P.M.V. Bernadot,o.p.

             De l Eucharistie
               a  la  Trinite

 

                    ベ ル ナ ル ド 著

                    聖 体 よ り 三 位 一 体

 

 

                                      宮 本 さ え 子  訳
                                      パウロ・エグリ校閲

 

                          ヴェリタス書院
     邦 訳 序

「彼等は生命を得、しかも豊かに得んがために我は来れり」と主キリストは仰せられた。聖三位の第二のペルソナに在す永遠の聖言が人間となり給うたのは、御托身と救済の玄義によつて万人に罪の赦しと永遠の生命を得させ給うためであります。救済的恩寵を信徒等に与えんがために、キリストはその教会に七つの秘蹟の泉を遣し給うたが、その中で御聖体は救済の玄義と最も密接に関係があり、その恩寵を我々に最も豊かに蒙らせるのであります。実に他の秘蹟はすべて聖体に秩序づけられている。聖主御自らこの秘蹟を定めるに先立って、その不思議な存在と効力についてあらかじめ弟子達に告げ給うた。「我は生命のパンなり……。我は天より降りたる。……活けるパンなり。…人若しこのパンを食せば永遠に活くべし…。しかして我が与えんとするパンは、この世を活かさんための我が肉なり…。我が肉は実に食物なり、我が血は実に飲物なり。我が肉を食し、我が血を飲む人は我にとゞまり、我もこれにとゞまる。」と。(ヨハネ第6章参照)
 初代のキリスト信者が喜びに充ちて主キリストのために命を捧げる程の勇気を得たのは、就中「心を同じくして長時間神殿におり、家々にパンを擘きて」(使徒行録2・46)即ち聖体の生贄に与り、生命のパンに在すキリストを己が靈魂の糧としたからであります。
 廿世紀の初頭,偉大なる教皇聖ピオ十世が“Instaurare omnia in Christo "「キリストを頭にして万事をまとめる」という聖パウロの言葉を理想として、神とキリストと聖会から離れつつある世界の中に生きるキリスト信者をして、頻繁に聖卓に近づき、御聖体によつて超自然的生命を豊かに汲取るように奨励せられて以来、全世界のカトリック信者は、以前よりも、より頻繁にこの天よりのパンを拝領するようになったのであります。
 さて、聖体拝領の効果は、拝受者の準備と熱心との度合に応ずるものであるが、熱愛を増す最も適当な手段の一つは、この秘蹟の聖さやその効果の驚くべきとを深く味い悟ることであす。
 日本語で発行された本の中で、ミサの生贄という見地を別にして、特に聖体拝領の見地の下にこの秘蹟の感嘆すべき効果を詳解するものは非常に尠いように思われます。それ
故、本著の発行は、司祭、修道者にとってばかりでなく、広く信者一般のためにも、聖体の秘蹟を通して主キリストと聖三位一体とより深く、より緊密に一致するための尊い助けと励ましとなり、且今までより以上にこの秘蹟を通してより豊かな恩寵を得るための良き案内書となることを信じて疑いません。
 この廿世紀の真中に生きている日本の信者にとっても、初代のキリスト信者と同様、頻繁にして熱心な聖体拝領によつて信仰を強められ、愛熱を燃やされることは何にもまして肝要なことであるに違いない。充分な理解に基ずいた篤い信仰と愛とをもつて聖体を拝領する信者は、必ずその靈的生活にたえまなく向上の一途を辿るようになるでありましょう。

 本書の原著者 Marie-Vincent Bernadot 師は、一八八三年、フランスの Tarn et Garonne県の Escatalens に生まれた。 最初は Montauban 教区の司祭となり、ついで一九一三年、南フランスの Toulouse 管区で説教者兄弟団、即ちドミニコ会に入会された。 暫く後 Saint-Maximin にあるその管区の哲学、神学研究所の修道院々長に任命された。 それからまもなく非常にめざましい知的、且靈的活動をはじめられた。第一次世界大戦後、一九一九年、La VieSpirituelle(靈的生活)という月刊雑誌を創刊し、又 Les Editions de la Vie Spirituelle 即ち靈的生活、特に神秘学に関する多くの優れた著書の発行を創刊された。一九二八年には、パリの近くに位するJuvisy のドミニコ会の新しい大修道院を中心にして、-La Vie Intellectuelle-(知的生活)という月刊雑誌を、又、Les Editions du Cerf(鹿出版社)というフランスカトリック界一流の出版社を創設され、そのいづれによつてもフランスの知識層に対してのみならず、多くの国々に対しても知的、靈的両分野に於カトリック思想の影響を広く遍く及ぼした。一九三八年に -Le Vie Chiretienne avec Notre Damel-(聖母と共なるキリスト教的生活)という写真入りの週刊誌を創刊した。
ベルナード師の著書には先ずこゝでその邦訳を紹介するところの-De I Eucharistie Trinite-(聖体より三位一体へ)があるが、フランスでそれが発刊されるや、時もうつさず十万冊以上も版を重ねた。その外、師は、-Notre Dame dans ma Viel-(我が生活と聖母マリア)Sainte Catheme de Sienne (シエナの聖カタリナについての研究)及び-Les Freres Precheurs-(説教者兄弟達)等を表わしている。その死後の-Lettres de Direction-(指導書簡)が発行された。
 主キリストと聖会のために全身全靈を捧げた生涯を終えて、彼は Aveyron 州の Labastidede i Evequeに於いて、第二次世界大戦中、一九四一年六月一五日永眠された。

 

 訳者、宮本さえ子さんは、いま(一九五六年夏)南フランスの山中にある修道院で、心霊生活に励むと共に、カトリック神秘学を学んでいる。
 フランス語はフランス人に劣らず上手に話し、フランス文学並びにカトリック思想の薀蓄は極めて深い。 翻訳はエルネスト・エロの大作「聖人たちの横顔」を十年前上梓したが、 その後、故S・カンド神父と協力してジルベール・セプロンの「聖人地獄へ行く」や、・ビショプの「カイミロア」などを、流麗な日本文に訳出した。その他名前を伏せたカトリック関係の論文、エッセイ、ニュースなどの翻訳は数え切れないが、ことごとく縁の下の力持ち的業績に終始している。
 また創作「光りの子」は戦争の爆音のなかに作られた珠玉の傑作で、版を重ねること既に十年余り、その他雑誌などに発表された小品も少くない。本書の翻訳は、そうした多忙な思索と執事のなかに、少しずつ水滴のたまのように継続され、そして完成された。訳者の稀な文学的感覚、日本およびフランス文学の深い素養、それに火のような信仰が、一体となつて、この名著の邦訳が完成されたことを深く喜ぶものである。

     一九五六年四月一日  御復活の大祝日に
                 京都聖トマス学院に於て
                   神学博士パウロ・エグリ

 

 

     は し が き
 天主の御恵により、現在聖体拝領台に毎日近づく人々は、多数見受けられる。しかし実際の所、その大多數は、日々の聖体拝領から望み得られるだけの利益を獲ていないことを認めなければならない。とはいえ彼等はたしかに敬虔であり、聖主を愛し奉り、聖会の要望する正しい意向を持って主に近づき奉っているのである。では、何が不足しているのであろうか。つまりは、聖体の玄義に素直に入り込み、聖体拝領という大いなる現実の深みにまで達することが、足りないのである。
 この小著は、このような善意の靈魂の為、一つの光と手引となることを志すものである。そして、これを以て信仰の完成を援助したいと思う。何故なら、靈的生活の極致は、聖三位の信心に在るからである。多くの霊魂がこのような高い境地に向かい、神の御光栄とも聖会の利益ともなるこの「一致」の域に入ることは望ましい。その為には、彼等のよき志を励ますこともよいが何よりも先ず、彼等の精神を照らし導くことが必要である。これらの真面目な靈魂は、しばしば、眞理に目があきさえすればただちに完全な自己放棄の道へと進み得るのである。眞理が一つの靈魂にふれる時、その接触から電光のごとく愛がひらめき出て靈魂を輝かし燃やすのである。
  教義のうちでも高遠な眞理は、特殊な場合に、選ばれた靈魂にのみ述べられるべきであるとする方針は、聖会において最も豊富な聖徳の源泉を閉ざすものである。なぜなら、眞理こそあらゆる獻身と熱誠を生み出す本源だからである。洗禮の秘蹟をうけたすべての靈魂には、上智と聰明の賜の輝きとして、 神的知識が働いていることを忘れてはならない。 それによつて、もつとも単純な人々や、無學者でも、最高の真理をわきまえ、味わい得るのである。 故に、著者は、天主がおん自らを啓わし給うたまゝに、天主を知らしめるべきである、と信ずるのである。
 願わくはこの小著が、「愛に根ざし且つ基づきて、すべての聖徒と共に、廣さ長さ高さ深さの如何を識り、また一切の知識を超絶せるキリストの寵愛を識ることを得て、總て神に充ち満てるものに満たされ」たる信者を養成する助けとならんことを。

   

 

 


      上智の座なる聖母マリアに、
      シエナの聖女カタリナの祈りをもって
      この小著を恭しく捧げ奉る。


 ああ聖三位の宮居なるマリア、聖なる火の籠、あわれみの御母なるマリアよ、御身はイエズスなる生命の實を結び給えり。
 ああ我が魂のこよなく慕いまつるマリアよ、我等に生命の教えを與えたまう「御言」は、御身の内に誌され給えり。御身は御言を我等に示し説き明したもう。願わくは、我等に御父の大能と慈愛を、御言の叡智と聖靈の愛を、示し給え。
  聖靈よ、我が心に来たり給え!!
    眞の神なる聖靈よ、御身の大能もて我が心を御身に引きよせ、敬畏の       念と共に我に愛徳を與たまえ。
  キリストよ、もろもろの悪しき思いより我を守り給え。御身の甘美なる愛も     も  て我を熱し燃えしめ給え。さらばすべての苦しみ我に軽やかとならん。
   我が聖なる御父よ、我が優しき主よ、今こそ我がすべての行いにおいて、      我を助け給え。
  あゝ愛なるキリストよ!
  あゝ愛なるキリストよ!

 


      序    章   キリストの玄義

               我は道なり ――我に歩め
 
               我は眞理なり――我を観ぜよ

                  我は生命なり――我に依りて生きよ

 

 

 

 


  

 

 


 
      キ リ ス ト の 玄 義

    神はその神性をイエズスの聖なる人性に通わせたもう

 神は生命の大洋である。そしてこの「光」であり「愛」である生命は、自らをあまねく注ぎ、與んとする。永遠にわつたて御父は自らを御子に與え、御父と御子とは共に、聖靈に唯一の神性を通わせつゝ、御自らを與たもう。
 また永遠にわたつて、神は、大いなる慈悲により、その永福の聖なる生命を被造物に傅え、彼に御言を曰い聖靈を賜い、「光」と「愛」のうちに御本性に與らしめんと定め給うた。
 しかし全被造物に漲り出に先立つて、限りなき生命は、まず「一切の被造物に先立ちて生まれ給いし者」(コロサイ1・15)、イエズス・キリストにまつたく注がれ、そしてその聖なる「御人性」は、「御言」なるペルソナとの合一によつて、被造物として可能なかぎり、限りなき福楽に與らせられることとなつた。神聖なる生命は残りなく彼に流れ入る。「神は充満せる徳を全く彼に宿らしめ」(コロサイ1・19)「我等は、恩寵と真理とに満ち給う彼を見奉る」(ヨハネ1・14)。万物の上に置かれ、拝すべき聖三位のうちに容れられて、イエズスは、彼の心と魂に溢れ、彼の諸能力と智と愛をもって蔽いつくす、神の生命に限りなく與リ給う所となった。つまりイエズス・キリスト自身も生命の大洋となり給うたのである。                                          
    イエズスは我等に神的生命を與え給う

