているだろうか、私たちはこの点についてよく糾明し、必要な償いをしなければならない。
 祈願 第一に、人々の救霊とあなた自身の救霊とのために、聖体の限りない御力に信頼するように熱心に祈ろう。第二に、しばしば聖体拝領をし、効果を結んで主に忠実に仕えるよう恩恵を求めよう。第三に聖体拝領の効果を妨げる全ての障害、即ち罪と誤った愛着、危険な機会とを取り除く恩恵を願おう。第四に、聖体が、益々人々に知られ、尊ばれ、救霊の為に利用されんことを祈ろう。

 実行 なるべく聖体拝領の回数を増やし、もしそれができないなら、聖体拝領の準備を完全にするよう心がけよう。


    聖体は神の正義の御怒りを防ぐ盾である

 礼拝 慈悲深い救い主イエズス・キリストが絶えず尊い司祭の任務を尽くし、又、世のための罪のために生贄とおなりになるその祭壇の前にひれ伏して、大いなる信仰と尊敬と、聖なる恐れとを持って聖体を礼拝しよう。主はここに十字架上でなされたと同じく、天地の間に上げられ、無力な被造物と創造主との間に立って、神の御怒りをお和らげになるのである。黙示録に拠れば、主は、天にあってもやはり屠られた羊として、御身を祭壇の上に横たえになるというが、それはこれによって天父の光栄と、人類の救霊とのために、十字架上の生贄となることを天父に絶えずお示しになる為にほかならない。
 天国には天父の御怒りの源となり、又恩恵の喪失の原因となる罪がない、しかし、それにもかかわらず、やはり神の子羊の生贄が、そこに続けられているなら、地上ではなおそれが必要なことは明らかである。犠牲なしに地上の平和はあり得ないのである。ああ、我が神よ、人々は腐敗し、御身のみ名は汚され、御身の権利は認められず、あらゆる悪はたやすく行われ、霊魂の救済は、すっかり忘れられている今日、もし御子の祈り、償い、犠牲が地上になかったならば、即ち、絶えず御血を捧げ、御身の光栄のために御自らをお供えになるイエズスが、おいでにならなかったな、この世はどうなっていることであろうか。
 至聖なる秘跡の陰に隠れ、贖罪の司祭職を執行されるイエズス・キリストを礼拝しよう。主は司祭に必要な全ての資格を備えておいでになる。主は純潔にして聖、罪をいとい、天父の光栄のほか何もお求めにならず、世間を軽んじ、しかも罪人に対しては無限の慈悲を持っておいでになり、実に理想的大司祭の資格を全て完全に具備しておられる。それは、主が限りなく完全な神の御子にましますからである。
 聖体の中で主は、又完全な生贄である。これ以上にすぐれた生贄がほかにあるだろうか。光栄の主が一塊のパン、いっぱいの葡萄酒の外観のもとに隠れ、秘跡の中に身を落として、天父にお捧げになるものは何であろうか。その御霊魂、御肉親、御血、御生涯、御権能、ご自由の全てではないだろうか。
 ああ、主を礼拝しよう、たぐいなき大祭司、たぐいなき生贄なる主をひれ伏して礼拝しよう。

 感謝 主が聖体の中で絶えずお捧げになる全ての生贄を、深い感謝の念を持って眺めながら、愛によって主の成し遂げられたこのたえなる発明についてよく黙想しよう。主が人となって、死、しかも十字架の死に至るまで己をむなしくされたあとに、さらに聖体の秘跡の中に隠れ、祭壇上での生贄となられたのは、決してほかから強いられたのでもなく、又、こうしなければならない義務があったからでもない。それは全く主ご自身のご選択に拠るものであって、純粋二種の憐れみ深い御心から最初に流れ出た愛が一瞬ごとに繰り返されて生ずる新しい賜であるということが出来る。そして私たちの罪と反逆と忘恩とによって絶えず損なわれている神の御稜威と正義とが、いつも必要以上に償われているのは、全くこの生贄のおかげである。
 救い主が天地の間に立って取りなしたもうのは、単父の御怒りをなだめて神と人との間に平和を回復し、この世に生を受ける全ての人に十字架の救済を教えて、自然の生活と超自然の恩恵との間に仲介されるためである。聖体は義人にとっては罪に陥る危険の防御となり、罪人とっては再起のための必要な力となり、臨終の人にとっては安んじてともに永遠の休息に入る伴侶となり、全世界にとっては最上の祝福となるのである。
 絶え間なく罪が犯されているために、聖体は世の終わりまでその存在を続け、又罪の破壊のあとを償うよう、罪のあるところへはどこまでも従い行かれる為に、聖体は地上にくまなくおいでになるのである。 ああ、聖体の中に在し給う救い主の御取りなしは、いかに甘美で愛に満ちあふれ、いかに忍耐にとみ有力であることだろう。ああ、平和の祭壇、大司祭にして生贄なるイエズスの聖体よ、御身がとこしえに祝せられ讃えられますように。

償い この世における罪の憎むべきありさまに注意しよう。神の子羊が世の罪を贖う為に御身を供えられる祭壇の前で、やはり罪悪が続けられ、このたぐいない愛も、驚くべき屈辱も、全てが無益であるかのように見える。
 人間はイエズス・キリストの御生贄を侮り汚して、忘恩をもって愛に報い、いっそう神の怒りを招く、世界中どこにも聖体がおいでになるのだから、全世界が大神殿と化した今日、罪人の冒涜は実にこの神殿の中で行われているわけである。罪を防ぎ、罪を償われる為に、聖体が勧告、助力、生贄、贖罪をお休みなく続け、益々奮発されるにも関わらす、いや、益々奮発されるほど、人々は、なお神に背くのである。ああ、私たちはいかなる罰を期待しなければならないだろうか。
 だから、よく自分を省みて今までの大罪を思い起こして、それがどんなに重く、どんなに大きいかを糾明しよう。主が二千年になんなんとする間、聖体の中におとどまりになっているその愛の大きさと、あなたの罪の重さと比較しよう。主を愛する為に、主がお嫌いになるようなあなたの罪を忌み嫌い、主の御慈悲の賜なる聖体を神にお捧げしよう。もしあなたが、なおも主の愛を軽んじ続けるならば、あなたの受ける審判は、いかに厳しく恐ろしいものであろうか。

 祈願 度々聖体のみ前に出て、聖体のみそばでお祈りしよう。これは最もよき取りなしの大司祭、世の罪の購いなる最上の犠牲によって祈ることである。この大司祭、この生贄が常に聖体の中においでになることを記憶するように。あなたは罪に汚れた不忠実な自分の霊魂の為に、なだめの生贄の御取り次ぎを頼み、又、あなたの親族、恩人、友人も同じく聖体の御保護のもとに置かねばならない。親鳥の翼の下にかくまわれる雛は嵐を恐れる必要がない。私たちも又聖体の御保護により頼む時、地獄の攻撃に敗れることはなく、従って神の御怒りを招く憂いはないのである。

