ミ サ 聖 祭  抜粋
    著者  R・プリュス    
   共訳  小田部胤明
       上野 和子
     出版社 ドン・ボスコ
 二、𦾔約における三大犠牲の追憶  (78~81頁)
 聖變化の後である。聖なる犠牲は既に祭壇上にまします。 司祭は、アベルアブラハムやメルキセデクが捧げた供物を、神が嘉し給うたように、聖主御自身捧げ給うたところのその御體と御血の犧牲を、聖父が當然受け納れ給わんことを祈る。
一、𦾔約聖書における犠牲という言葉の通念
 a、通常、犠牲とは努力を要する行動で、捧げるときに苦しみを伴うことを意味する。
 b、 語源的に、犠牲 (sacrificium) とは、「聖なることを爲すこと」 (sacrum facere) から来ている。この語義には、「苦痛を伴う」という現實の観念は含まれていない。 
c、歴史的に見れば、犠牲は、通常の解繹よりも、語源的解繹に近いようである。聖アウグスチノは「犠牲 (sacrificium) とは、と聖なる一致をするためにわれわれが行う業そのものである」と云う。本質的に云って人間は絶對的に神に依存することを告白し(禮拝)、その御恵みを謝し(感謝)、必要な御助けを願う(希願)。この目的を達するために、人は神から頂いた御恵みの一部を再び捧げて返すのである。神に何か捧げるときに、人間が何か多少苦しむと云うことは、人が元來罪を犯し神の意に反してまで被造物に執着し、不當な快楽を味ったのだから、それに對する當然の報いである。そのために、大抵の場合、何か捧物をするとき不自由を覺悟して、捧げなければならないのである。
 舊約において一般に犠牲とは(罪滅ぼしの観念が強い「贖罪のため」犠牲の場合のほか)宗教的表敬以上の何ものでもなかったのである。即ちそれは、全能なる、萬物の主宰者の偉大さを認めることであったのである。
  二、アベルの犠牲--それは、アブラハムとメルキセデクの場合と同じように、 完全なる犠牲(即ちイエズスの生贄)を豫め示したものであるが故に、価値があるのである。アベルは、兄のカインとは違って、義人であった。いたましくもキリストがその兄弟なる人類の手で殺されると同じく、義人アベルも、血を分け合った弟即ち悪人カインにより殺されるのである。
 三、アブラハムの犠牲--これは、象徴的であるだけ非常に大きな感銘を人に興える。神は一瞬たりとも、イザアクが父アブラハムによって犠牲として屠られることを望み拾わなかった。しかし神は、アブラハムの信仰とイザアクの従順をお試めしになったのである。だが、新約の犠牲においては、聖父は聖子が犠牲になることを承知なさるのである。アブラハムにおいても犠牲はわれわれにとってあれほど不可思議なものであったが、キリストにおいては遙かに不可思議なものとなる。次の聖パウロの言葉を思い出して、その怖るべき意味を測ろう。「神のこの世を愛し給えることは、御子を賜うほどにして」
 四、メルキセデクの犠牲--アベルは最初の義人であり、アブラハムは神を信ずる者の父親であるが、メルキセデクは、神に最初にパンと葡萄酒を捧げた人であって、この意味において彼は聖體を、明確に想い浮かばせる。北伊ラヴェンナ市の聖ヴィターリス聖堂には、メルキセデクの犠牲を表わす有名なモザイクがある。そのモザイクは、祭壇の役目の机の上に、二つのパンと、初代敦會で使われたような手の二つついた聖杯の置かれた有様を描いている。初代教会では信者たちが犠牲用の葡萄酒を持って来るので、その葡萄酒は、手の二つついたこの甕のようなものに入れられて、分配された。この甕は助祭が、捧げ物を容れるために用いたのである。 司祭と信者たちが頂くために必要なものはこの大きな壅から取り出したのである。
ミサにおいて教会が𦾔約を追憶することにより、われわれは深い教訓を得る。即ち、𦾔約と新約との間には一致があり、新約は舊約の延長、完成でしかない。両者の間に、對立はないし、勿論衝突もなく、一致が存在する。舊約の犠牲は、十字架によってその価値を得る。事實、世界にはただ一つの犠牲、即ちミサにより繰りかえされるカルワリオと、ただ一つの犠牲なる聖主しか。ないのである。
私たちは、聖書、少くともその一番重要な箇所を良く知っているか?