 万物の上に在り給うと言っても、それが為イエズスは獨りかけ離れていたもうわけではない。神は大いなる愛により、彼を「多くの兄弟の中に長子」(ロマ8・29)として、我等がその肢体として形ずくる大いなる神秘体の頭として定められた。「彼はその体なる教会の頭にて在す」(コロサイ1・18)。
 そこでイエズスは「其の兄弟たち」を、自ら受けたもう所に與らしめんと望み給う。至聖三位より彼の聖なる御人生に流れ入る生命は、あらたに溢れ擴がる。それは頭から手足に下 
る。それはイエズスのすべての御能力を浸し、その頭から信者の形づくる肢体へとあまねく流れ下る。そして我等もまた、三つの尊きペルソナの密なる御生命とその光と愛に與る事になるのである。
 これが超自然の生命の注與と言うべき感ずべき玄義であて、他のどんな玄義よりも恩寵の誉れの栄光を顕わし、(エフェゾ1・6)聖パウロをしてあの感激的な感謝の祈祷をなさしめたところのものである。(エフェゾ、コロサイ、フイリッピ参照)。これこそパウロが「キリストの奥義」と呼んで「世々代々に隠れ来たりて今や其の聖徒達に顕われたる奥義…この奥義とは光栄の希望にして、汝らに在すキリスト是なり」(コロサイ1・26-27、2・2)と繰り返し説いた玄義である。
 これは、イエズスと教会とに依って形づくられ、完うされた「大キリスト」である。イエズスは信者達と共に一つの体を形づくり、一つの生命に生きるまでに彼等と融合し給い、その生命は頭より身体へとあまねくめぐりわたる。なぜならイエズスはその神的な生命を我等に注ぎ、我等のものと成し給うたからである。「我は葡萄樹にして汝等は枝なり」(ヨハネ15・5)葡萄の幹と枝とは同一の存在であり、共に身を養い、共に働き、同じ樹液を取ることによって同じ實を結ぶ。そのようにイエズスと信者達は一つに合体している。すなわちイエズスは其の御人性の福楽として無量に享け居たもうこの照らす「光」、燃えたゝす「愛」なる神的生命を、肢体にまでめぐらせ、我等に注ぎ給うことによって、ついにイエズスと我等に、其の御靈魂と我等の魂に、その聖心と我等の心に、同じ生命、同じ恩寵、そして唯一の聖靈に於いて御父への同じ愛の一致が存することゝなるのである。

     イエズスに留まること  

 そこで実際上キリスト信者としての全生活、全聖徳は、つまりイエズス・キリストに密接に一致していることに盡きる、ということがわかるである。
「我にとどまれ、我も亦汝等に止まるべし、枝が葡萄樹止まるに非ずば自ら実を結ぶこと能わざる如く、汝等も我に止まるに非ずば能わじ、…我に止まり我が之に止まる人、是多くの実を結ぶ者なり、蓋し我を離れては汝等何事をも成す能わず。」(ヨハネ15・4-5)。
 故に、イエズスに止まること、これこそキリスト信者の大いなる義務である。
 イエズスにおいて生きることが總てを要約し、すべてを容易にする。そして信者を神との正しい関係におき、彼の召命を果たすを得しめる。その召命とは次の數語に言い盡されよう。―すなわちイエズスに依って、永遠の愛の實体的存在なる聖の内に、我等が御父なる神との親交にはいること、これである。

     いかにしてイエズスと一致し彼に留まるか  

 最初、我等をキリストに入らしめるものは、洗禮である。「洗禮は我等をキリストに合体せしむ」と聖トマスは言う。それによってキリストのうちに充満てる生命と恩寵と諸徳とが、頭の生命が手足に及ぶ自然の順序に従って、我等に滲透してくる。「かくて我らは皆其の充満せる所より授かる」(ヨハネ1・16)のである。
 堅振は、最初の日にこの再生の秘蹟によって結ばれた超自然的一致を固め、発展させ、完成させる。我等をキリストの「靈に飲ましめ」(コリント12・13)つゝ、我等の靈的成長を完成に導き、超自然的生活において雄々しく行動し、洗禮の時受けた信仰を勇ましく表明し、擁護することを得しめる。「この秘蹟はキリストの敵に対するあらゆる外的闘争の為、我等の靈的生活を増大し完成させる、しかし、神との親密な一致によって、自己において完全な者となる為には、なお増大完成すべきところが残っている。しかしそれは聖体のはたらきに俟つところである」(神学大全)と聖トマスは述べている。
 洗礼において始まり堅振によって固く結ばれた我等のキリストとの結合は、聖体拝領の時に完うされる。
 なお附言すべきは、我等は洗禮と堅振とを一度しか受けられず、それによって豊かに授けられた生命を失うことも、残念ながら有りうるということである。いずれにせよこの生命は、弱まる危険がある。我等の日々の過失により、それがしばしば衰えることも疑いの余地がない。では毎日弱まりゆくあまり、ついに消え果てるであろうか?否、それを回復させる為に、主は祭
壇における秘蹟を定め給うた。これこそ最も感嘆すべき秘蹟であり、他の秘蹟は皆これによって完結され大成されるわけである。
 我等とキリストとの一致を究極の完成に導き、それを維持すること、それがこの秘蹟の二つの目的である。どの秘蹟にも増して、これは生命の秘蹟といえよう。なぜならこれは、我等を永遠の生命に、神の御生命そのものに與らすよう特に定められて、日々我等に與えられる糧、「活けるパン」(ヨハネ6・51)にほかならぬからである。物質のパンが肉体の生命に成すところの總てを、この活けるパンは超自然的生命になすのである。すなわちそれは、回復し、維持し、増大せしめ、活気づけ、喜ばせるのである。
 ゆえにキリストの玄義のすべては、畢竟、「御託身」と「贖罪」によって「聖体」拝領をめざすものである。肉となり給うた御言は、聖三位のいと高きところよりも、聖体において人間にくだり給い、其の拝領によって人間を最終目的なる尊き聖三位まで昇らしめ給うのである。
 「三位一体」より「聖体拝領」へ―これが神的生命注與の御業を成就するため、キリストの歩みたもう道である。神の愛が、救わんとしたもう人間へと降る道である。
 「聖体拝領」より「三位一体」へ―これが無限の幸福に與るため、淨められ力づけられた人間が、伴侶となり給うたキリストと相携えて、心あらたに辿るべき道である、人間の愛が至福直観の盡きぬ悦びへと招きたもう神へと昇る道である。  

 「神にて在す父に感謝し奉らん。其は添くも我等を以て、聖徒等と共に榮光を蒙るに足るべき者と爲し給い、暗黒の権威より救出して最愛なる御子の國に移し給えばなり。…
 御子は即ち見え給わざる神の御像にして、一切の被造物に先立ちて生れ給いし者なり。けだし萬物は彼に於て造られ、天にも地にも見ゆるもの、見えざるもの……皆彼を以て且つ彼の為に造られ、御自らは萬物に先だちて在し、萬物は彼の為に存す。
 彼は又其の体なる教會の頭にて在す。けだし原因に在して其の死者の中より先んじて生れ給いしは、萬物に於て自ら先んずる者と成り給わん為なり。其は充滿せる德を全く彼に宿らしめ、彼を以て萬物を已と和睦せしめ、其の十字架の血を以て地に在るものをも天に 在るものをも和合せしむる事の、御意に適いたればなり。
 汝等も曾て惡業によりて神に遠ざかり、心より其の仇となりしを、神は今御子の肉体において其の死によりて己と和睦せしめ、聖にして汚れなく罪なき者たらしめ、以て御前に供えんとし給えり。汝等もし確乎として信仰に基き、福音に於ける希望より揺がされずば、當に然あるべし。(コロサイ1・12-23)

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

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      一 聖体による一致

                Ⅰ 特に聖体拝領によりイエズスは我らに御身を輿え給う
                Ⅱ  聖体拝領は我等に全きイエズスを輿える
                Ⅲ  聖体拝領は我等に至聖なる三つのペルソナを輿える
                Ⅳ  聖体拝領は我等を聖三位の内的生命に與らしめる

 

 

 

 

 

 
 


 
   Ⅰ 特に聖体拝領によりイエズスは我らに御身を与え給う      

 實際に、日々の生活において、我らがイエズスに一致するのは、特に聖体拝領によってである。神的生命に富む為の最大の方法は、生命のパンを食することである。
 この時、一つの妙なる結合が成される。それは、地上のそれとは、いかに親密なものとも、比較にならぬほどのものである。強いて類比を求めるなら、聖ヨハネ・クリゾストモに倣って、キリストにおける二つの本性の一致融合にまで思いを高めて、イエズスの聖なる御人生が御言に結ばれた如くに、我らも聖体によってイエズスに結ばれる、とでも言うよりほかはない。
 もちろん、イエズスの御生命と我らの生命は各々獨自のものとして留まるのである。彼の御性質と我らの性質、彼の御靈魂と我らの靈魂が混同することもない。しかしながら、そこに愛の比類のない統一が生じるのである。
 この「キリストと人との合一」(フロレンス公会議)についての観念を与える為、聖会の教父たちは種々の巧みな譬えを用いている。
 「溶けた蝋を他の蝋に合わせてみると、何れの蝋も全く一つに相混ざるであろう。そのように、人が主の御体と御血を受け奉る時は、キリストは彼に入り給い、彼はキリストに入るという程の密なる融合が生じる。……我らは同じ体、同じ血を有するに至るのである」とエルサレムの聖シリルスは説いている。聖シプリアヌスは附言して、「キリストと我らとの一致は、愛情をも意慾をも一つに成す」と教える。
 實に、聖体拝領に際して、イエズスの我らの靈魂と心に入り給うことは我らの愛情と我らの思想は主の愛情と思想であるとも言いうる位である。それらを先ず主のものとなし給い、次いで我らの現に有する愛の度に應じて、我らにそれを通わせ給うのである。もし靈魂が僅かの愛しか持たぬ時は、イエズスはその靈魂の僅かの余地に狭めはばまれ給い、その賜は制限されることとなる。しかし、あらゆる被造物よりも自己よりも解脱し、己を余す所なく御手に委ねる拝領者には、そして聖体の御作用に自己を全く打ち開く純な靈魂に対しては、イエズスもまた神のみが良く成したもうほどに、御自らを與えたもう。そこには人間の言葉に表し得ぬ生命の循環、善き賜の伝達、愛の一致が生じる。イエズスに浸透された靈魂は、花と實を豊かにもたらす良き土となる。抱くは明るい思想であり、行うは愛の業である。しかしそれらは
我等のものであろうか?そうである。なぜならそれらは、我等の知恵と我等の心から生まれ出たものであるから。ただしイエズスの御知恵に結ばれた我等の知恵から、聖心に結ばれた我等の心からである故に、それらは我等のものであるごとく主のものであると言わねばならない。我等は相ともに天に在す我等の父に拝禮をつくし、愛と感謝を獻げ、身を 獻げ奉るのである。主の愛と我等の愛、主の思いと我等の思いは混じり合い、恰も、同一の香爐にたかれる二粒の香が一つの薫りとなって空にたち昇るごとく、ひと筋に昇っていくのである。
                                 ☆
 神の御言よ、御父が全く御身を充たし、全く御身に在らんがため、永遠にわたりて御身に入り給う如く、あゝ、我がイエズスよ、御身も我に入り給い、我を全く貫き占め給いて、我と一つに成らせ給う。 (オリエ)

     Ⅱ 聖体拝領は我等に全きイエズスを與える 

 聖体拝領の時こそ、我等は眞の生命を有するといえる。我等は肉となり給える御言を、完全に、その在り給う総て、その為し給うすべてと共に、所有するのである。人にして神にましますイエズスを、その御人性のあらゆる恩寵と御神性のあらゆる寶を、聖パウロの言葉を借りれば、「キリストの究め難き富」(エフェゾ3・8)を、悉く所有するのである。

 イエズスは人として、我等に在し給う。御人性、聖心、御靈魂ともに天の光栄に輝くその現在の御生命が、聖体拝領によつて我等に注がれるのである。天においては、天使達がこの御生命の輝きを受けて永福に浸っている。地に在っては、数人の聖者がイエズスの光栄に輝く、御身体の示現を受けた。「そのお美しさは、人間の言葉を絶するものであった。」と福者フォリニョのアンジェラは語っている。その示現から彼女は「量り知れぬ悦び、至高の光明、えも言えぬ不断の歓喜、あらゆる悦楽を超えた幻惑するばかりの喜悦」を受けていたという。ところで、我等に饗應されるのは、まさにこの光栄体なのである。底知れぬ愛の淵なる聖心と、生命と聖寵と平和と喜悦に満ち、光まばゆく美しき神の聖所、楽園なる御靈魂 とに生きる、この光栄の御身体にほかならないのである。
 イエズスは、神として我等に来たり給う。神の寛仁はこゝに頂点に達する。「かねても世にある己が弟子を愛し給いしが、極みまでこれを愛し給えり」(ヨハネ13・2)。しかも愛の抱き得るかぎりの要求を充たし、可能な極みまで、これを愛し給うたのである。かくて我等はイエズスの神的御生命に、御言として、御父の御独り子としての御生命に、與ることとなる。「我父に由りて活」(ヨハネ6・57)と主がみずから宣うごとく、御父はその内なる御生命を、永遠にわたって御子に與え給う。しかも惜しみなき愛の御心により、全体的に際限なく與え給うゆえに。御父と御子は独自に留まりつつも、愛と喜びと平和に充ち満ちた同じ生命によって、同一の神性を成し給うのである。
 我が受け奉るのは、實にこの御生命なのである。
                              ☆
 おお創られずして在す神よ!おゝ優しくも人と成らせ給える神よ!人は御身の御肉を食し、御身の御血を飲めリ。今や世々に至るまで御身とただ一つにならしめ給え。 (福女フォリニュのアンジェラ)