実行 特に誘惑を感じる場合、或いは危険に臨み、困難に際しては大きな信頼をもって聖体に祈ろう。


    聖体は聖化の保護、慰め、浄化である

 礼拝 聖会のはじめから世の終わりに至るまで、聖体の中におとどまりになるイエズス・キリストを、公教会の真の子供にふさわしい信仰を持って、聖会の名によって礼拝しよう。主はこの秘跡によって、その深く愛しておいでになる聖会に、必要な全ての助けをお与えになるからである。
 まず、聖会の浄配なる主を礼拝しよう、主は愛によって「聖会」を選び、御血をもってこれを洗い清め、全く清く汚れなく、美しく聖なるものとされた。又、主は絶えず聖会を支え、慰め、聖会の子なる信者らが、「魂の母」に乞い求める天来のパンを、いつも聖会のために準備される。主が共においでになることは、聖会の歓喜であり、生命であり、名誉であり、光栄であって、一方では聖化の無限に発展し栄える理由である、天地の創造主、全人類の救い主は統治の栄誉を、その妃である聖会と共にし、そのみ国をこれと共に分かちになる。もし妃にたとえられる聖会から、聖体を奪い去ってしまうなら、聖会の光栄、豊穣、使徒的使命はどうなってしまうであろうか。
 又聖会の神秘体の頭なる主を礼拝しよう。私たちはみな同一の真理を信じ、同一の永生を希望し、同一の生命をわかって、主と共に一つの神秘体を形づくる。人体の各部分には、動脈血が行きわたって、これに生命を与えるように、七つの秘跡によって全教会に恩恵が分配され、その霊的活動を支えているが、その源は心臓にも比べられる聖体の秘跡である。もし聖体がなくなったなら、聖会の力と熱と生命とはどうなってしまうであろうか。
 最後に聖会の目に見えない主を礼拝しよう。主は、教皇、司教、司祭らの目に見える聖務者を通じ、聖会を教え、治め、清めて、その尊い御務めの一端をお果たしになるが、より直接に、又、より完全な方法によって、新約の至聖所である聖体の陰から、自分その大部分を執り行われる。まず第一に司祭職の最も重要な任務は、祈りと生贄の奉献とであるが、主は聖体の中においでになって、昼夜を分かたず完全にこれを行われる。又そのほか、主はこの無力なホスチアの中にあって、実際に聖会を治め、沈黙のうちに全てを教え、牧者の口をもって誤ることがないように、信者を牧者の指導にお従わせになるのである。
 ああ、聖会の、聖体よ、御身の誉れと栄えとが、御身に贖われた人の子らによって認められ、あがめられ、愛されますように、

 感謝 浄配にして頭なる大司祭イエズスが常においでになることは、聖会にとってどんなに大きな利益であろうか。
 聖会が行くところにはイエズスも又必ず来たりたもう。炎熱を焼く熱帯の砂漠も、氷雪に常に閉ざされている寒帯の僻地もおいといならない。いや、むしろ主が聖会をこれらの地へ導いてくださるのである。
 主はまた聖会と友に、あらゆる境遇に甘んじられるのである。敬虔な人たちによって聖会があがめられる時には、主も又光栄を受けられ、これに反して聖会が迫害される時には、主も又迫害されることになる。かって三百年間、聖会と共にカタコンブの中に隠れたもうこともあった。
 このように二千年の昔、尊い御血をもって聖会を贖われて以来、主の忠実なみ心は一日とても、聖会を保護し、これを慰めることを怠りにはならなかった。主は又この間、言い尽くしがたい忍耐をもって、聖会の忘恩の子らの、主に対して絶えず犯される無数の罪過をお忍びになったのである。主は世俗の信者から、辱めを受けようと、又司祭から受けようと、一切を全て許し、忘れたもう。聖会に対するたぐいない愛、主の英雄的忍耐を覆す何ものもないのである。
 これらの聖会に対して主の限りない愛のあかしをわきまえ、母なる聖会のよき子供として、深く主に感謝しよう。45-4
 
  償い 主は聖会を愛して、悪魔の手からこれを救い出すためには十字架に上がることを少しもおいといにならず、世の終わりまで常にこれとともにとどまり、また、これを養い、一方では天父の許しを請い受けるために絶えず御身を祭壇の上に供えられる。その愛の深さはとう
てい測ることができないのである。だから、聖会がかずかずの試練や迫害に悩むとき、主のみ心は堪えがたい苦痛を感じられる。私たちがふさわしい償いをささげ、主をお慰めするためには、主のこれらの御苦しみを知らなければならない。 
 聖会がなめた試練の中で、まず最初にあげるべきものは、聖会の権威と教義とにそむいて
とったかずかずの離教と異端とである。これらのものは聖会を滅ぼし、神の真理を曲げよ
とする。慈悲の母なる聖会は、離教異端のやからによって、すでにどんな広大な領土を奪
われたことであろうか。
 次には棄教、大罪、宗教的無関心、道徳的昏睡がある。神秘体なる聖会の肢がまひして、母なる聖会のからだより永遠に離れ去ってしまうことは、いかに主のみ心を傷つけることだろう。『なんじらに聞く者はわれに聞き、なんじらを軽んずる者はわれを軽んずるなり』とおおせになった救い主は、これらの著明な棄教や聖会に対する反逆をいかに苦しく感じられるであろうか。
 最後に、ぎまんされて聖会を迫害する人民や、聖会を圧迫しその活動を妨害する政府がある。主は深くこれを憂い、かつてサウロにおっしゃったように『なんじ、何ゆえにわれを迫害するや』と彼らに向かって叫ばれるのである。実に聖会を迫害する者は、そのかしら、その浄配なるイエズスを迫害していることにほかならない。
 これらいっさいの事がらについて、主のみ心はいかに嘆き悲しまれることであろう。

  祈願 常に主のみ心を喜ばせし、いかなる場合にも聞き入れられる祈りは、はずかしめ
られ迫害されるなる会のためにささげる私たちの祈りである。この祈りこそ、まっすぐ種の御心に通うのである。
聖会は私たちの霊魂の母であるため、私たちの聖会に対する義務はなんじ、父母を敬べし』との神の第四戒に含まれる。だから常に聖会のために祈らない者はこのおきてにそむくものである。
 主は、この点についても私たちに模範を示し、無数の祭壇上で絶えず聖会のために祈り、聖会のために御身をいけにえとして天父にささげられるのである。だから私たちもまた聖会このために熱心に祈ろう。教皇のため、司教のため、司祭のため、諸修道会のため、また聖会
平和教勢の拡張のために、目に見えない教会のかしらの大司祭なる主といっしょに祈り、すべての異教異端のやからの改心、罪人の立ち帰りを神に求めよう。このように人々がみないっしょに聖体の中においでになる慈愛深い救い主を礼拝するように祈願しよう。

 実行 使徒的熱心をもって常に聖会のために祈ること。


     聖体は霊的生活の糧である
礼拝 秘跡の外観のもとに隠れながら、まことに生きたもう神にして人なるイエズスを礼拝しよう。主はかって次のように仰せになった。「我は生命のパンなり、我に来る者は飢えず。我は天より降りたる生けるパンなり。人もし、このパンを食せば、とこしえに生くべし、しかして我が与えんとするパンは、この世を生かさん為の我が肉なり、我が肉を食し我が血を飲む人は我にとどまり、我も又これにとどまる。我を食する人は我によりて生きん」と。主はとも尊い望ましい霊的生命そのものを、このようにかたくななあなたたちに約束なさった。48-6
 あらゆる生命の唯一の源は神である。人間の自然の生命、即ち感覚的並びに理性的生命もこの源から流れ出る。しかし神のみもとには、より高い、より尊い超自然の生命が存在する。それは神ご自身の生命であって、聖徳の生命、光の生命、愛の生命、無限の幸福の生命と呼ばれるものである。神は人に自然的生命を与え、なおそのうえ、超自然的生命を与えられたが、このよりよい生命の賜は決して創造主の義務ではなかった。しかし私たちの霊魂は、これをお受けすることの出来るものであったから、創造主の無限の御慈悲によって、人祖の霊魂にこれが与えられたのである。ところが人間は罪を犯してこれを失ってしまった。だから私たちの霊魂は、もともと霊的生活に適したように造られ、かっては実際にこれを受けながら、不幸にして失ってしまったその生命の消えない記憶と、それを取り戻したい限りない望みと、その喪失から生ずる癒やされない落胆とから出る深い悲しみを抱いているのである。しかしなんぴとがよくこれを私たちにこれを取り戻してくれることができるであろうか。それは最初にこの霊的生命を私たち与えてくださった神でなければ不可能であった。実際最初のたまものをくださったのは父なる神、これを取り戻してくださったのは子なる神であったのである。このようにして私たちが洗礼の秘跡によって主の御血で清められた瞬間に、私たちの霊魂の中に新しい生命の芽がもえでて、これが私たちの霊的生命の始まりとなったのであるが、この生命を保ち、はぐくみ、この生命をしてその全ての歓喜を味わわせ、聖なるわざを豊かにするためには、それを規則的に成長させる食物が必要であった。この食物こそ生命のパン、聖体のパンなのである。ああ、だから礼拝しよう。あなたにおいでになる永遠の生命、幸いな生命、聖なる生命、神の生命、あなたに約束され、聖体のパンによって強められ、確かめられた生命を、私たち霊魂の中に霊的生命の生きた養いとなったイエズス・キリストを。49-12

