「ミサの本質」について
 「ミサと聖体」(ラニエロ・カンタラメッサ著)47頁に、
 『パンを裂く行為に伴う、内的な行いの真髄を言葉で表現するのは不可能でしょう。
 「イエズスはパンを取り、割って……」……イエズスは、あらゆる抵抗を克服しつつ、そして、「あなたは生贄も供え物を望まれない、ただ私の為に体を準備された。……『私について巻物に書きしるされている通り、私はあなたの御旨を行うために来る。』(ヘブレオ10・5-9)という、聖書の周知の言葉を御自身に言い聞かせつつ、御自分の人間としての意志を御父に完全に明け渡されたのです。』と。
  
 また、「わたしの霊魂における神の慈しみ」 (聖ファウスティナの日記)298頁の684に、  「イエズスが私を最後の晩餐の高間に入らせられました。そして、私はそこで起ることの証人でした。そして最も深く感動したのは、聖変化前に、イエズスが目を天に上げ、御父との神秘的な対話に入られた時です。私たちがその瞬間を本当に理解するのは、永遠においてだけです。主の目は二つの炎のようでした。その御顔は雪のように白く輝いていました。その人物全体は御稜威に満ち、主の霊魂は熱望でいっぱいでした。聖変化の瞬間に、愛は満たされました。--生贄は完全に成し遂げられました。今は、死の外面的な儀式だけが行われるでしょう。--外面的な破壊。[生贄の]本質は、最後の晩餐の高間の中にあります。私の全生涯において、礼拝のあの時間中ほど深くこの神秘を理解したことは決してありませんでした。ああ、全世界がこの計り知れない秘密を知るようになることを、どんなに熱く望んでいることでしょう。」

 それから、「もう一人の私」(エンツラー著)139頁 の「ミサと聖体」には、
 「ミサは苦しみ以上のものである。ミサのミサであるゆえんは、神でもあり人でもある私の人間的な意志が御父の神的な意志と一致することである。十字架上に永遠に釘づけられていても、私の意志の自由な奉献がなかったなら、完全な礼拝も、人類の救いも、ミサもなかったであろう。」
 イエズスさまの生贄に於いて御父がお喜びになられたのは、聖金曜日の御子の苦しみではなく、聖木曜日のイエズスさまが「御自分人間としての意志を御父に完全に明け渡された」それは「御父がそうなるようにと決定されることに対しても、また、そうなるのをお許しになることに対しても、」従うこの行為が御父を御喜ばせした。これがミサの本質。