     Ⅲ 聖体拝領は我等に至聖なる三つのペルソナを與える 

 御言は我等に来たり給う。しかしただ独り来たり給うのではない。「我父に居り父我に在す」(ヨハネ14・10)。イエズスの在すところ、御父もともに在すのである。何と素晴らしい判定ではないか!「我を遣わし給いし者は我と共に在して、我を独りならし給わず…父我に止まり給う」(ヨハネ8・29)更に、御父と御子の在すところには、聖靈も共に在すのである。ゆえに至聖なる三位は、挙って拝領者の心に宿り給うのである。イエズスのすでに宣うごとく、「人もし我を愛せば、わが父は彼を愛し給い、我等彼に至りて其内に住まん」(ヨハネ14・23)。
 我等の靈魂は一つの聖所となり、言うべからざる靈妙に接することとになる。何故なら、聖なる三つのペルソナは、拝領者の中にあっても無為となられるわけではなく、そこに、御父は御子を生み、御父と御子は聖靈を発し給うからである。
 御父は永遠にわたって一つの詞を曰う。それは御自ら等しく、そのうちに御自らを表しつくしたもうところの、本体的な活ける言葉、即ちその「御言」である。御自らの像、光、思い、光栄、御顔のさま、御完徳のすべてを現わす光輝、御存在の活ける鏡、御愛の結実なる「御言」を見給うて、御父は無限の愛をもって之を愛したもう。「御言」もまた、同じく永遠にして限りなき愛を御父に返したもう。この交互のしかも唯一の愛、活ける実在の愛、筆舌を超えた妙なる抱擁は聖靈の内に両者を一つに結ぶのである。
 これこそ、天使らがそれを眺めて光栄と美と永福に浸っている、大いなる玄義である。一目で全創造の深みを探る能力をもつ、このすぐれた叡智の靈たちは、聖なる三位一体の玄義を永遠に眺め得るのであるが、しかしその秘義を決して極め尽くすに至らず、また彼等の欲望の飽かしめられることもないであろう。深く速やかな彼等の眼差しは神の御生命の深淵に常にあらたな諸々の御徳を探り、恍惚としてこれを観じ、心奪われて賛美を歌うのである。
 聖体拝領の我等に齎すものこそ、この玄義にほかならないのである。
 實に、我等は常に「活ける神の神殿」(コリント後6・16)である。何故なら、聖トマスの言う如く、「聖寵によって、聖三位悉くが霊魂の賓客となり給う」からである。
 しかし、聖体拝領の時にあたって、それはより著しい事実となる。ここにおいてイエズスは、御父より受けたもう生命を傳えるため、特に「生命のパン」となって我等に来り給うからである。「このパンを食する者は生命を得ん」との御言の如く。
 しかしどのようにして生命を得るのであろうか?すなわち「活ける父我を遣わしたまいて、我父に由りて活くる如く、我を食する人も亦我に由りて活きん」(ヨハネ6・59)
 いわば拝領者の靈魂は聖三位の住み給う上天となるのである。天における如く、我が靈魂においても、御父は永遠の言葉を発し、御子を生み給うて我に給いつつ、御子に繰り返したもう―「今日、我汝を生めリ…汝はわが愛子なり、我汝によりて心愉しむ」(詩編2・7、ルカ3・22)と。かくて今や我靈魂の中に、御父と御子は互いに愛情を交わし、言語を越えた抱擁にこもり、妙なる接吻を交わし、その愛は燃ゆる息吹、火炎の奔流のごとき聖靈となって発出されるのである。
                               ☆
 ああ永遠の神、全能の父、愛の燃ゆる焔よ、わが神!わが神!御身の人に給いし賜物こそ、御身の御仁慈と御身の御稜威を示すなり、この賜物とは、御身の悉く、御身、限りなき御者、永遠の聖三位ほかならず、また御自らを與んと降り給いし處は、我等が人生の廐、大罪なる獣の棲み居し厩なり…。
 永遠なる三位、我が慕いまつる者、御身、まことの光よ、我等に光を與え給え。御身、大いなる知恵よ、我等に知恵を與え給え。御身、限りなき力よ、我等に力を與え給え。願わくは、我等が御身を全く知り奉り、単純真摯なる心を持って御身の真理に従うを得んため、この暗闇を逐い散らし給え。 
                (シエナの聖カタリナ)

     Ⅳ 聖体拝領は我等を聖三位の内的生命に預からしめる

 こうして私は与えられたこの生命に結ばれ、聖三位の妙なる愛の交わりに與らしめられる。
 イエズスは、御父に対しての、子たる愛情のうちに私を引き入れ給う。私を聖心に入らしめ、彼において、彼とともに、彼によって、彼の御父にして我が父に在します御者を愛し奉るよう、その愛に燃ゆる御靈魂を持って私をつつみ給う。私も彼の如く御父を崇め、讃え、愛し、彼の如く身を献げ、彼とともにかく述べることを教えたもう。―「父よ、御旨をなすべく、われ来たれリ…我が魂を御手に委ねまつる」(詩編39・8、30・8)と、そしてイエズスは私も又三位の愛の玄義のうちに容れられんことを御父に祈り給う。―「父よ、わが祈るは、彼等も我等に居りて一ならん為なり。」(ヨハネ17・21)
 御父も又、御子に対する限りないご満悦のうちに私を引き入れ給う。「父のひき給うに非ずば、何人も我に来るを得ず」(ヨハネ6・44)とイエズスは宣う。さらに「父我を愛し給えり」(ヨハネ15・9)と仰せられる。しかもその愛は、すべての表現を絶し、あらゆる限度を超えたものである。イエズスは、その至上の愛に私を與らしめることを求め、そして得たもうのである。―「聖父よ、我を愛し給いし愛の、彼等にも留まらんことを」(ヨハネ17・26)
  こうして、イエズスによって御父に、御父によってイエズスに導かれ、その御相互の愛に引き入れられ、御父と御子との永遠の愛の活動なる聖靈のうちに、私は住まうにいたる。
 ああ聖父よ、御身は聖靈によって私をイエズスに導き給う。ああイエズスよ、御身は私を聖靈によって我等の父に連れ行き給う。聖靈は御身等の賜である。なぜなら、聖靈は御身等の合一と完結にほかならず、御身等の一致の璽であり、また御身等と私の一致の璽、合一と完結であるから、「聖靈は我等に總てを教えたもう」(ヨハネ14・26)聖靈は私達に全き献身を成さしめ給う。あゝイエズスよ、聖靈は御身と共に私を聖父に引き入れ給う。聖父よ、聖靈は私を御身と共にイエズスのうちに引き入れ給う。私を索き行き、占めたもう。私を御身と一つにならしめたもう。ああイエズス、愛すべき師よ、彼によってこそ御身の至上の祈りは成就せられる。
 「聖なる父よ、我が祈るは總て我を信ずる人々の為にして、彼等が悉く一ならん為なり、父よ、是汝の我に在しわが汝に居るが如く、彼等も我等に居りて一ならん為なり…我に賜りし光栄を我彼等に與たり、是我等の一なるが如く彼等も一ならん為なり、我彼等に居り、汝我に在す、是は彼等が一に全うせられん為…又汝の我を愛し給いし如く、彼等をも愛し給いし事を、世の曉らん為なり。」(ヨハネ17・20-23)36
 主は福女フォリニョのアンジェラに曰うた。―「もし誰か、我をその魂に占めんと望むならば、我は拒まぬであろう。もし誰か、我を見んと欲するならば、歡喜と共にわが面を示すであろう。もし誰かが我に語らんと欲するならば、大いなるび悅びのうちに共に語るであろう。」  
                              ☆
 あゝ聖三位!永遠なる聖三位よ!あゝ大いなる火、愛の淵よ!
 愛の焔よ、御身は我等を御身に像りて創り、御子の御血もて恩寵に蘇らせ給いしに、今だ足らじとなし給うや?さらに聖三位悉くを我等の養い賜うとは!そは御身の愛の御望みなり。あゝ永遠の聖三位よ!御身は御子を贖罪と聖体において賜いしのみならず、被造物を慈しまる々あまり御自らをさえ全く與え給う。まことに、御身は至上の慈愛に在せば、靈魂は御身を所有し奉るなり。   (シエナの聖カタリナ)
 故に聖トマスが聖寵によって生じる一致について書いた「其は永遠の至福な始まりなり」という句は、聖体による一致には、尚更当てはまるといえる。
主イエズスも仰せられた…「このパンを食する者は永遠の生命を有す」(ヨハネ6・55)同じ神を受けることによって、天国の福者と地上の信者とは、同じ生命を有するわけである。ただ彼等選民たちは直接の見神によって神を所有するのであるが、我々は信仰に依って神を所有するのである。しかし聖体拝領は、見神と同様に、―我々の微温と罪をのぞいては何の仲介も障害もなく―直接に完全に神を我等に與えるのである。もし我等の信仰が微温を拭い去り、心を全く打ち開く潑溂たるものであれば、もし我々の愛熱がすべての障害の除き去り、聖体を受ける準備が、永遠の見神に備える煉獄の浄化ほどに、熱烈なものであるならば、その結果はほとんど同様なものとなるであろう。聖体の生命に満たされて、地上を旅する信者らは、天の選民が光栄によって神に合体される如く、聖体拝領によって神に合されるであろう。
 まことに神は、我々各自に永福の一致に入るべき時が遂に来るのを待ちきれぬほどに、優しき焦慮に駆られたもうごとくである。「愛」は終ることなき結合の實現を急ぎ給う。彼は自らパンとなり葡萄酒と成り給う。そして我等に呼びかけたもう。―「我は大いなる魂らの糧なり。信じて食せよ。すなわち我は汝の肉の糧の如く汝に變ぜらるゝことなく、却って汝こそ我に変ぜらるればなり。(聖アウグスティヌス)―来たれ、わが友、食らいて飲めよ、喜びに酔え、わが愛する者よ」  (雅歌5・1)
                              ☆
 あゝ造り主なるイエズス・キリストよ!あゝ被造物なるイエズズ・キリストよ!まことの神にしてまことの人!まことの肉、まことの血!まことの体のまことの肢!あゝ、言うベからざる一致、無限なるものの結合よ!主よ、我御身の御人性より御神性へと昇り、御神性より御人性へとくだる。靈魂は観想のうちに智と富の限りなき寶を蔵する至妙なる神性を仰ぐ。あゝ、朽ちることなき富、神性よ!我はそこに、我があえて口にし、また口にし得ざるよろずの甘美なる糧を汲む。我は、よろずの徳をそなえ、聖靈のすべての賜物にみてるイエズスのいと尊き御魂と、汚れなく聖の聖なる捧げ物とを、ながめ奉る。我等が贖いの値なる主の御体を仰ぎ奉る。我が命と救靈を汲む泉なる、御血を見奉る。、また、我が言い表しえざるものをながめ奉る。
まことにこの蔽いのもとにあるは、主天使の拝禮し、畏るべき権天使ならびに天の諸靈のうち
ふるいつゝ拝する御者にほかならず、あゝ、われらの目も彼等のごとく開かれなば、この玄義に近づくにあたり、尊敬と卑下の思いは、われらのうちにいかなる靈妙をなしうるならん!
     (福者フォリニョのアンジェラ)    

 

 

 

 

 

     二 聖体により一致の永続 
              Ⅰ イエズスの聖なる御人生との一致
              Ⅱ   至聖三位との一致

 


    

 

 

 

 

 

 ところで、この聖体による一致は持続するのであろうか?
 聖体拝領は一つの行為であり、すべての行為は一時的なものである。とすれば、聖なる糧が摂取され終わるやいなや主の現存は止められるのであって、この秘跡による靈妙なる一致は、わずか数分間で終るのであろうか?
 しかし聖会は、聖体拝領に際して次の感嘆すべき祈りを我等になさしめて、その永続を願わしめているのである。―「主イエズス・キリスト、御父の御意に従い、聖霊と力を協せ、世に生命を與えんため死し給いし、活ける神の御獨子、いとも聖き御体と御血によりて、我をもろもろの罪と悪よりとき放ち給え。今より後は主を離る々を容さず、常に御意に従うを得しめ給え。御父と聖靈と偕に在して代々に至るまで活き且つ統べ給う天主よ」
 もはや主を離るゝを容したまわざれ!これはすべての愛する魂の祈りである。愛は持続を望むからである。どれほど大いなるものであっても、過ぎ去る賜物は、不満を残すのである。熱心に聖体を拝領し、聖体の玄義の秘奥に入った魂は、ホスチアに対する飽くことのない渇望が燃え上がるのを感じる。毎朝の聖体拝領が心を奪う喜悦をもたらすにしても、その欲望を満たすにいたらない。彼が渇望するのは永続的な聖体拝領、聖体の玄義への不断の一致だからである。

 御身を食する者はなお飢え
 御身をのむ者は更に乾く
 あゝ至愛なるイエズズよ
 最早御身よりほかに
  望むべきものを知らざるなり。
  (イエズス御名の祝日 賛歌の賛美歌)