 感謝 もし私たちが、霊魂の滅びの恐ろしさと、永遠の生命の尊さを真に知るならば、私たちのために聖体をくふうし、これを私たちに与え給うた主の御心の愛を、どうして絶えず祝福し、感謝しないでいられよう。
 霊魂が肉体の生命の根源であるように、神は霊魂の生命の源である。神が永遠の生命を与えようと定められたにもかかわらず、私たちが現世の自然的生命だけで満足し、超自然的生命に達しようとしないのは、ちょうど茎だけで満足し、花を咲かせようとせず、或いは、花を咲かせても実を結ばせようとしないのと同様である。このたとえはまだ足りない。私たちは現在を持っているほかに、数々の罪を犯して霊魂の生命を失い、神から遠ざかり、神の御怒りと罰とに値した。これこそ真の死、永遠の死、恐れなければならない死ではないだろうか。
 だから私たちはここに安堵と希望を持って喜ぶことが出来る。それは失ったところを補い、道をたやすくし、修業を助け、霊魂の生命を育み、これを支える糧があるからである。これこそ聖体のパン、生命のパンである。忠実にこれを食べるものは決して死ぬことがない。たとえ罪を犯して倒れることがあっても、このパンの力によってまたよみがえることが出来るのである。ああ生命のパン、私たちの弱さに力を添え、神ご自身の生命の功力を私たちにお伝えになる者よ、ああ誉れと栄えのパンよ、御身は卑しい罪の底、虚無のふちから私たちを天に導き、王子らと共に王の御食卓に列席させてくださるのである。ああ平和と慰めと愛と光明とのパンよ、もし私が忠実に御身の御力に寄りすがり、御身に導かれていくならば、必ず到達することの出来る永遠の幸福の幾分かを御身はすでにこの世でも私に味わわせ給うのである。あらゆる人々感謝を受け、永遠に愛され、祝され、讃えられますように。

 償い しかし世間はこの生命の賜をまことに心から歓迎しているであろうか。私たち自身はどうであろうか。私たちは、果たして聖体による霊的生命の効果をあげているであろうか。
 ある人々は、救い主の慈愛に溢れるこの賜を知ろうとも信じようとも欲しない。悲しいことにこのような人々は決して少なくないのである。彼らは主の御食卓から遠ざかり、あわただしい動物的生涯を送り、或いは悲哀と過失の入り交じった理知一方の生活満足する。彼らは自分の霊魂の滅びを知らない。傲慢によって心の耳をふさぎ、邪悪な心を持って尊いパンを拒み、頑固にも主が御体をお与えになるこの最上の賜を追い退ける。
 又、これよりも卑劣な悪人がある。かの偽善者らは、罪悪の生活を送りながら聖体を受け、神の食卓に連なりながら同時に悪魔の招宴にも応ずるのである。即ち心を照らす信仰もなく、罪を清める愛徳も持っていないし、罪のために腐敗した自分の霊魂の中に、この生けるパンを受けるのである。しかしそれには、もっと大きな神の怒りを招くばかりで、さらに惨めな死の墓に葬られることになるのである。52-3
 さて私はどうであろうか、私は果たして神の生命を霊魂の中にもっているであろうか。私の思念は神の思念に導かれているだろうか。主の愛が他の被造物の望みを規定しているであろうか。もし私が霊的に生きていないなら、それは私がこの天来のパンから十分養いを取らない為であろうか。或いは必要な準備もせず、相応しくもないのにこれを迎える為ではなかろうか。聖体によって生きるか、生命のパンを食べないで死んでしまうかの生死の問題であるにもかかわらず、人々はこれに頓着しない。度々聖体に近づくよう熱心に勧める教会の教えも聞かず、只年に一度の復活祭の務めをやっと守るという者があるのは実に情けないことである。

 祈願 不思議な生命のパンの御約束を聞いて「主よ、常にこのパンを与え給え」と叫んだ人々に倣うがよい。主はこの言葉を主祷文の中に取り入れて「我らの日用の糧を今日我らに与え給え」と祈ることをお命じになった。あなたは、あなたの周囲にある悩める人、飢える人病む人、死んだ人の大群を眺め、彼らが自分の過失或いは無知から、この生命のパンから遠ざかっていることを嘆き、かつて使徒らが主の後に従った群衆の飢餓を哀れんだときのように彼らの為に主に願おう。「主この砂漠のただ中にあって、彼らはまことの糧となるべき食物を持たざるにより、願わくは彼らを憐れみ給え」と。
 実行 忠実に主の御招きに応じ、よい準備をもって生命のパンを受けるよう努めよう。


     聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛の証である

 礼拝 聖体の中に在す主イエズス・キリストを仰いで感謝し、賛美し、礼拝して、聖体がここにおいでになるのは、ある意味で全くあなたひとりのためであることを悟ること。これはまことに不思議なことで、地上での主の慈愛のきわみである。主が私たちに、これよりもっと親密に、もっと完全に主と一致することを許してくださるのは、天国以外にない。キリストがこれによって実際に、そして完全に、私たち各自に尊い御体をお与えになることが出来るというのが、聖体の特微であり、ねらいどころであり、目的であった。
だからトリエント公会議は、聖体は主の愛のあふれであると教えた。その意味は、ちょうど高い崖からこんこんと湧き出る泉の水が谷間を潤すように、ご託身の際の救い主の愛が、聖体によっていや増し強められて、私たちに及ぶと言うことであった。54-3
 聖トマスはこの事実を「み言葉が人となりたまいて、世界の全体にもたらされた全ての恩恵を、聖体は人間一人一人に別々に与えたもう」といみじくも言いあらわした。なるほど、この秘跡を想起することによって始めて私たちは「主は我を愛して、我がために御自らを与え給えり」との聖パウロの言葉の意味を悟ることが出来る。
 カルワリオの頂で、主は一度死に給うただけである。しかし聖体拝領するたびに、主の御死去の効果は私たち各自に分かち与えられる。私たちが主を受ける時、私たちはもはや主が確かに私たちのものであることを疑うことは出来ない。私たちは主を持ち、主を捕らえ、私の胸の中に抱いてしまう。主は私の愛のとりこである。54-11
 聖体拝領台で主と私たちの親しい会見が始まる。しかし御体を私たちに与えられることは決して主の義務ではないから、このお恵みが純粋に主の愛から出たことは明らかである。主はちょうど私たち各自が主の限りない愛の唯一の対象であり、主の御受難の目的の全てであるかのように、私たち一人一人を愛してくださる。
 この驚くべき愛の証拠に感じ、イエズス・キリストを礼拝しよう。
 いと高き無限の御者、天地の主宰者が、天からくだってあなたのために聖体となり、あなたのもとに来て、あなたの中に入り、あなたのため、虚無であるあなたのために、あなたの過去現在の過失を癒やそうと、あなたに御身を与えたもうからである。聖体を拝領するとき、主は全くあなたのものとおなりになるから、世界にはただ主とあなただけしか存在しないのである。
 記上の事実、この親しい一致が、いとも感嘆すべき、いとも玄妙な聖体の奥義である。