 聖体なるイエズスとの絶え間なき現実の一致を求めることは、その拝すべき御人性を常に所有しようと願うことは、行き過ぎではなかろうか?
 否、なぜならこのような異常な望みも、主御自ら、起こさせまた励まし給うのであるから、―「わが肉を食し我が血を飲む人は我に止まり我も亦之に止まる。」(ヨハネ6-57)

 あゝ神よ、あゝわが神よ、
 わが黎明より御身を尋ねもとむ
 水なくかわき荒める地にありて
 わが魂は御身に渇き
 わが肉身は御身に焦がれおとろうるなり
 かくて我御身の聖所にいたりて
 御大能と御光栄を眺めん
 わが魂は御身に属きはなれんとせず  (詩編62)

 あゝ愛の神、わが救い主よ、御身は永遠の甘美にて在す。御身は我が心の渇望、わが精神の飽満に在す。されど御身を味わうにつれ、わが飢えはまさり、御身の泉に飲むほどに、わが渇きはいやまさる。
 主よ、来たり給え、主イエズス、来たり給え。  (聖ヂェルトルーヂス)

     1 イエズスの聖なる御人性との一致 

 聖体による一致の永続は、可能であり、また実際のことである。その形色が消失した後にも、拝領者はイエズスの聖なる御人性に密接に結ばれて居るのである。
 しかし、この一致をよく理解することが肝要である。
 聖なる御人性は天に在し、また聖櫃のうちに在す。光栄体としては天にのみ在すが、御聖体としては聖櫃のうちにのみ在すのである。之は神学の教えるところである。拝領者において聖なる形色が摂取され終るや、イエズスの御人性は聖体の状態による存在を止め給う。これは疑いのないことで、我等の心のなかに常の在す聖なる御人性と同一視するのは誤りであろう。
 しかしながら、われらは主の御人性と永続的に一致している。ということは許されるわけで
ある。なぜなら、御人性は、実体的に留まり給わぬにしても、その愛の光輝により、御能力の接触により、聖櫃の中から絶えず我等におくり給う光明と聖寵とによつて、我等に留まり給うからである。
 永遠の御父はシエナの聖カタリナにの給うた。―「この天使の糧、生命のパンを相応しく受くる魂は、いかにすぐれた賜物を享くるかを思いみよ。この秘跡を受くるに依り、彼は我に留まり、我は彼に留まる。魚の海に在り海の魚に在る如く、我も霊魂に在り、霊魂は平和の大洋なる我に在るなり。この聖体との一致により、聖寵残りて留まる。すなわち聖寵のもとに生命のパンを受けたるのち、靈魂はパンの偶性の消滅するや、それより聖寵を己に採り収ればなり。
 恰も熱き蝋に押したる印璽の型残れる如く、我汝に聖寵の跡形を残さん。この秘跡の力は靈に係わる作用をなし、わが聖愛の熱と聖靈の寛仁と我が独り子なる「智慧」の光とを、その後に残さん」       (シエナの聖カタリナ)

     (1)その御功徳と愛による、聖なる御人性と我等の一致

 聖なる御人性はその功徳の不断の作用とその愛の絶え間なき放射によつて、常に私に現存し給う。「キリストは人の為に執成しをなさんとて常に活き給う」(へブレオ7・25)と聖パウロは言う。天に在ってまた聖体の秘蹟のうちにおいて、主は絶えず聖父に御自らの御功徳を示し、我等の救いを促し求めたもう。我等の為に採つて功徳をを立て給うた御人性と、御犠牲の印なる御傷を示し給う。その聖き御靈魂に燃えたつ我等を救わんとの御望みを、祈願という以上に切なる御願望を、述べたもう。それは御自身の無限の権利の主張であり、また直ちに聞かれ給うのである。
 主は御自ら贖い給うた總ての者の為に、またその各人の為に取りなしたもう。なぜなら、主は各人に御眼を注ぎ、各人に特別な愛を傾け給うからである。「我はよき牧者なり、よき牧者は己が羊を一々名指して引出し、牧場に連れて行く、我はわが羊を知る」(ヨハネ10・3・14)と宣うごとく。「それは単に知り給うというのではなく、御智慧のほかに聖心もはたらき、嘉し
愛して知り給うのである」と聖トマスは説いている。
 聖櫃の奥から、イエズスは絶えず私を眺めたもう。心の底まで見通したもう御眼差しをもつて、いかに注意深き、しかも愛に満ちた御眼差しであろう!「主よ、御顔の光は印の如く、わが上にひた附けリ」(詩編4・7)ただ一つの想いも、ただ一つの行いも、イエズスの御眼を逃れうるものではない。私のどんな望みでも、イエズスは私よりもよくそれを知り給う。主は私のあらゆる状態、あらゆる必要、あらゆる危険、あらゆる願望を理解したもう。それは只証人となり給うためでなく、むしろ、その光栄の御人性の仲介によって、これらに必要な恩寵を与え給うためである。49
 凡ての時を通じて主は私を愛したもう。それもどのような愛であろう!勿論御言の創られざる愛は至る所に我々を離れず従い、我等はその愛の圏から決して脱出し得ないということは、言いようのない慰めである。しかし又イエズスは「人」としても私を愛したもう。聖櫃の中から溢るる愛情を私に注ぎかけたもう。愛をもって私を包み籠めたもう。それは衰えを知らぬ愛であり、一瞬たりとも「イエズスは今私を顧みたわぬ」などということはできないのである。夜でさえ、主は私の眠りを見まもり給う。「わが行くところの途は主の御眼差しのもとに在り」(士師記18・6)それは落胆を知らぬ愛である。私が主を忘れ傷つけ奉ろうとも、主は相変わらず聖寵を頒け與え給うのである。それは優しき扶助の愛、友の、兄弟の、配偶者の愛である。夜も晝も、私はイエズスの御眼差しと愛の御はたらきのもとにある。
 イエズスの聖心より出ずる絶え間なき愛の光茫に結ばれたこの一致は、すでにイエズスと靈魂の間のまことに貴い結合ではないか。
                             ☆
    ヤウェはわが牧者にて、われに乏しきことあらず
  あるは緑の牧にいこわせ
  あるは爽なる水際に曳きゆき
  わが魂をよみがえらしめたもう…..
  たといわれ死の陰の谷を歩むとも
  何の禍いをか懼れん
  わが傍におんみいます上は!
  おんみが牧杖と鞭はわれにたのもしかり
  おんみわが仇に向いてわが前に饗膳をそなえ
  わが酒盞をみたしたもう。   (詩篇第廿二)

     (2)その生命作用による聖なる御人性と我等の一致

 我等に一層深い効果を及ぼす御人性の現存は、その御生命の作用による神秘的な現存である。
 「我は生命なり」(ヨハネ14・6)とイエズスは宣う。かつて人として世人の目の前に生活したもうた時、その聖なる御人性はしばしば不思議な権能を発揮せられた。わずかな接触のみでもつとも大いなる御業がなされた。「靈能彼の身より出で、凡ての人を醫せり」(ルカ6・19)今日もその効能は中断なく故障なく、衰えることを知らぬのである。それはあらゆるものに及ぼし、あらゆる時に働く。その作用を免れること、神学的にいえば「その能力の接触」をま免れることは、何人にとっても幸いなことに不可能である。
 それは超自然の世界の中心である。神の創り給うたあらゆる靈的存在を照らす大洋であり。その圏外ではいかなる生命も光も安寧も、神との交わりも有り得ぬところの、超自然的大気である。全被造物の上に置かれ、神性と直接に接触し、無量の神的生命に溢れる聖なる御人性は、それ自身生命の泉、諸々の恩寵の源となり給う。そして被造物の上に御自身を傾け給うと、イエズスの御霊魂と聖心から生命の流れが迸り出で、火と愛の奔流は眩い瀧のごとくに、凡ての選ばれた者の上に次々と流れ落ちる。地の涯まで及んで、すべての神の子に光明と喜悦をもたらすのである。こうして、光を射出する太陽の如く、活ける水を溢らす泉の如く、イエズスの聖心は、時を問わず、弱まることを知らず、尽きぬ恩寵の流れとなって先ず天国至福をもってみたし、次いで秘蹟の七つの流れと幾千の細流となって、愛の大海から地上にくだり、神の選民の上に成聖の雨と降り注いで、キリスト教的生活を世に輝かす数々の美徳の花を咲かしめるのである。  
 聖なる御人性は、先にカルワリオにおいて我等の為にかち得たもうた生命を、今我等に 領ち給うののである。「我等の面々に賜りたる恩寵は、キリストの賜いたる量に応ずる」(エフェゾ4・7)まことに諸々の秘蹟とは、人々の成聖のために自ら労したもうた聖なる御人性ほかならないのである。
 また秘蹟以外にも、御人性は常に休むことなく、内なる照明や有数な刺激を與て直接に靈魂に働きかけ給う。私が聖寵の状態にあるのも、ひとえに主の御人性に由るのであり、そのおかげである。その聖心からでなくては、いかなる超自然的援助も私に至り得ないし、その御靈魂からでなくては一条の神的光明も私に放たれないであろう。御人性に由らなければ私は何事も為しえず、一つのよい考えを抱くことも「主イエズスと呼ばわること」さえも、できぬであろう。御人性こそ、私の超自然的活動の・私の進歩の・天主における私の完成の、本源である。私の生命はその開始から全き発展まで、すべてこの泉から湧き上がるのである。一瞬間でも、イエズスの聖なる御人性が雲隠れ給うか、或いは私自身がその光茫を避けるならば、たちまちに私は死の虚無に再び落ちることであろう。「頭が四肢を支配し、葡萄の木が樹液をもって小枝を養う如く、イエズス・キリストもすべての時を通じ、すべての義人等の上に、その作用を及ぼし給う。彼等の善業を促し扶け成就せしめ、以て神の御眼に適うものと成し、功徳あるものと成すのは、この作用である」とトリエント公会議は教える。聖パウロはこ之を約言して「キリストは汝等の生命なり」という。「なんとなれば彼は汝等の生命の原動力であるから」と聖トマは附言する。
                              ☆
 あゝ全能の天主、永遠の三位よ、我等は死の樹にして御身は生命の樹なり。無限に在す天主よ、光の内に見る御身の創造の樹はいかなる眺めぞ!いと純き御者よ、御身はこの樹に、記憶・智慧・意志なる魂の三能力の小枝を與え給いぬ。この小枝はいかなる実を結ぶべかりしや。記憶は御身を覚え、智慧は御身を悟り、意思は御身を愛すべかりしなり。あゝ靈の木よ、聖なる庭師はいかに幸いなる状態に汝を植え給いしことぞ!
 あゝさりながら、この樹倒れたり、生命の樹は死の樹となれリ、今や毒ある果実を結ぶのみ。
 されど永遠の三位よ、御身は御身の被造物を狂愚うと見ゆるまで愛し給う。此の樹「生
命」なる御身を離れしに依り、死の果のほか結び得ざるに至りしを見給いし時、先に此の樹を作るべく駆られ給いし同じ愛により、再びこれを救い給えり。すなわち我等の人間性なる滅びし木に御身の神性を接ぎ木し給いしなり。此の恵みの接ぎ木により、御身は我等の苦汁に御身の甘美を混ぜ、闇に光を、狂愚に叡智を、死に生命を、有限に無限を交え給えり。
 御身の被造物はかくも御身を蔑し奉りしに、そもな何に迫られて御身は我等に生を返し與うるこの一致をゆるし給いしや?そは愛なり、ひたすら愛によるなり。しかしてこの感ずべき接ぎ木は、死にうち勝ちぬ。
 しかも御身の燃え立つ愛は、是をもちてもなお足らずとし給う。あゝ永遠の御言よ、御身は自らの血潮もてこの木を潤さんことを望み給いぬ。しかして人の同意して御身に結び御身に生くるに至るや、御血はその熱によりて樹を豊かに実のらしめ給う。人の心と愛情は、愛徳と従順の縄によりて天の接枝に結ばるべく、その結ばるるや、小枝は果を持つに至る。
 あゝ、無限なる愛よ、御身は自らの被造物にいかに大いなる不思議を行い給うことぞ!いかなれば人は己が生命の木を潤すべき御血の泉に来たらざるや?永遠の生命は我等のために流るゝものを、我等のあわれなる被造物はそを知らず、その恩恵を用いざるなり。
 主よ、我は罪人なり。我をあわれみ給え。
 愛なるイエズスよ!愛なるイエズスよ!
           (シエナの聖カタリナ)

     (3)聖体の中なる聖なる御人性とに一致 
 私の生命の源であるこの御人性は、何処に在すのであろうか?天に在すことは間違いを容れぬ。しかし聖体の中に、より私に近く、より近づきやすく在し給うのである。御人性はそこに活き、且つ、働き給う。まさに、私と接触を保つために、御自らの生命を持って私を養うために、私をしてイエズスの聖心と御靈魂の生命に与らしめる為に、御人性はそこに在し給うのである。「我は生命のパンなり……天より降りたる活けるパンなり。人もしこのわがパンを食せば永遠に活くべし」
 この生命が私に注がれるのは、先ず聖体拝領の時に当たってである。しかしそれが私の
靈魂のうちに止まるのは、聖体の形色の消えた後も、御人性は引き続き私をその御生命と御聖寵に與らしめられるからである。私は葡萄の枝が幹に在る如く、四肢が頭に連なる如く、御人性に一致しているのである。枝と幹との結合、頭と四肢との結合が絶え間なく有効な現実のものであるように、聖体拝領者とイエズスの御人性との一致も永続的な有効な現実のものである。イエズスの御靈魂と拝領者の靈魂との間には生命の不断の交流が見られる。生命を偕にする以上、外面的な距離がなんだろう!御聖体と私の魂の中に在るのは、まさしく本質的に同一の生命、同一の聖寵なのである。 
                              ☆
 主よ、主の全能の生命は、我等を滅ぼさんためには非ずして、我等を活かさんためのものなり、御身は常に唯一、常に同一に在し給う。されど御身より一つの靈能及び一つの徳出て止むことなく、我等に触れて我等の力、我等の富となるなり……
 生き給う神は、活かせ給う神なり、御身は源泉にして中心、また一切の善の座に在す。
 あゝわが神よ、我をも御身の如くならしめ給え。我に数多くの障害あると雖も、御身はかくなさしめ得給い、我もかくならしめられるゝを得ればなり。
 主よ、我は主御自身を求め奉る。あゝ我が神よ、御自らを悉く我等に與え給いし御身のほか、我は何も求めず、眞に御自らをもて實体的にわが心に入り給え。御身を以てわが心を満たし、そを熱し給え。御身のみひとり人の心を満たし得給い、またかく為すことを御身は約し給えり。
 御身は活ける焔にして、常に人々への愛に燃え給う。されば我に入り給え。しかして我も御身の如くならんため、御身の火もて我を燃え立たせ給え。      (ニューマン)

     (4) この一致の深く密なること
 この一致の深く密なることは、到底地上の人間的なものとは、比較できぬほどである。何故なら聖なる御人性は私の靈魂に直接働きかけ給うからである。世界を宰るべき大いなる能力を與られた天使らでさえ、直接に私の知性に働きかけて、おのずと思考したり信じたりす
るように動かすことはできぬし、私の意志のうちに働いて何らかの意慾を起こさせることもでない。一つの靈魂の深部を捕えて自由にこれを操るがごときは、神にして初めて可能なことである。
 然るにこの聖なる御人性はこの神的能力を受け居給う。それ故、彼は、その御祈りの御保護と無限の御慈愛の光をもつて、私の惨めさを蔽い給うばかりでなく、私の精神と意志の深みにまで立ち入つて、その神的能力の作用を蒙らせ給うのである。
 夫婦の一致、靈魂と体の結合といえども、私の靈魂と聖なる御人性との一致結合ほどに密接ではない。何故なら、その御犠牲によつて求め得られた聖寵は私に通わせられ、私の靈魂の本質まで入り込むからである。香りがそれを入れる器の実体に浸み入る如く、光線が水晶に射し入って清澄さと光輝を與える如く、火が鉄を貫いてそれを熱し輝かし、火に変化する如く、聖体から来る聖寵は私の靈魂に流れ入り、これを占領して操り、浸透し、聖トマスの言葉を借りれば、「神に変化し、神をもつてこれを酔わしめる」(ヨハネ福音書注解)のである。
 この聖寵こそ私の生命を成すものである。私の肉体的生命よりも、私の精神の自然的生命よりも、更に真実に、私の生命を成すものである。それは私の自我の自我、コンタンソン師のいわゆる「わが魂の我」である。それ故、私の生命とは、その深奥に於いては、その内なる中心、最も深い密かな内部においては、一瞬毎に御聖体から私に来るところの聖寵にほかならないのである。主は、福者フォリニョのアンジェラに仰せられた、「我汝の魂そのものよりもなお深く汝の魂にあるものなり」と。
「蓋し我に取りて活るはキリストなり」(フイリッピ1・22)と聖パウロは叫んでいる。同じ眞實と同じ深い喜悦をもつて私もまた「我に取りて、生るは聖体なり」と言うことができる。しかもそれは先ず主御自ら「我を食する人は、我に依りて活きん」(ヨハネ6・57)と曰うたことを繰り返すにすぎない。
                              ☆
 あゝ主イエズス、あゝ大いなる海よ、何故に夙く(賤民のこと)御身の充ち満つ御生命にこのはかなき水の滴を容らしめ給わざるや?わがすべての望みは、甘く切なる望みは、今や我を出でて、御身に入ることのみ!
 あゝ慕いまつる御身の聖心を、救いの隠れ家として我に開き給え。わが心、最早わがものならず。あゝわが尊き寶よ、御身こそ、そをとり給いて御身の内に有し給うなり。そはひとり御身によりて生き、御身はそがかよわきを斥けず、御身の聖なる本質に変え給えり。今やわが魂は御身に融け入り、燃える愛熱もてひたすら御身がために生く。
 この融合、いかに妙なることぞ!御身とのかかわる睦みの、いかばかり世の諸々の生を超えたることぞ!御身の薫りのいかに心酔わしめることぞ!御身よりいずる奇しき平和と大いなる慈悲の息吹の、いかに芳わしきこことぞ!御身こそ、あらゆる慰めに満ちあふれる寶の蔵にてまします。
 あゝこの世よりして、わが望むのを得しめ給え。わが憧れ望むものを獲しめ、ついにわが魂御身にひた向かい、ご自愛の優しき口づけにより、生命享くるを得しめ給え。あゝわが最も愛しまつる御者よ、わが存在のいと深きところに御身を捕えまつることを得させ給え。しかして、御身に結びて、もはや解き得ぬまで一つならんために、わが賎しき口づけをも受けさせたまえ。                       (聖ヂェルトルーヂス)

     Ⅱ 至聖三位との一致

 先ず注意を促したいことは、聖三位が我等のうちに住み始め給うのは、普通聖体拝領の時からではなく、むしろ霊魂が聖寵の状態に置かれると同時にこの聖三位の超自然的現存は生じるという事である。聖三位に関する限り、聖体に依る一致について言えることは、単に、それは霊魂の超自然的変化という霊妙の御業が最も効果的になされるための手段であるということ、それが聖なる三つのペルソナの現存を強め、また我等が聖祭に与るたびに神的生命の新たなる傳達がなされる、ということである。

     (1) 聖体拝領者に於ける聖三位の永続
 聖三位の現存は、聖なる御人性の肉体的存在の如く、聖体の形色の全さに依存するものではない。聖三位は聖体拝領以前から、我等の霊魂に在したのである。故に聖三位は、御聖体が我等のうちから消え去ってのち、聖体拝領で増強された作用と効果を以て、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


より密接に我等に住み給うのである。聖体拝領後は霊魂が神を受け奉る能力は更に増すわけである。「人もし我を愛せば、我等(我と父と我等の同一の聖霊と)彼に至り其内に住まん」(ヨハネ14・23)と主は仰せられた。
 かくも根強く深く確固たる結合であるから、その性質からして、この一致は永続的である。それは「取り消されるゝ事なき賜物」(ヨハネ11・29)である。聖三位はただ我々を訪れ給うのではない。我等に定住し給うのである。我等の霊魂は一つの天国となり、我等の内的生活は、謂わば「永福の序幕、開始となる」聖主も「神の国は汝等のうちにある」(ルカ17・21)と曰うた。この故に聖パウロはあえて次の句を書いたのである。「神殿は聖にして汝等は則ちそれなり、……汝等は活ける神の神殿なり」(コリント前3・17、コリント後6・16)
 この神殿のうちに聖三位は無為にとどまり給うのではなく、常に働き給う。各ペルソナに独自の性格に従って働きかけ給うのである。三位一体との玄義は、霊魂に於ける聖なる三つのペルソナの御働きと御慈愛のうちに現わされる。霊魂はその各々のペルソナから別々に御慈悲を蒙り、しかも唯一の愛をもつて愛されるのである。唯一の愛というのは、聖なる三位が外部に働きかけ給う時は、必然的に一つの御者として働き給うからである。しかもそれは三つの愛の湧出として現われ、各々がその源泉の独自の性格を反映させているのである。
 聖父は、生命と平安の源泉として来たり給う。すなわち被造物を創り出して後、これを秩序のうちに置き給う創造主にましまし、また慈しみとえも言えぬ愛情をもつてわが子を見まもり給う聖父にてまします。
 御言は光明の源泉として来たり給う。すなわち聖父の御思想、その活ける御言葉、その御像として、私の智慧に一致したまい、神性の超自然的認識のうちへ私較べ奉れば、御身は三つの枝をもつ葡萄樹にも似給えり、御身は人間を御身の御像にかたどりて創り給いぬ。そが霊魂の三能力によりて、彼は三つにして一に在す御身に似奉るなり。しかも類似はこれにとどまらず。すなわち記憶によりては、大能の主なる御父に似奉りて一致し、智慧によりては、上智の源なる御子に似奉りて一致し、意志によりては、寛仁のもとにして聖父と聖子の愛に在す聖霊に似奉りて一致するなり……あゝ永遠の神よ、御身は静けき大洋して、もの諸の霊魂はそこに生と養いを受け、愛の融合のうちに安らぎをうるなり。          (シエナの聖カタリナ)

     (2) 我等の靈魂に於ける神の相互的内在 
 聖体拝領者の靈魂には、聖なる三位の相互内在性に似たひとつの感嘆すべき事が行われる。
(相互内在性とは、聖三位の三つのペルソナが交互に他の中に住み、謂わば一から他へ循環するをいう。それと「類似」の現象が、聖体拝領によって、神と靈魂の間に生じるわけである。)
 神の御生命は不動性ではなく、そこには永遠の動きが、愛の永遠の循環が存する。何故なら、愛の法則は他に働きかけ、自らを與えるからである。もし御父がひとり御自らのうちにとどまり給うならば、神にはましまさぬであろう。彼は御自らより流れ出て、絶え間なく生み給う。聖子のうちに溢れ入り給う。聖子も、もし聖父の中に常に流れ入り給わぬなら、神には在さぬであろう。両者の間には大いなる躍動、抗しがたき牽引、愛の重力があって、それが互いに一を他のうちに投じ、二者の生命を一つに完結するのである。神の生命の永遠の運動の極点、永遠に實存する極点が聖靈である。
 さて、無限の愛の吹發より生ずるこの「愛」、聖父と聖子を妙なる恍惚と永遠の喜びのうちに結ぶ「愛」なる聖霊が、同様の働きを霊魂につたえ、以て聖父と聖子に近づけ、その親密なるご関係に與るを得しめ給うのである。
 天国においては、交わりは完全である。いかなる覆いも妨げもなしに、永福の靈魂たちは聖なる三つのペルソナを観奉るのである。御父とともに、彼等は御言の心奪う光輝を感嘆 34
し愛し抱き奉る。聖父は彼等を聖子うちに導き、御子は御父のうちに引きゆき給うのである。そして「愛」の永遠の活動は彼等を捕え、彼等を酔わしめ、聖父と聖子の恍惚のうちに運び入れ、聖靈の純一のうちに一致を完成するのである。
 地上に於いては、我等はこの言うベからざる福楽の開始を有するにすぎない。とはいつても、眞實に、その福楽に與って居るのである。この世に於ける聖寵の生命と、天国に於ける光栄の生命とは、實質的にまつたく同じものだからである。いわば、聖寵の開始するところを、光栄が完成するわけである。故に、今から既に、我等のうちにはこの聖三位の相互内在性の感ずべき玄義のあるものが既に存するのである。
 このことについてイエズスは我等の理解を促し給うた。「我に由らずしては父に至る者はあらず……(ヨハネ14・6)父の引き給う非ずば、何人をも我に来るを得ず」(ヨハネ6・44)すなわち、汝等、我を父に結ぶ愛の活動に入らずして、父に至ることを得ず、父を我に引き、我等を聖靈によりて一に完成するこの愛に活動に、聖父の汝等を引き入れ給うことなくんば、汝等我にくることをえず、との意にほかならぬであろう。
 故に、聖なる三位を愛し奉る靈魂は、この神御自身のご幸福であり、天使と福者たちが完全に与る幸福であるところの直観と愛の循環運動のうちに、聖霊によって引き入れられる者である。
 かくて、聖アウグステヌスの言の如く「聖人は神を有す。彼等の靈魂は一つの天国である。神がそこに住み給うからである」(詩編22の注解)と言うことができる。また聖ヨハネと共に「我等は與をなして父とその御子イエズス・キリストと共に在らん」(ヨハネ第一書1・3)と言い得るのである。聖三位と我等の間柄は、一つの組合、一つの親交、共通の生命となるのである。
                              ☆
 聖なる聖父よ、我御身のいと優しき父の御慈しみのうちに受け容れ給え。御身への愛の故に走りそめしこの競走場を、走り終えたらんとき、永遠の報賞として、御身を受け奉らんために!
  いと愛すべきイエズスよ、我をいと優しき兄弟の愛のうちに受け容れ給え。日々の重荷 35
と暑気を我と共にに担い給え。すべての労苦に於いて慰めとなり、わが旅路の伴侶とも導き手ともなり給え。
 愛なる神よ、聖靈よ、御身の憐み深き聖愛のうちに我を受け容れ給え。わが生涯にわたりての師、わが魂の優しき友たり給え。
       (聖ヂェルトルーヂス)
 