 感謝 イエズスが聖体を私たち各自に与えられるその大いなる慈悲に感じ、御心の限りない愛を感謝しよう。
 み心は私たちの心を知っておられる。主は至上の愛の要求が、完全で直接な贈り物、親密な一致であるのを知っておられる。主は私たちと別々に一致し、各自に賜を与えなければ、主がいかに激しく私たちを愛したもうても私たちの満足をかち得ないだろうとお考えになった。これによって慈愛深い救い主は私たちのために生まれ、私たちのために死し、私たちのために一切をお尽くしになったのに、なおそのうえ私たち一人一人に、格別にご自身を与えて、その愛を完成されたのである。56-1
 主は私たちの性質、境遇、使命、必要、困難、誘惑、試練の違うままに、それぞれ違ったお恵みを与えて、主がどんなに私たちに取ってなければならない御方であるかを知らせようと望まれた。実に、かずかぎりない多くの霊魂の中に、全く等しい霊魂はひとつとして存在しない。だからこれら全ての相異なった霊魂の一つ一つの要求に応じて、それらに適した祝福を与えなければ、愛の勝利を得ることができないわけである。これが救い主のなされたところである。すなわち聖体をふやして、これを私たち各自の養いとなさるのも、ただ私たちの完全な愛をえようとされるからである。
 だから感謝し祝福しよう、主の御慈愛がいかに深いかを悟ろう。かって砂漠の中で、数千のイスラエル人の糧として与えられたマンナよりも、はるかにすぐれた賜である聖体は、最後の晩餐の時から最後の審判の日に至るまで、人生の砂漠をさまよう数限りない群衆の、その一人一人の望みに応じて与えられるのである。

 償い 与えられたご恩の大小に応じて感謝の程度も異なり、賜によって感謝の方法も変化するのが当然ではないだろうか。もしはたしてそうであるなら、イエズスが私たちを別々に慈しみたまい、私たち一人一人をその愛の対象となさったから、私たちも他の何ものをも顧みないで、ひたすら主だけを愛する全き愛、特別な愛を持って、主の愛に応えなければならないであろう。だから、主が私たちを愛される聖体の中で、私たちも主をお愛ししよう。私たちが失敗して悲しむときにも、成功して喜ぶときにも、また働いて苦しむときにも、いつも聖体のみ前に走り出で、主に私の愛をあかし、心を打ち明け、主のみなを賛美しよう。
 私たちは、見知らぬ神に対するように、漠然として主に仕え、聖体に対して少しの親しさも示さず、被造物に対して溢れるばかりの愛情はあっても、主に対しては冷淡であり儀礼的であったり、ただ利益のためか、恐怖のためだけに主を愛しているが、これが、あれほどまでも惜しげなく、あれほどまでも激しく、私たちを愛し、ついにご自分さえも私たちにお与えになった愛すべき救い主に対する返報であろうか。この世の親子、友だち同士であっても、もっと細やかな愛情を持って相愛しているではないか。主にとって私たちは一切であるのに、なぜ私たちにとって主が一切ではないのだろうか。あなたは恥知らずだ、赤面すべきだ。私たちの心はそれほどまでに鈍いのだろうか。この世に愛してくださる主を、なぜこのよにわずかしか愛さないのか。

 祈願 イエズスを親しくお愛しする恩恵を熱心に請い求めよう。親しく愛するとは、イエズスをイエズスのために、あなたの心の全てを傾け尽くしてお愛しすることなのである。
 常に主を思い、胸の中にたいせつに主を宿し、主のために働け。主のため、主の愛のため、主の御心に叶うため、主に光栄を帰するために万事をなすように。また、常に主がおいでになる聖堂を訪れることを喜んで、できるだけ多くの時間を主のみ前に費やすように。友は合い共にとどまることを好むが、奴隷や召使いは用事があるときにしか主人の前に出てこない。用事が済むと自分の部屋に引き下がることを好むものである。聖体の秘跡によって私たちの友となることを望まれたイエズスに対して、私たちの方でむしろ主の奴隷となり召使いになろうとしているのは、主のご好意を無にすることではないだろうか。主の御喜びは人の子と共においでになることである。だから私たちも主と一緒にいることを私たちの幸福としなければならない。ああイエズスよ、私の最上の友よ、どのような被造物よりも大いなる愛を持って私をお愛しになる友よ、私もまた全てを超えて御身を愛し奉る。

 実行 愛によって聖体の中においでになるイエズスを思い、聖体により頼み聖体に祈願しよう


   聖体は地上における愛の中心であって信者の結合の鎖である
 

神の光栄と人の弱さとの間におかれた秘跡のおおいの陰からあなたを眺め、あなたの声を聞かれる救い主の御面影を心に描いて、主が使徒らの群れに取り囲まれ、最後の晩餐をおとりになった時のみ教えを聞こう。「汝ら相愛すべし、これ我が掟なり、我が汝らを愛せしごこく、汝らも相愛すべし、汝ら相愛せば、人みなこれによりて、汝らの我が弟子たることを知らん。汝ら我にとどまれ、我が愛にとどまれ」と。旧約のモイゼの掟に変わるこの新約の愛の掟が主の最後の御遺言であったことは明白である。主はこの御言葉を愛に最大の奇跡を行われたその場で発せられ、聖体の秘跡の中に、私たちがこの掟も守るに必要な恩恵をこめてくださり、またこの秘跡によって、主の愛の記憶を世々に至るまでお続けになるのである。
 隣人に仕え、真心を持って他人を愛するためにはーすなわち気まぐれや利益からではなく、純粋に他人のために尽くし、他人の幸いをはかるためには、私たちの利己心と傲慢とに打ち勝つ必要がある。利己心は私たちの邪欲の根であり、私たちが生まれながらに持つ傾向であって、それはある事柄が自分の利益になるか、また自分の卑しい欲を満足させるなら他人の権利や必要を無視してでも、或いは他人を傷つけてでも、これを求め、これを奪うことである。これに反して愛徳とは、自分の好みや気持ちを犠牲にしてでも、他人の幸福をはかることである。このように愛徳は利己心の正反対の徳であるが、執拗な利己心のくびきを断ち切って、愛徳を実践するためには、どうしても、ご自分の子らのために、御生命まで捨てられた神の愛の最大の証拠である聖体の御力を借りて、超自然の勇気を奮い起こさなければならないのである。
 実に聖体はイエズス・キリストのご生涯、ご事業、ご聖徳、御功力の完成であって、それ以外の何ものでもない。主は全ての人々に御身を与えようと聖体をおふやしになり、これををいつまでも続けようと聖体の中に絶えず生きておいでになり、どこでも又なんぴとにも恵みを与えようと、あらゆる場所に聖体をお広めになった。もともと人間は主の敵であったが、慈悲深くも主は私たちに「友よ」と呼びかけになるのである。
 私たちが他人を愛するためには他人に仕えなければならない。そして他人に仕えるためには、自らへりくだらなければならない。しかし私たちの傲慢は愛を麻痺させてしまったから、キリストの御へりくだりの秘跡の聖体によらなければ、どうしても、傲慢に打ち勝つことができないのである。主にして師であるイエズスが、奴隷のように使徒たちの足を洗われた後に、今は万民に仕えようと最も卑賤なありさまを取って、ただ一塊のパンの外観のもとにへりくだられる聖体は、私たちの愛徳の模範であり原動力である。61-5
 だから、いとも厳粛な御言葉を持って、愛の秘跡をお定めになった救い主を礼拝しよう。ちょうど泉に水が湧き出るように、聖体の中から克己、謙遜、真心の小川が流れ出る。主を愛するために他人を自分のように愛したいと望む者は、なんぴともこの流れを訪ね、この源から飲まなければならない。

 感謝 イエズス・キリストのみ教えの中には、父なる神を愛する義務に次いで、他人を兄弟のように愛することが、最も幸福な義務として示されている。このみ教えの中にこそ、私たちはみ心の愛、すなわち、永遠無窮の神、御子が人のために自ら進んで肉とおなりになったみ心の愛の深さを悟ることができるのである。
 イエズスは、まずこのように私たちを愛された後に、隣人愛の掟をお授けになり、私たちはこれによって無数の兄弟の愛を受けることができるようになった。罪人は義人の祈り功徳によって救われ、弱者は強者によって助けられ、無学者は学者の知恵を分け与えられ、貧者は必要に応じて富者の補助を受ける。だからいかなる貧しさも、苦悩も、艱難も、涙も、もうただ一人の肩の重荷ではない。この掟によって、あらゆる苦しみが地上の全ての人々に分け与えられるようになったのである。
 ああ兄弟的愛のいかに美しいことよ。人々が、みな他人の弱さと重荷と必要とを推察して互いに助け合うこの愛徳は、聖会から影を潜めてことはない。なぜなら愛徳の源なるイエズスは、常に聖会の中にとどまって、愛の能力を生かし、犠牲を堪えやすくし、仕事を祝福しておられるからである。
 その炎は全世界に広がり、悩む人々の苦痛を癒やし支えるために、奈落の底にまで行き渡るこのキリスト教的愛徳のかまどはどこだろうか。これこそイエズスの生けるみ心、燃えるみ心、憐れみ深いみ心、宇宙よりももっと広いみ心、全能なるみ心である。私たちのために聖体の中にあって私たちに模範を示し、たゆみない愛を分かち与えられるところのみ心である。だからもしあなたが隣人に感謝する事柄があるなら、彼の愛の源はみ心の愛であることを考えて、彼に感謝すると同時に聖体に感謝することを忘れてはならない。62-15
 
 償い 漠然と隣人に対する愛を黙想するだけでなく、あなた自身がこれをどのように実行したか糾明すべきである。他人を尊敬し、彼を愛したか、祈りと善業をもって他人に霊的及び肉体的の助けを与えただろうか、他人によい模範を示したか。他人の欠点を忍んだか、他人の悪を許したか、などである。
 なおこの際、聖体のみ光のもとに、あなたのしわざを糾明することが肝要である。言いかえればあなたの主イエズスがあなたを愛されたように、あなたは他人の不徳を忍び、主のなさったようにあなたは他人に仕え、他人のために尽くしただろうか。
 最も多くあなたが陥る過失に関して、特にけんそんに堅固な遷善の決心をするように。

 祈願 あなたの家族、日本国、全公教会のため愛の一致の恩恵を願い、救い主の尊い御祈りを繰り返そう。『わが祈るは彼らのためのみならず、また彼らの言葉によりて、われを信ずる人々のためにして、彼らがことごとく一ならんためなり。父よ、これ、なんじのわれに
まし、わがなんじにあるがごとく、彼らもわれらにお一ならんためにして、なんじのわれを遣わしたまいしことを世に信ぜしめんとてなり。われ彼らにおり、なんじわれにまします。こは彼らが一に全うせられんため、またなんじのわれを遣わしたまいしことと、われを愛したまいしごとく彼らをも愛したまいしこととを世のさとらんためなり。』

実行 聖体拝領後の感謝のしるしとして、毎日何ごとか兄弟的愛徳の行為を実践しよう。


   聖体はキリスト信者の慰めである

 礼拝 聖体の中に隠れたもう哀れみ深く慈愛あつい救い主イエズス・キリストを礼拝しよう。そして最後の晩餐において、主との別離を憂い悲しんだ弟子たちを優しく慰められた主の御言葉を思い起こそう。「今や憂い汝らの心に満てり、されど我再び帰りきたる。我汝らを孤児として残さじ」と。
 主の御商店は、我々の救霊の為にも、又、天父の光栄を目的として全ての労苦をいとわなかった主に対する報償のためにも、極めて必要なことであった。
 しかしどうかして、何らかの方法によって地上にとどまろうというのが主の御心お望みになるところで在り、又それは私たちにも必要であった。すなわち、主は救霊の業を完成されるためにも、又私たちの弱さを助けてくださるためにも、この地上におとどまりにならずにはいられなかったのである。65-1
 こうして聖体の秘跡は、師を失う使徒たちを慰め、苦痛に際してキリスト信者を力付けるために制定された。聖トマスは、パンと共に葡萄酒が秘跡の材料として採用された主要な理由のひとつはそれであると教えている。ぶどう酒は人々を力づけ、心を温め喜ばせてくれる飲み物であるからである。実に聖体は「全ての重荷を負える者よ、我に来たれ」との主の限りなく優しい御約束が、常にどこまでも繰り返され、苦しむ悩むどのような人も、この御言葉を思い起こして勇気を奮い起こすように定められたものである。
 まことに、主はここにおいでになるのである。主は万人のために聖体の中にとどまって、万人にご自身をお与えになる。イエズスは最上の善、無限の富、諸天使諸聖人の歓喜、光明、幸福である、天にある諸霊が永遠の至福を楽しめるのは、主が彼らと共においでになって、彼らの全てになっておられるからである。はたしてそうであるならば、今日の地上で、私たちが主を受けるなら、主は私たちにとっても一切となり、私たちはこれによってこのうえもない幸福を得、どのような試練の時でも、主によって慰められるはずであろう。たとえ、他の何ものを欠いても、主さえ私たちのものであるなら、これが全ての欠乏を補ってあまりあるはずである。65-15
 地上では天国と異なっていて、主は、その御おもてを隠し、ただ信仰によってだけ知ることができる神秘的な方法をもって存在しておいでになる。又、主の存在にもかかわらず、この世には苦悩があり、しかも時として私たちが主をお愛しているにもかかわらず、この苦悩がだんだん増していくことがあるのも事実である。これが原罪以来の人生の状態である。聖体は私たちが罪を償い、天国をかち得るために必要な艱難をなくすものでなく、
又、この逐謫の地を、すぐに光栄の楽園と化すものでもない。それは、ただ悲しみを忍びやすくして、試練の功徳を与、涙をあまり苦くないようにするために、すなわち、私たちの希望を支え、強め、動かないものとし、慰めのない悲哀、恐ろしい苦痛のただ中にあってもこれに寄りすがり「我は主に希望するゆえに倒れることなし。我は十字架に釘づけられたり。されどそはイエズスとともなり。主の愛より我を引き離すものはなんぞ」と叫ばせるために存在しておられるのである。66-11