     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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     三 一致の保持と完成  

               Ⅰ 一致の保持
       Ⅱ 一致の完成

 

 

 

 

 

 

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 我らの霊魂が、わが主の聖なる御人性と拝すべき聖三位との一致に永続的に留まるためには、成聖の聖寵の状態にあることを以て足りる。ただ大罪だけが、この永続的一致を破るのである。意識するとせぬとに拘わらず、我等はキリストに合体され、彼によって生きているのである。
 しかしながら、我等がこの一致から収める効果は、意識的に留まるか、或いは無意識的に在るか、に応じて異なるのである。つまり我等の霊魂が内に在す神の現存に対して、心をとめているか或いは無頓着であるかに従って異なるのである。我等は、母の腕に眠る幼児の如く、神に結ばれていることもできれば、かの聖晩餐の夕、愛をもって主の聖心に倚り、その秘め給うところを聞いた御寵愛の使徒の如く一致することをできるわけである。
 もちろん、前者の無意識的一致にしても既に貴重なものである。しかし後者は、更にどれほど完全なものであろう。そしてこの一致のみが聖徳へ導くべきものである。我等が聖体拝領によって得た一致を、自由意志を持って我等の側からも絶えず望み、新たにする時に、―神学の用語を借りれば、ますます現行的にする時に―始めて聖体拝領という無限の泉の効果を豊かに蒙ることができるのである。故に我等は単に愛を有するだけで満足してはならない。常に目覚めた活動的な愛を求め、絶えずイエズスによって拝すべき聖三位と偕に生きんとの大望を持たねばならない。もし我等の日常が様々な雑事に煩わされず、聖櫃のもとに過ごされるのであつたなら、これは比較的容易なことであろう。しかし我等大多数にとつては、これは縁遠い話である。聖体拝領ののちには、我等は兄弟たちとの缺き得ぬ交わりに向かって、また境遇上の義務やしばしば煩わしい業務に向かつて、帰らねばならぬ。我等各自の労務は、摂理によつて定められた。キリストが我等に来たり給うのは、我等をそれより逸らせるためではなく、その遂行を助けるためである。故に主は我等がそれに率直にそれに取りかかることを望み給うのである。
 しかしここに大きな困難が現われる。
 では我等は、聖体拝領によつて我等の霊魂にもうけられた拝すべき玄義の観想を中止すべきであろうか。隣人に奉仕するため、神の御許を立ち去るべきであろうか?或いはなほも神の御許に止まるべきであるなら、いかにして外部的活動と内的観想とを両立せしめる 38
か?一言で言えば、いかにして内的生活を減ずることなく、必要な外的生活を送り得るであろうか?
 此処に、我等の努力を向わしむべき目標を定めて、説明を試みてみよう。
 A 我等の日常の様々の状態及び業務のうちに在って、神との一致を保持すること。
 B 次ぎにこの一致を完成すること。
                              ☆                          
 主よ、汝の掟の道を我に教え給え。我命の果てに至るまでこれを守らん。
 我に智慧を與え給え、さらば我は汝の律法を守り、心をつくしてこれに従わん。
 わが心を御教えにかたむけし給え。我を汝の道に活かし給え。
 我汝のみ定めを行わんことを切に願う。願わくは、汝の正義もて、我を活かし給え。                           (詩編118)

 「神を識り奉ること!あゝ主よ、こは喜びのうちの喜びなり!この認識に至りて後に、魂を一変せしむる愛は来るなり、真理のうちに識る者、そは、熱火のうちに愛する者とならん。」                 (福者フォリニョのアンジェラ)

     1 一致の保持
      (1) 我等の模範
 ここに於いても、他の諸點に於けると同様、イエズスは我等の完全な模範である。主御自身、常に聖父に留まり給うた。「我父に居り、父我に在す」(ヨハネ4・10)
 その聖なる御魂の御言との一致、従つて聖父と聖靈との一致は常に完全であつた。ベトレヘムの藁に臥したもう時も、ナザレトの仕事臺に身を屈め給う時も、ユダヤの徑々を巡り給う時も、或いは十字架の上に懸り給う時も、常に「我は父に居る」と宣うことを得たであろう。
 イエズスはその御思いによつてそこに留まり給うたのであつて、いかなる御業も、いかなる御苦悩も、神より之を一瞬たりともそらしめ得なかつた。主の聖なる御魂は、至福直観の光輝を絶えず観想し居給うた。
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その地上に於いて見給うところは悉く、神的光明のうちに眺められ、すべてを聖父への永遠の御思考に依ってのみ評價し判断し給うたのである。「我は聞くが儘に審判す……我が語は、父の我に給いし儘に之を語なり」(ヨハネ5・30、12・50)。
 イエズスは御意志によって、常に聖父の御意志に全く結ばれてい給うた故に、聖父の求め愛し望み給うこと以外には、何もの望み求め愛し給うことはなかった。
「我を遣わし給いし者は我と共に在して、我を孤ならせ給わず、そは我が常に御意に適えることをなせばなり」(ヨハネ8・29)
 イエズスは愛によって聖父に留まり居給うた。その聖心は、聖父に対する最も純な、最も無私の、最も強烈な廣大な愛に燃えていた。そのあらゆる御思考も、あらゆる御行為も、、御存在悉くが嘆ずべき愛の不断の表現となる。「我父を愛す」(ヨハネ14・31)と宣うごとく、
 ユダヤ人らの目前に、職人の如く働き、彼等の一人の如く道を行き、或いは疲れなやみ、或いは飢え渇き、苦しみを忍び給うた御者は、また常に聖父のうちに、不動の平穏と、いうべからざる幸いに留まり居給うたのあつた。
 これこそキリスト信者の第一の模範である。
                              ☆                          
 あゝ、マリアのうちに活き給うイエズスよ、願わくは、聖徳の御靈と充ち満てる大能と諸々の御徳と、踏み給う道の完全さと聖なる玄義に與らしむる御恵とを以て、御身の僕のうちに来たり活き給え。しかして聖父の御光栄のため、御身の御靈によりてすべての敵なる力を抑え給え。(オリエ)

     (2)一致の生活の主要条件―潜心
 故に、聖体拝領者に求められる理想は、絶えず神と共に、神に於いて生きることである。そこに到達するためには、何よりも先ず潜心の修業が必要である。
 潜心とは、靈魂がそのすべての能力を集中して、神を求めんと自己のうちに入ることである。無用な談話を避け、世俗の娯楽から遠ざかり、出来る限り沈黙の時間を保留することは、いやしくも真のキリストス信者の生活を送ろうと望む者の義務、基本的な義務である。
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全くの世俗の生活と信心の生活とを同時に送って行こうと望むのは危険な謬想である。神か世俗か、いずれかを選ぶべきである。「わが靈魂を孤獨に導き、かしこにて其の心に語る」(ホゼア2・14)。
 しかし外部の沈黙だけでは足りない。舌を黙せしめたところで、内部の声が騒いでいてはなんにもならない。内部の沈黙のうちに落ち着くことが必要である。無用な考え、気懸かり、空想その他すべてのつまらぬ想像力の働きを除かねばならぬ。このようんことが屢々長時間の会話よりも一層深く心を乱すことがありうるからである。想像をほしいままに働かしめ、或いは過去の思出に空しくふけり、無益の思考に心を散らし、他愛のない空中樓閣を築き、行く末の取り越し苦労に没頭するなど、いずれも神と靈魂との間に幕を投げかけ、完全な一致を阻むことである。
 ただこの潜心と沈黙を行わぬために、キリスト信者の生活に課せられ大切な義務はすべて果たし、常ずね成聖の聖寵を保っている靈魂でありながら、凡庸な生活に始終し、神との平常な一致からわずかな効果を収めるのみで、ついには聖徳への召命さえ失ってしまう靈魂を見受けるのは、まことに遺憾なことである。神は彼等のうちに居給うのに、彼等は神と共に止まることを知らないのである。
「わが魂は常に我が手中あり、かくて我汝の法を忘れず」(148・105)と詩編作者は歌っている。まことに我等の根本的義務を明らかにした光彩ある一句である。拝すべき三位御前に於いて、自己を完全に所有すること、これこそもつとも肝要なことである。
 キリスト信者は細心の注意をもつて、片時も自己の内的能力の支配権を失わぬよにせねばならない。想像の無益な働きは魂の力を分散し、靈魂は弱くなり雑多な方向に惹かれて、感心な唯一の愛の実行に専心でいなくなる。潜心の目的とするところは、こうした散漫な魂の力を再び捕え、無益な浪費から救って、神に向わしめることである。この自己把握と単一の状態に落ち着いて、靈魂は始めてその賓客、聖なる三つのペルソナと相談することができ、其の絶えず促し居給う御招きに応じるわけである。「むすめよ聞け、眼を注げ、耳を傾けよ、いざ汝の民と父の家を忘れよ、さらば、王は汝の麗しさに心を奪われん。かれは汝の主となり、これに仕えまつれ」(詩編44・11-12)
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神のみ声を聞こうと望むならば、すべての被造物を黙せしめ、神に向かわなければならない。「聖父は一つの言葉を発し給うた、これは御言にして御子である。これを永遠にまた永遠の沈黙のうちに発し給う。しかしてこの沈黙のうちに、靈魂はそれを聞くのである。」(十字架の聖ヨハネ)79
 また、福者フォリニョのアンジェラは言う、「念祷の法則は、單一という事にある。神が求め給うのは人の全体であって、その一部分ではない。念祷は心全体を要求するのであって、心の一部しか与えないならば、何も獲るところはないであろう。…神以外には汝にとって、世に必要なものは何もないことを悟らねばならぬ。神を見出し、神のうちに自らの精神能力を集中せしめること、これだけが唯一の必要事である。この潜心を得るには、あらゆる無益な習慣、無益な好奇心、無益な仕事や活動を断念せねばならぬ。要するに人を分裂せしめるすべてのものから離れるべきである。」
 それ故キリスト信者は、シエナの聖カタリナが好んで弟子たちに勧めた如く、自己のうちに一つの密室をつくり、そこで神と共に生き、「必要な唯一のこと」(ルカ10・42)に専念すべきであろう。そこに在っては、常に自己の靈魂を手中に収めていることが肝要である。至愛なる者を尋ね求める雅歌の花嫁の如く、Nescivi―我もはや何も知らず(雅歌6・2)―神と神の事よりほかは、我すべてを忘れたり、と言うべきである。或いは聖パウロの如く、彼が「愛のために我一切を失いたれど、是わが主なるキリストを贏け奉らん為にして、我をば彼に見出さん為なり。」(フィリッピ3・8)と言うべきである。「一致の境地に至らんと欲する者は、すべての事物より全く解脱せねばならぬ。次いで内部に自己を全く集中せねばならぬ。其處に於いては、精神の目の前に、ただ、御傷に覆われたもうイエズスのみを対象としておくべきである。そのようにして、心を用い力を尽くして、彼によって、彼の中に、即ち人なる彼によって、神なる彼の中に、入り込む事を努めねばならぬ。人性の御傷に依って神性の至聖所まで達するようにせねばならない」(神への一致)
                              ☆                          
 おゝ!わが拝し奉るいとも聖き三位一体の天主、願わくは我をして全く己を忘れしめ、恰も我が魂をして既に永遠の御国に住むが如く安らかに静けく爾の中に活かしめ給え。おゝ! 42
わが不変の天主よ、何事も我が心の平和を乱すことなく、また、我を爾の中よりいだす事なく、却って一瞬毎に爾の玄義の深奥に我を引き入れ給え。
 わが魂を鎮め、これを爾の愛し給う御住居、御憩いの所、爾の天津御国となし給え。而して、我は片時も爾を孤独にし奉ることなく、わがすべてを以て、また、信仰に目覚めて拝礼しつゝ、汝の御手のなし給う儘にわが身を委ね奉る。
 おゝ!わが愛し奉るキリスト、愛によりて十字架につけられ給いしイエズスよ、我は爾の聖心の浄配となり奉らんことを望み奉る。我は光栄をもて爾を蔽い、愛によりて死ぬる程爾を愛し奉らんことを望み奉る!されど、我は我が無力を感じるにより、冀わくは爾自らをもて我を包み、わが生涯を爾の御生涯の顕現たらしめん為にわが魂を爾の御霊と全く同化せしめ、爾をもて我に代えたまえ。主よ、冀わくは、拝礼者、代償者、救世主として、わが霊魂の中に降り給え。
 おゝ!わが天主の永遠の御言よ、我は爾の聖聲に聞き入りつゝわが生涯を送り、爾より總てを学ばんが為に、全く従順ならんことを望み奉る。かくて、すべての闇、なべての空虚、一切の無力の中に、我は常に爾を見つめつゝ、爾の大いなる光明の中に住まわんことを望み奉る。おゝ、わが愛する星よ、我をして再び爾の光の外に出でしめざるよう我を魅了し給え。
 おゝ!燃ゆる愛の火なる聖靈よ、願わくは、来たりて我が魂に聖言の一つの御託身を行わせ給え。我をして聖主の人性の延長の如くならしめ、聖主のすべての玄義を其が上に新たにし給え。
 おゝ!聖父よ爾の哀れな小さき被造物を顧み給え。わが中に、爾の聖心に叶える聖子のみを眺めたまえ。
 おゝ!わが聖三位、我が全部、我が至福、永遠の沈黙、我を淪むる無限の淵よ、我は犠牲としてわが身を爾に委ね奉る。願わくは爾の光明の中に爾の限り無き偉大さを拝し奉るまで、我を爾の中に沈めん為に爾を我の中に淪めたまえ。(三位一体の聖エリザベト)