 感謝 イエズスを有することによって生じてくる慰めの力を味わい、いろいろな悩みの中にも、なぜこのように適切に、又このように確実に私たちの希望が強められるか、その理由を細かく調べよう。それは主ご自身が本当にお苦しみになったからであって、私たちの一切の悲しみよりも、もっと大きな悲しみをお味わいになったからである。「主は自ら我らの弱さを取り、我らの悲しみを担えたまえり」と聖書に記されている通りである。主は全ての慰めを失い、悲しみの他何ものも持たない悲しみの人となって、このご自分の経験から苦難を知り、そのきわみをはかられた。苦しみを経験した者でなければ、他人の苦痛を理解してこれに同情することができない。しかしこれに反して自分で苦しんだことのある者は、自分の経験から他人の苦痛を理解し、この理解が他人に慰めを与えるための第一の必要な条件となるのである。だからイエズスは私たちの苦しみに同情して私たちに哀れみを得させようと、進んで全ての恐ろしい苦痛をお受けになったのである。
 聖体は実にこの御受難の記念であり、同時に日ごとに私たちの目前で繰り返される生贄である。そして又、それは、私たちを主の御血と御母の涙とに潤わされた十字架の道を歩かせるための御模範である。この道には今もなお、主をめぐる人々の誹謗、攻撃、呪いの声が響き、又、弟子らの背信、御母との別離、天父からの遺棄を嘆かれる主の御苦悩さえ聞こえるのである。
 しかし聖体の中においでになる主は、死を征服し、光栄をもって蘇り、天父の右に世々にお座りになる主であるから、又同時に、もし私たちが神の御名のためにしばしの苦痛をしのぐなら、この苦痛は化して終わりない生命、神との永遠の一致、無限の幸福と変わることを、声高く告げられるのである。
 ああ悲しみに沈み、困難に気をふさがれた信者たちよ、聖体を受けて主とともにおとどまりせよ。あなたたちの唯一の不幸はイエズスから離れ、世の中のたった一人の真実の慰めぬ死より遠ざかっていることである。

 償い それ故私たちが艱難の時にあたって、祈りをやめ聖体拝領を中止するのは、罪であるばかりではなく、罪以上の愚かさである。それはあたかも病人が必要な薬を拒むのにいている。実際それは、私たち自身に対し、又同時に慈悲深い救い主のみ心に対する最も残酷な振る舞いである。私たちが困難にあう時に、まことの慰め主を捨てて、世間の快楽のうちに慰めを求めようとするなら、それはもう盲目以上の狂気である。精神は錯乱し、霊魂は夢幻の中に空想の幸福の国をさまよい、それで平和をつかむことができたと思い込んでしまう。しかし夢がさめて現実に戻った時、私たちはどんなにか憂鬱になって、絶望的な孤独を感じることであろう。かって苦しみ悩んだ時に、あなたが取った態度を思い出して、慰め主なるイエズスのみ前で、あなたの過去の振る舞いを、どのように償うか考えよう。

 祈願 苦痛に出会う時、いつも聖体を思い出す恩恵を願おう。このような時、まず第一に聖体の御許に走り寄り、試練の続く限り聖櫃に逃れ場を求め、それが激しければ激しいほど、聖体拝領を怠ることがないように決心すべきである。
 聖体を受けても祈ることができない、考えることができない、などとあまり心配しないように。あなたは聖体拝領をする権利を持っているのである。あなたの苦しみそれ自身がすでに立派な準備である。イエズスを信じよう。主に向かって「我をあわれみ給え」と叫びながら、あなたの苦痛を示すなら、それで十分である。
 
 実行 悩む苦しむときには、常に倍して聖体を訪問しよう


   聖体は地上の天国であって終わりのない生命の保証である
 

礼拝 尊いホスチアは光栄と勝利に輝く天国の主宰者、天使の王を隠すひとむらの雲である。このように主が聖体の雲に隠れて地上に近づかれるのは、私たちを主に近づきやすくするためである。
 しかし、いと高き天の玉座に大いなる御稜威をもって座したもう時でも、又私たちのか弱いのをいたわるために聖体の雲に隠れて地上におくだりになる時にも、主はいつも同じ主である。主は私たちが他日天国で光栄のうちに所有する幸福の保証、その先駆けとしてここに来てくださるのである。
 聖体が天国の保証であるというのは、私たちにこれを与えるとの約束が聖体によって結ばれたからである。だから、「我が肉を食する者は永遠の生命を有する。我は天よりのパンなり。我を信ずる者は死をみることなかるべし」と主はかたく約束されて御身をその保証としてお与えになったのである。だから聖体はこの御約束をどこにあっても繰り返し、それを実行されるのである。70-11
 今日聖体によって御身を私たちに与えてくださる以上、主は後で天国の幸福を私たちにお与えにならないことができない。いったい、天国とは何か。イエズスを有すること、永遠に、確実に、イエズスを所有すること、神秘的に余すところなく終わることなくイエズスを所有することである。主は完全に私たちのものとなり、私たちは完全に主のものとなる。天国とはこれである。では、聖体とは何であるか。イエズスを有すること、その中に常に永久にイエズスが存在されること、私たちが秘跡的にイエズスをお受けすることではないか。イエズスの存在、並びに私たちがイエズスと一致する方法は、天国と聖体におけるのとでは相違がある。なぜなら地上にあっては、一方にイエズスはその存在をお隠しになり、他方に私たちは主を完全所有して、いつも主と共にいることはできない。ここでは天国のパンを食する時にも、主を認めるのな信仰だけで、感覚は少しも主に触れないばかりか、感覚は度々信仰を弱め、その光を曇らせて、霊魂が天高く駆け上ることを妨げさえする。しかしながら同じ実在が天国と聖体とにある。主は天国と同様に、この地上においても聖体によってご自身を私たちに本当に与えてくださるのである。71-9
 だから、聖体が天国の保証だと言っても、別に、不思議ではないだろう。救い主がすでにこの最初の御恵みを与えてくださる以上、どうして他日天国でご自身を完全に与えることを拒まれるだろうか。この真理をよく味わい、私たちが主に対して、はなはだ不忠実で変わりやすいのに反し、決して御約束を変えられない主を礼拝しよう。
 聖体は又この世での天国の先駆けであって、その意味で保証以上のものである。先駆けとは、のちに与えられる祝福の一部を、あらかじめ前もって味わうことである。すなわちそれは、私たちのために用意された天国の完全な幸福の最初の味わいである。72-1
 天国とはどんなところであろうか。それはあらゆるよいものを全部完全に自分のものとするところである。だから旧約聖書は「聖体を全ての喜びを含むパン」と名付けた。イエズスも又聖体を「天よりのパン」とお呼びになった。実際、聖体はその名にそむかず、神を直感する至福は神のパンによって味わわれ、天使の歓喜は天使のパンによって測られ、天国の幸福は天からのパンによって始めて知られるのである。
 この涙の谷に、このようなおびただしい災いと、不幸とが絶えないのは、聖体の無力によるのではなく、責任はみな私たちにあるのである。すなわち私たちの信仰は地上の財宝に惑わされ、私たちの心は物質的欲望によって弱くなっているために、ついに永遠に清い喜びを楽しめぬようになったのである。
 だから礼拝しよう。この世を楽園の入り口にするために、天からおくだりになった生きたパンを。感謝と感嘆の心を持ってこれを礼拝しよう。

 感謝 主の御慈愛のいかに大いなることよ。主の愛のいかに激しいことよ。私たちの上に施し給う主の哀れみにいかに深いことよ。なぜなら、かりに私たちの労役と戦いとの報いとして天国の御約束があるだけで、これを得るのに必要な功徳は、私たちが独力で積み上げなければならなかったとしても、それで主の愛とご好意とっは十分に証明されたわけだからである。ところが主はそれで満足されなかった。私たちのために死んで私たちに天国に入る件を得させ給うた救い主、御血の功徳をもろもろも秘跡を通じて皆に分かち給うた救い主、尊いみ教えによって完徳の道をお示しにになった救い主、まずご自分から天国に昇って私たちのために席を用意したもう救い主は、まだこれをもって十分とされず、私たちの手を取って天国に導くために、聖体の中に隠れて再び地上に帰り来ることをお望みになった。主は私たちに天国を保証するために、前もってご自身を私たちにお与えになるのである。それは天国の歓喜の幾分かを地上ですでに私たちに味わわせ、これによって私たちを、この世の一時的な財宝の誘惑から退け、天井の永遠の幸福を慕わせようとするためであった。
 ああ主よ、私たちを天国に導くために、なを主のなさることが残っていたであろうか、御身の愛は実によくゆきとどいている。これほどまでご配慮されるのに、もし天国に行くことができなければ、私たちが懲罰を受けるのは当然であろう。どんな懲罰も、これを避けさせるために主が私たちに示したもう御慈愛に比べるなら、もののかずではないからである。

 償い ああ主よ、汚れない美、終わりない命、全ての幸福と善そのものなる神よ、御身がこの天来の秘跡をもってお与えになる御約束と御招き、又天国の保証とその先駆けとを心に思い浮かべる時、私たちは、どのように恥じなければならないであろうか。私たちはこの世の快楽が奪い去られてしまって不幸に陥った時でなければ、天国のことを考えようとしない。すなわち、地上の不幸をいやすために始めて天国を望むのであるから、その反対に少しでもも原生的の幸福を得、自分の心、自分の感覚の欲望が満たされると、目を神の方にあげることをやめてしまう。たまたま天国のことを考えるかと思うと、それは主にに向かって「願わくはこの幸福の杯を飲みほすまで、我を天国に呼び寄せたまわざれ」と嘆願するのである。
 ああ至聖なる聖体よ、御身が親しく来てくださるのは、このような地上の迷いに捕らわれた汚れた霊魂の中である。そこで御身はわずかしか愛されない。だから御身は私たちの中で無力無為に始終し、熾烈な愛に燃えた聖人らの霊魂の中に生じさせられたような、神と天国に対する感激、熱望、歓喜、法悦を私たちの心にお起こしにならないのである。

 祈願 天来のパンなるいとも尊い聖体のみ前に出るたびごとに、望徳を盛んにする最もまじめな決心をしよう。あなたの日々の祈りと聖体拝領の際に、かたときも望徳を忘れないように。また、あなたの感謝の時にも、この決心に忠実であったかどうかを糾明しよう。
 これまでの事がらの実行は、必ず肉のきずなから私たちを引き離し、私たちを地上の細事から超越させ、私たちに現世を軽んじさせ永遠を愛させるようにするであろう。

 実行 聖体拝領のたびごとに最後まで主に忠実である御恵みと天国を恋い慕うたまものとを願い、また永福を得る妨げとなるいっさいの事がらをぎせいとしてささげることを決心しよう。

                  エ ク ト シ ス ト は 語 る

            著者  ガブリエル・アモース
              編集  いつくしみセンター
              発行者  エンデル書店
              発行日  2007年7月16日 カルメル山の聖母
           抜粋52頁~54頁

           教皇レオ十三世が目にされた悪魔のまぼろし
 第二バチカン公会議による刷新の前には、ミサが終わるたびに司式者と信徒はひざまずいて聖マリアと、 大天使ミカエルへの祈りを一つずつ唱えたことを記憶している方はたくさんおられることでしょう。これは実にすばらしい祈りで、それを唱える人たちすべてに大きな恩恵をもたらしてくれます。

 大天使ミカエル、戦いにおいてわれらを守り、悪魔の凶悪なるはかりごとに勝たしめたまえ。 
天主の彼に命を下したまわんことを伏して願いたてまつる。
ああ、天軍の総師 霊魂を損なわんとて、この世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、天主のおん力によりて地獄に閉じこめたまえ。 アーメン

 この祈りはどのようにして生まれたのでしょうか? ここに記載するのは一九九五年に報道された「エフェメリデス・リタージカ」誌の記事です。
 ドメニコ・ペチェニーノ神父記「正確な年は記憶していません。ある朝、教皇レオ十三世がミサを捧げられ、いつもどおり感謝の祭儀に出席されていました。すると突然、出席者は教皇が頭を上げられ、身動きも瞬きもされずに司式者の頭上にある何かを凝視しておられるのに気がつきました。教皇の表情には恐怖と畏怖が混ざり合っており、顔色と顔つきが急激に変化したのです。ただならぬ重大な何かが教皇に起こっていました。
 やっと正気を取り戻されたかのように教皇は軽く、しかししっかりと手を打って立ち上がられ、ご自分の執務室へ向かわれました。心配した随行員たちが気遣って、ささやきを交わしながら教皇のあとに続きました。
教皇様、ご気分でもお悪いのでらっしゃいますか? なにかお入用なものはございませんか?』 『なにも要らない、なにも』と教皇は答えられました。三十分ほどしてから、教皇は礼部省(現・列聖省および典礼秘跡省)の書記官をお呼びになると一枚の紙を手渡され、それを印刷して世界中の裁治権者たちに送るよう求められました。その紙はなんだったのでしょうか? それこそ各ミサの終わりに必ず人びととともに唱える祈りだったのです。聖マリアへの願いと、天軍の総師への熱烈な祈りで、サタンを地獄へ送り返してください、と神に嘆願するものでした。
 教皇レオ十三世は、それらの祈りのあいだはひざまずくように指図されました。そのとき報道された記事は一九四七年三月三十日、ラ・セッティマーナ・デル・クレロ紙に掲載されましたが、その情報の出所は伏せられていました。しかし、その祈りが一八八六年に特別な状況の中で、実際に裁治権者たちに送られたことは立証できます。信頼できる証人であるナサリ・ロッカ枢機卿が一九四六年、ボローニャの教区に宛てた四旬節の司牧書簡の中で記しています。 『教皇レオ十三世ご自身が書かれた「霊魂を損なわんとて、この世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔」という祈りの文には、聖下の私設書記官モンシニョール・リナルド・アンジェリによって幾度もくり返された歴史的説明があります。レオ十三世は、本当にまぼろしの中で永遠の都市ローマに集まって来ようとしていた悪霊をごらんになったのです。教皇様が全教会に唱えるよう願われた祈りは、その体験の成果でした。聖下は強く、力に満ちた声でその祈りを唱えられました。わたしたちはバチカンのバジリカの中で幾度となくそれを聞きました。 レオ十三世はまた、個人的にローマ典礼儀式書 (一九五四年版II C, III,p.863)に含まれている悪魔祓いを書かれました。聖下は司教や司祭たちに彼らの教区および、小教区でこれらの悪魔祓いをしばしば読むように薦められました。教皇様ご自身が一日中、よくそれを唱えておられたものでした』」