     (3) 働きのうちに 
 我等の模範――イエズスは働かんが為に地上に来たり給うた。その全御生涯は、一つ 43
のつとめの遂行に過ごされた。「我貧しくして、幼少より労役のうちにあり」(詩編87・16)。主はそれに御身を残りなく捧げたもうた。何ものをもその御務めの遂行を妨げ遅らせることはできなかった。聖母に対して抱き給う子としての愛情でさえも、「イエズス宣いけるは、何ど我を尋ねたるや。我は我が父の事に居るべきを知らざりしか、と」(ルカ1・49)。主はその御務めを愛したもうた。かく曰うて御自ら聖なる自由に留まることを望み給うたのは、その御務めを完成されんが為であった。
 働きの意向――主の御務めは天の聖父に対する拝礼の行為であり、その至上の権威を認め奉ることであった。何よりも先ず、イエズスは、天主に仕え奉ることを欲し給うた。即ちそれこそ總ての被造物の義務にほかならないからである。「我が汝等の中に在るは仕うる者の如し。…人の子の来たれるは仕えらるゝ為に非ずして却って仕えん為なり」(ルカ22・27、マテオ20・28)。彼の栄誉となし悦びとなし給うところは、天父への奉仕に従事し給うことであった。それが御養父と共に角材を作られる事であろうと、民衆に道を説き給うことであろうと、長い道のりを歩みつくされることであろうと、十字架を担い給うことであろうと、活動の形式はどのよであっても、常に愛に満ちた敬虔と、言いようのない謙遜を持って、ひたすら天主に光栄を帰し奉るためになされたのであった。
 それ故、やがて最後の晩餐に於いて、自らの任務を成し遂げ給うたことを証し得給うたのである。「聖父よ、我は地上にて光栄あらしめ、我に為さしめんとて賜いし業を全うせり」(ヨハネ17・4)主は御父を愛し給う故に、その御働きはひとえに聖父のためであった。主はひたすら愛に曳かれてすべてをなし給うた。「我が父を愛するを世の知らん爲に」と、御受難という大事業に着手せられるに当たって曰うた如く。
 イエズスにとっては、働くことは正義を全うすることであった。第一に、主の聖なる御人性は、自らをかくも豊かに無償の恩寵を以て満たし給うた御者への奉仕に、捧げられるべきであったから、次に又、主はこの地上に贖い主として、萬人に代る悔悛者として来たり給うたからである。我等の一切の罪を御身に引き受け給うた故に、償いを御自らの務めとし、労役を御自らの受け持ちとなし給うた。しかもどれほどの辛い酷い悩み多いお働きであったか。かくしてきわみなく御身を使い果たし、休む暇なく励み給うことに、大いなる悦びを感じ居給うた。御勤労がその糧となり、聖心の甘美となっていたのであつた。「我が食物は、我を遣わし給いし者の御旨を行いてその業を全うする事是なり」(ヨハネ4・34)。 
 キリスト信者は「志する事はキリスト・イエズスの如く、」 (フイリッピ2・3)この聖なる働き手の御意こに自らの意向を合わせなければならない。先ず何よりも、天主への奉仕にほかならぬ故に、業務を愛さねばならない。働きはすなわち、正当の行為、敬神の業、謙遜と從屬の表明、創造主の被造物に対して有し給う至上権の認知でなければならない。
 次に労務から生じる疲労や苦痛を愛すべきである。何故ならば、罪人がその放恣を償うことは、義にして良き事であるから。汚れなき羔イエズスさえ、罪の外見のみを被り給うた為、かくも労する事を望み給うた上は、まことの罪人らはいかなる労苦を凌ぐべきであろうか?
 いかに働くべきか―イエズスは勤労に赴きながらも聖父に止まり居給うたということは忘れてはならぬ大切な点である。使徒的職務に就かれる為にナザレトをさられてからもイエズスはそれまで祈祷に当てられた時間の大部分を減じ給うたと考えるのは大いなる誤りである。主の活動生活が観想生活を弱めることは決してなかった。その聖き御魂にの内奥には、聖父への愛と観想との深い変わらぬ境地が常に存し、主のあらゆる御状態と諸々の玄義は、それを素地として開花していたのであった。主が三十年間の私生活に於いて、聖父へと向けられた分は、たしかにより絶対的なものがあったであろうが、公生活に於いて捧げられた部分にも、豊けさの決して前者に劣らぬものがあった。ナザレトを出で給うてから、一層のご苦労を加えられた。然し内的生活においては、主は何物をも捨て給わなかったのであった。
 そのように我等も仕事のうちに在って、神と共に止まるべく努めよう。念祷の時と業務の時の相違をできるだけ無くすよう努めよう。我等の内なる賓客と相語ることは、時を問わず不断の事でなくてはならない。
「何ごとを爲すも或いは言、或いは行、悉く主イエズス・キリストの御名により、之を以て父にて在す神に感謝し奉りて爲すべし」(コロサイ3・17)86
 働きの種類は何でも良い。―労し、学び、食し、語ろう―然し神を愛する事を決して忘れてはならない。
 たとい隣人に善を爲すときでも、彼等に赴くために神の御許を去ってはならない。寧ろ、我
等の兄弟に神を齎すべきである。豊かな観想の源に発せぬ布教事業は実りなく、それを行うものに有害となることさえあり得る、と言うキリスト教的活動の基本的原則を銘記すべきである。仮にも内的生活に損失を招く活動生活に赴くことは、神の御旨に反する事である。隣人に與える分け前も、決して神に捧げるべき分を侵すことがあってはならない。我等の活動は観想から離れるべきではない。寧ろそれらは外部に現われた観想として、兄弟の靈魂に働きを及ぼすものでなければならない。
 それ故もしも隣人愛の意向によるにしても、過度の活動欲にかられて、仕事を増加し負擔するあまり、潜心の習慣を失い、内的生活を窒息せしめるに至るならば、かの聖ベルナルドの言葉を想い起こし、速やかにそれを中止しなけらばならない。「汝を神より遠ざくる業務に呪いあれ」
 聖会に於いて活動は必要である。然し観想は、更に必要なものである。
                              ☆                          
 聖なる父よ、わが上に御顔の光を映えさせ給いし、かの愛によりて、我をしてあらゆる善徳と聖徳もて御身のうちに進みゆかしめ給え。
 あゝキリスト、あゝイエズスよ!御血もて我を贖うことすら望み給いし、かの愛によりて、いと聖なるご生活の清さを我に着せたまえ。
 あゝ尊き慰め主よ!限り無き聖性と等しき大能を有せられるゝ御者よ、我に靈の呼び名を與えて御身に結ばしめ給いしかの愛によりて、我をして心をつくして御身を愛し、魂をつくして御身に著き、御身への愛と奉仕に力を果たし、聖者のまゝに生き、調えられ、死の際には、汚れなき衣にて、備え給いし天の婚宴にうけいれらるゝを得しめ給え。 (聖ジェルトルーヂス)

     (4) 誘惑のうちに
 誘惑のうちにあって一致を保持するのは一層難しいことであろうか。
 否、もし我等が信仰を固く保ち、神がしばしば「暗黒にかくれたもう」ことを想い起こしうるならば、それは困難ではない。神は我々の心のなかに隠れ給い、悪魔が我々に近づくことを許し給う。然し神は常に我々のうちに留まり居給うのである。
シエナの聖カタリナの生涯のうちに、我々に光明を與える一つの出来事がある。カタリナは純潔に反する、最も恥ずべき烈しい誘惑に悩まされた。ようやくその嵐が去って、吾が主は現われ給うた。「主よ、私の心があれほどの穢れに苛まれておりました時、御身は何処に在したのでしょうか」と聖女は叫ぶ。主は、「汝の心の中に」と答え給う。―「あゝ主よ、真理そのものに在す御身の御前にはただ身を屈するのみでございます。けれども、かくも忌むべき想いに満ちみちて居た心の中に在したとは、どうして信じられましょう。―「それらの思いや誘いは、汝に喜びをもたらしたか。悲しみをもたらしたか、或いは楽しみを與えたか、苦しみを與えたか」―「大いなる悲しみと大いなる苦しみを」―「吾が娘よ、悟るが良い。汝の心の中に我が隠れ居たればこそ、汝は悩んだのであるこということを、もし我がそこに居ないかったならば、それらの思いは汝に入り込み汝を悦ばしめたであろう。我が存在が、汝にそれを堪え難くせしめたのである。我が汝に在って働き、汝の心を敵から守って居たのである。我は曾てこれほど汝に近く居たことはない。」
 これらの御言葉は、誘惑に対して我等のとるべき道を示している。即ち、イエズスに密接に結びついていることである。悪魔が我々の超自然的生命を攻撃する時、それは結局、神御自身に対する攻撃と言える。彼は我等の内なるキリストをなおも迫害し、またも十字架につけようとするのである。彼が消滅せしめようとするのは、我等の内なるキリストの生命にほかならない。勝利の秘訣は、心を騒がしたり悪しき者の唆しを直接に斥けたり或いはその奸計と相争うことではなく、すでに彼を打ち負かし給うた御者、我等に傳えたもうたこの尊き生命を救うことを我等よりも熱心に望み給うた御者に、全意志をもつて著き奉ることである。今こそまさに聖パウロの忠告を実行に移す時である。「汝等主に根ざし、主の上に建てられ、信仰に固められてイエズス・キリストにありて歩め。」(コロサイ2・6-7)
 こころを乱さずキリストに一致し、キリストのうちに深く入り、主により頼むものは悪魔に打ち負かされることはないであろう。「これ汝のうちに在す御者は世にあるものより優れ給えばなり……」(ヨハネ前4・4)
 「たとえ大軍来たりて、我に向かいて陣を張るともわが心懼れじ、我に向かいて、戦い起こるとも、わが信頼ゆるがじ。ヤーヴェはその幕屋の奥に我をかくまいたまわん」(詩編26・3-5)
 聖テレジアは常に天主と一致している聖寵を願い求めたのちに、「そうなれば、私はすべての悪魔に対して侮りと蔑みを感じるばかりとなり、彼等の方が私に怖れを抱くであろう。私どもが『天主よ!天主よ!』と呼び得る時に『悪魔!悪魔!』と怖れ叫ぶのはわけのわからぬことである。」91
 結局、我等の内なる賓客への信頼と一致が、誘惑に対しての救いの道である。何故なら、その魂自身が望むのでなければ、いかなる力も靈魂を神から奪い取ることは出来ないからである。「キリストに対する愛より我等を引き離す者は誰ど。…すべての試練のうちに在りて、我等を愛し給いし御者によって我等勝ちて尚剰りあり。けだし我は確信す。死も生も天使も権天使も…他のいかなる被造物も我等の主イエズス・キリストに於ける神の愛より我を離し得るものはなし」(ロマ8・35-39)と。  
                              ☆                          
  ヤーヴェはわが光、わが救いなれば
   われ誰を懼れん。
  ヤーヴェはわが生命の砦なれば
   われ誰にか怖れを抱かん。
  悪しき者らわれにむかいて来り      
   わが肉を喰わんとせし時
  わが敵ども進み來りしとき
   彼らよろめき倒れたり。
  ヤーヴェはわが苦難の日に
   御館のうちにわれをかくまい
  幕屋の奥にわれをひそませ
   巌の上に堅く立たしめ給う。
  げにわが魂よ 安んじて神により頼め。
   わが希望は彼にあり
  げに主はわが力わが救い
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   わが砦に来ませば、われ捨ぐことなかるべし。  (詩編26・61)