                    ミ サ 聖 祭  抜粋
    著者  R・プリュス    
   共訳  小田部胤明
       上野 和子
     出版社 ドン・ボスコ
 二、𦾔約における三大犠牲の追憶  (78~81頁)
 聖變化の後である。聖なる犠牲は既に祭壇上にまします。 司祭は、アベルアブラハムやメルキセデクが捧げた供物を、神が嘉し給うたように、聖主御自身捧げ給うたところのその御體と御血の犧牲を、聖父が當然受け納れ給わんことを祈る。
一、𦾔約聖書における犠牲という言葉の通念
 a、通常、犠牲とは努力を要する行動で、捧げるときに苦しみを伴うことを意味する。
 b、 語源的に、犠牲 (sacrificium) とは、「聖なることを爲すこと」 (sacrum facere) から来ている。この語義には、「苦痛を伴う」という現實の観念は含まれていない。 
c、歴史的に見れば、犠牲は、通常の解繹よりも、語源的解繹に近いようである。聖アウグスチノは「犠牲 (sacrificium) とは、と聖なる一致をするためにわれわれが行う業そのものである」と云う。本質的に云って人間は絶對的に神に依存することを告白し(禮拝)、その御恵みを謝し(感謝)、必要な御助けを願う(希願)。この目的を達するために、人は神から頂いた御恵みの一部を再び捧げて返すのである。神に何か捧げるときに、人間が何か多少苦しむと云うことは、人が元來罪を犯し神の意に反してまで被造物に執着し、不當な快楽を味ったのだから、それに對する當然の報いである。そのために、大抵の場合、何か捧物をするとき不自由を覺悟して、捧げなければならないのである。
 舊約において一般に犠牲とは(罪滅ぼしの観念が強い「贖罪のため」犠牲の場合のほか)宗教的表敬以上の何ものでもなかったのである。即ちそれは、全能なる、萬物の主宰者の偉大さを認めることであったのである。
  二、アベルの犠牲--それは、アブラハムとメルキセデクの場合と同じように、 完全なる犠牲(即ちイエズスの生贄)を豫め示したものであるが故に、価値があるのである。アベルは、兄のカインとは違って、義人であった。いたましくもキリストがその兄弟なる人類の手で殺されると同じく、義人アベルも、血を分け合った弟即ち悪人カインにより殺されるのである。
 三、アブラハムの犠牲--これは、象徴的であるだけ非常に大きな感銘を人に興える。神は一瞬たりとも、イザアクが父アブラハムによって犠牲として屠られることを望み拾わなかった。しかし神は、アブラハムの信仰とイザアクの従順をお試めしになったのである。だが、新約の犠牲においては、聖父は聖子が犠牲になることを承知なさるのである。アブラハムにおいても犠牲はわれわれにとってあれほど不可思議なものであったが、キリストにおいては遙かに不可思議なものとなる。次の聖パウロの言葉を思い出して、その怖るべき意味を測ろう。「神のこの世を愛し給えることは、御子を賜うほどにして」
 四、メルキセデクの犠牲--アベルは最初の義人であり、アブラハムは神を信ずる者の父親であるが、メルキセデクは、神に最初にパンと葡萄酒を捧げた人であって、この意味において彼は聖體を、明確に想い浮かばせる。北伊ラヴェンナ市の聖ヴィターリス聖堂には、メルキセデクの犠牲を表わす有名なモザイクがある。そのモザイクは、祭壇の役目の机の上に、二つのパンと、初代敦會で使われたような手の二つついた聖杯の置かれた有様を描いている。初代教会では信者たちが犠牲用の葡萄酒を持って来るので、その葡萄酒は、手の二つついたこの甕のようなものに入れられて、分配された。この甕は助祭が、捧げ物を容れるために用いたのである。 司祭と信者たちが頂くために必要なものはこの大きな壅から取り出したのである。
ミサにおいて教会が𦾔約を追憶することにより、われわれは深い教訓を得る。即ち、𦾔約と新約との間には一致があり、新約は舊約の延長、完成でしかない。両者の間に、對立はないし、勿論衝突もなく、一致が存在する。舊約の犠牲は、十字架によってその価値を得る。事實、世界にはただ一つの犠牲、即ちミサにより繰りかえされるカルワリオと、ただ一つの犠牲なる聖主しか。ないのである。
私たちは、聖書、少くともその一番重要な箇所を良く知っているか?

     聖ピオ十世公教要理詳解
     カトリックの教えとその主な部分
                    護教の盾より

使徒信経の第十二箇条
最後の箇条「おわりなき命」では何を教えますか。
使徒信経の最後の箇条では、この世の命を終えたのちにも、来世があり、選ばれた人たちは永遠のしあわせを楽しみ、罰せられて地獄におちた人々には永遠の苦しみが続くことを教えます。
天国の幸福がどんなものか、いま理解できますか。
栄光にみちた、天国の幸福がどんなものかを、いま理解することはできません。天国の幸福は、私たちの限られた理解力のはるかに及ばないことである上、天国の善とこの世の善を比較することはできないからです。
選ばれた人々の幸福とはどんなものですか。
選ばれた人々の幸福とは、すべての善の源である神を永遠にあおぎ見、愛し、所有することです。
罰せられた人々の不幸とはどんなものですか。
罰せられた人々の不幸とは、永遠に神を見ることができず、地獄で永遠の苦しみを受けることです。
天国の恵みと地獄の災いは霊魂だけのものですか。
今のところ天国や地獄にいるのは霊魂だけですから天国の恵みや地獄の災いを受けるのは霊魂だけです。しかし、体の復活のあとでは、永遠の幸福も、永遠の苦しみも霊魂と体が共に受けることになります。
天国の幸福は選ばれた人々みなに、また地獄の苦しみは罰せられた人々みなに、それぞれ同じですか。
天国の幸福は選ばれた人々みなに、地敬の苦しみは罰せられた人々みなにとってそれぞれその本質と永遠性においては同じですが、一人一人の徳、不徳に応じて、いずれにも程度と段階の差があります。
使徒信経の終りにある「アーメン」ということばは、どんな意味を持っていますか。
祈りの終りにある「アーメン」ということばは、「そうでありますように」という意味です。従って、使徒信経の終りにある「アーメン」は、「上に述べた通りです」という意味を表わし、言いかえれば次のようになります。「この十二箇条に述べられていることはすべて真実であることを信じ、実際に目で見ているより確かをものとして信じます。」

         聖ピオ十世公教要理詳解
     カトリックの教えとその主な部分
                    護教の盾より

使徒信経の第十箇条
第十箇条「罪のゆるし」では何を教えますか。
使徒信経の第十箇条では、イエズス・キリストが教会に罪をゆるす権能をお与えになったことを教えます。
教会はどんな罪でもゆるすことができますか。
教会は、どんなに多くても、重大であっても、すべての罪をゆるすことができます。それは、イエズス・キリストが、つなぐ力と解く力を教会にお与えになったからです。
教会内でこの権能を行使するのはだれですか。
教会内で、罪をゆるす権能を行使するのは、まず第一に、この全権能を持つ教皇、ついで、司教と司教のもとにある司祭です。
教会はどのようにして罪をゆるしますか。
教会はイエズス・キリストの功徳にもとづいて罪をゆるしますが、この目的のために制定された秘跡、特に洗礼と告解を通して罪のゆるしを与えます。

使徒信経の第十一箇条
第十一箇条「肉身のよみがえり」は何を教えますか。
使徒信経の第十一箇条では、すべての人間が復活すること、すなわち、霊魂が生前有していたからだにふたたび合わされることを教えています。
「肉身のよみがえり」はどのように起こりますか。
「肉身のよみがえり」(死者の復活)は、何でもおできになる全能の神の御力によって実現されます。
死者の復活はいつ起こりますか。
死者の復活は、世の終りに起こり、続いて公審判が行なわれます。
神はなぜ肉体の復活をお定めになったのですか。
神が肉体の復活をお定めになったのは、霊魂が肉体と共に善業、悪業をしたかぎり、肉体と共に、報いや罰を受けるべきだからです。
人はみな同じような仕方で復活しますか。
選ばれた人々の体と罰せられた人々の体には大きなちがいがあるでしょう。選ばれた人々の体だけが、復活されたイエズス・キリストと同じように、光栄に輝く体の特徴を得ることができるのです。
選ばれた人々の体を飾る特徴とは何ですか。
選ばれた人々の体を飾る特徴には次のようなものがあります。
1.
受苦不能性 〜 この恵みによって、どんな悪や苦しみの束縛も受けず、食べたり休息したりする必要などからも解放されます。
2.
輝き 〜 この恵みによって、太陽や星のように輝くことができます。
3.
敏捷性 〜 一瞬のうちに疲れることもなく場所を変え、地上から天国へ移ることもできます。
4.
精敏 〜 復活されたイエズス・キリストのように、物体を障碍とせず貫通することができます。
罰せられた人々の体はどうなりますか。
罰せられた人々の体は、栄光に輝く体の特徴を得ることができず、永遠の罰の恐ろしい印を身につけなければなりません。
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