          (5) 肉体の苦痛のうちに
 苦しむことは必然である。
 我等の頭たる御者について「キリストは苦しみを受け、しかして光栄に入るべかりしなり」(ルカ24・46)と記されている。これは肢体たる我等に於いても同様である。「すべてイエズス・キリストに於ける敬虔をもって世を渡らんと決せる人は迫害を受くべし」(チモテオ後3・12)我等はカルワリオを登るごとくに、十字架を担いつゝ天に上るのである。「人もしわが後に来たらんと欲せば己を棄て、己が十字架を取りて我に従え」(マルコ8・34)。
 そこでいかに苦しむべきかが重大問題となる。
 すべての苦痛がよきものとは限らない。無益なものも有害なものもある。ある人々は苦しみそのもののために苦しみを求め、それを愛したのしむ病的な傾向を有する。彼等は、苦しみが目的でなく、常に愛を生ぜしめるための方法、手段の一つに過ぎぬことを忘れて、神のご計画に背くのである。苦痛を聖なるもの、功徳あるものとするのは、苦しむ者の心構えによる。苦しみは神の造りたもうたものではなく、罪の結果である。もしも愛がそこに入り込んでそれに価値を與え、我等の罪多き本性の浄化に役立たせるのでなければ、それは依然として呪われた果実でしかない。カルワリオ山上にて、キリストの傍らに、一人づつ盗賊が十字架につけられていた。その一人には、苦痛は楽園の扉を開くことゝなったが、他の一人には、その悪を極みまで押しすゝめて、永遠の悲惨の序幕となり終ったのである。
 故に、問題は、むやみに苦しむことではなく、神の御意志に順応してよく苦しむこと、キリストと共にキリストの如く苦しむことである。
 さて、この「十字架の王道は」踏破すべき三つの行程がある。即ち、肉体の苦痛、心の苦悩、魂の憂悶がこれである。
 そこで先ず肉体の苦痛について考察しよう。
「汝等その肉体の苦痛を以て活ける聖なる、神の御意に適える犠牲として供えよ。」(ロマ12・2)
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いわゆる苦悩は心を襲うものであるが、苦痛は主として肉体と魂の下級能力を捕える。これは信者にとって、最初の、初歩的な、キリストの聖なる受難への参与であるが、すでにきわめて高い段階に達することも出来るのである。肉体の苦痛にせよ虚弱にせよ病気その他にせよ、人間の自然性にとって非常に耐え難いものであり、従って霊魂にとって功徳となり神に御栄えを帰すものとなりうるからである。
 この道においてイエズスは我々に先立って行き給い、しかも到底我等が追従し得ぬほど遠く行き給うたのである。
 主はカルワリオを目指して来たり給うた御者である故に、聖霊はその御人性を苦しみのために特別に造り給い、すぐれてデリケートな御体と極度に敏感な感受性を与えて、この上なく苦しみ得るよう備え給うた。その完全さそのものが御人性をして未曾有の苦しみを受け得るものとしたのであった。イザヤ預言者は、この様を描くのに用いる言葉を知らぬほどであった。
 多くの者かれをみて驚きあきれたり
 その形は損なわれてもはや人の姿をなさず
 その面差しも人の子の面ならず……
 彼にはかたちなくうるわしさなく                    
 人の面を蔽いて避くる搾るものゝ如くになれリ
  彼は侮りの的となり、我等も彼を顧みざりき……
 ヤーヴェ彼を苦難もて砕くをよしとし給えり  (イザヤ53)
 それでは、我等の苦しみ時が来たならば、如何にすべきであろうか。かくも苦しみ給うた御者と堅く一致していることである。
 これこそ最も容易な最も慰め多い方法である。我等がキリストの肢体であり、先ずその聖なる御体の御傷と御苦しみに一致して、御受難を我等に於いて続けるべきであることを想い起こそう。あれほど貴重なる價を払って得られた御光栄を有される今日、主はもはや苦しみ得ぬ状態に在られる。しかし、御自分の御人性によって受け得ぬところを主はその「付加された人性」なる我等に於いて受け、かくて御受難を続けんと欲し給うのである。
 そればかりか、曾てはその完全さの故に越え得給わなかつた限界を越えて、聖き御受難の屈辱を今日更に廣く及ぼし給う思し召しがあるかのようである。何故なら、御在世中主は我等の到底忍び得ぬほどの多くの御苦難に堪え給うたが、そこにはまだ御経験によって知り給わぬ苦しみ、例えば疾病の如きものがあったからである。そこで主が御自ら受け得給わなかったところを、我等に於いて忍ばんとし給うのであろう。主は我等の生命に入り、我等を御自に合体せしめ、我等が、主の御爲のみならず、眞に主と共に、主に於いて苦しみ得るようになし給う。我等は眞實に「我キリストと共に十字架に釘づけらるゝなり」(ガラチア2・19)と言うことができるのである。
 すべての苦痛は、これをよく堪え忍ぶならば、我等のうちに神の御業を促進する。これよりも成聖を助けるものはない。苦痛はイエズスと我等の深き類似を完成する。それは聖パウロが「我等のうちにキリストを形造る」(ガラチア4・19)と言う処の霊妙なる業を行う。「かくて我等の外なる人は腐敗すれども、内面の人は却って日々新たなり」(コリント後4・16)。
 「一つ一つの苦痛は、いわば十字架上のキリストが我等に賜う接吻であり、それは我等の風貌にイエズスとの又新たな類似をもたらすものである」とゲー司教は言っている。
 このような確信に支えられるならば、最悪の試練をも忍耐のみならず魂の聖なる悦びをもって凌ぎうる筈である。「我はわが一切の艱難の中に於いて慰めに満ちて喜びに堪えず。これキリストの御苦しみの欠けたる所を御体なる教会の爲にわが肉体に於いて補えばなり」(コリント後7・4、コロサイ1・24)と聖パウロは言った。それ故に彼は天主が試み給うた信徒らに祝詞を述べたのである。「そは汝等はキリストの為に啻に之を信ずる事のみならず、又之が為に苦しむ事をも神より賜りたればなり」(フィリッピ1・29)
 我等の目指すべきは、イエズスと共に、イエズスに於いて苦しむことによって、この大使徒の次の言葉を己がものとなすことである。
「我等万事に艱難を受くれども苦悩せず、窮迫極まれども失望せず、迫害を受くれども棄てられず、倒さるれども亡びず、何時もイエズスの死を我が身に帯ぶ。これイエズスの生命が亦わが身に於いて顕れん為なり。即ち我等は生ける者なれども、常にイエズスの為に死に付さる。是イエズスの生命が亦死すべき我が肉体に於いて顕れん為なり。…我等の短く軽き現在の艱難が我等に永遠に重大にして無比なる光栄を準備するなり。」(コリント後8-17)
 實に一つ一つの苦難は永遠の種子なのである。
                              ☆                          
 あゝ我が主イエズスよ、苦難屈辱なくして、如何なる偉大なる事もなされず、この道によらば万事可能なる事の、世の終わりに至るまで眞實なるを、我は知りかつ信じ公言せんと欲す。あゝ我が天主よ、我は卑賤の富貴にまさり、苦痛の快楽に、微賤軽蔑の好評に、不名誉の名誉にまさる事を信ず。
 我が主よ、我はこれらの試練を我に下し給えと求むることはせじ、わがよくそれに堪え得るや否やを知らざればなり。されど少なくともかかる真理を、幸運又は逆境のいずれかにある時も、信ぜんと欲す。我は富貴、地位、権力、名声を頼みとせじ、我が心をこの世の成功、優越の上に安住せしめじ、人の人生の幸福と呼びなすものを求むまじ。御恵によりて、我はむしろ、あなどられ、ないがしろにせれらるゝ人々を大いに尊び、貧者を敬い、苦しむ人々を尊敬し、御身の証聖者、聖人らを賛美し敬い、世の軽んずるこれらの人々のうちに列なることを望まんと欲する。
 愛し奉る主よ、我が弱きによりて、我は苦難を賜の如くに求むることをせず、又かくなす力なしといえども、御身が叡智と愛のみはからいにて我にそを與え給わん時は、せめて之を喜び受くる御恵を求め奉る。
 我は万事に於いて自己を卑下し、悪意の言には沈黙のみを以て答え、悲哀苦悩の打ち続く時は忍耐を保たんと欲す。しかして、この世と永世によって約束せられしものを、かくして獲ち得べしと知る故に、これらすべてを御身への愛と御身の十字架への愛のためになさんと望むなり。(ニューマン)
          (6) 心の苦悩のうちに
 これは第二の行程である。苦悩は種々の原因と様式をもって、直接に心を襲う。悲哀、倦怠、別離、煩悩、息も絶え入るまでの憂悶の情、等。
 これらは我等の本性にとって苦痛よりも更におそろしいものである。更に苛酷な據棄を課するものだけに一層浄化に役立ち、聖化の実を結ぶものである。これによりて、苦痛に依るよりも更に深くキリストの御受難に与り得る。イエズスの肉身の御苦しみは誠に酷烈であった。しかしその御悩み、聖心の御苦悶に至っては、何と言うべきであろうか。愛の底なき淵であられた故に、聖心は苦悩の底なき淵であられた。イザヤはキリストを名指し奉るのに「苦悩の人」の名をもってしたではなかったか。その地上の御生涯は、無限の知識と聖徳と愛とを以て養われた永い死苦にほかならなかった。御託身の時からこの死苦はすでに壓倒的力をもって始まり、御受難の日に至ってその頂点に達したのであった。それは始終主の苦しみ得たもう力の限りを消耗しつづけた三十三年間の言語に絶した殉教の苦であった。まことに彼は「苦悩のうちに住み給うた」(福者フォリニョのアンジェラ)のである。
 いやしくも完全な一致に憧れるほどの者は、キリストの御苦悩に雄々しく参加し、彼と共にあらゆる心の悲哀、憂悶、死苦を忍ぶべきである。聖パウロは「キリストを知り、その苦しみ与り、その死に象られる者となる」(フイリッピ4・10)ことを冀った。
 信仰を有する者には、かゝる時も神に留まることは困難ではない。 なぜなら、いかなる苦悩に陥ろうと、いかなる救いもあり得ぬなどの極度の煩悩に逐いやられようとも、常に眼前に同じ苦悩を負い、 同じ死苦を凌ぎ、更に甚だしきものを忍び給うイエズスを仰ぎ、我等が苦悩のうちに共に住みつゝ愛のうちに留まることを止めぬよう、それらを聖化し神化し給う主を見奉るであろうから。

    アレルヤ!
  主よ、わが心備えなれり
  われは歌わん、高らかになりひびかせん讃の歌
  わが光榮はそれにあり!
  ななごと
  立てよわが七絃琴
  めざめよわが堅琴
  あゝ、主よおんみをたゝえまつらん
  そは御仁慈はもろもろの天よりも高く
  御誠實は雲にまで及べばなり
  苦悩のときは、わが助けに来りたまえ
  人の授けは空しかり
  されど神となればわれら大いなることをなさん
  われは永遠に主の御あわれみをうたわん
    アレルヤ                  (詩篇

          (7) 魂の憂悶のうちに
 ある時期において、神が御自ら我等に敵対し、我等を怖ろしい戦いに引き入れ給う如く想われる事が起こる。その時送り給う苦悩は最もおそるべき最もはげしいものである。又最も稀なものでもある。何故なら、大多数の者はそれを経験する事を得ぬであろうから。これは總てを完了するものである。先の苦痛は神の正義を満たし、愛を鍛錬するのがその目的であった。今の苦悩は霊魂に完徳の至上の烙印を当て、キリストとの至上の類似を印すはずのものである。これらの苦悩は直接に神から来る。その遠い根源は神の無限の聖性から発するが、その直接の原因となるものは、聖靈の神秘な恐べき御働きである。靈魂を永遠至高の清浄に與らしめるため、聖靈はそれを捕え、削ぎ、挫き、抛ち、再び取って砕き、苦汁の底に沈め、ついに完全な変形に至るまで、筆舌に尽くせぬ責苦を加え数多くの傷を蒙らせ給うのである。神は御自ら手を下して、彼のみひとり能く知り給う靈魂の奥所に、精神のあらゆる能力を厳密に檢べ、心のあらゆる隅を探り給うのである。「蓋し神の御言は活きて効能あり、あらゆる両刃の剣よりも鋭くして、靈魂と精神と、又関節と骨髄との境に達し、心の想いと志とを分かつ」(へブレオ4・12)
 かゝる時にはすべては悩ましく、かって受けた恩寵の思出さえも苦しみの種となる。即ち、聖靈が魂のうちに一つの秘かな純粋な光明を注ぎ給い、それによって一方に彼の惨めさと他方に神の偉大さを照らし出させ、残るすべてを深い暗夜のうちにおき、一切の自然的支えを崩し去り、至聖なる御者の御前にて絶望的な孤独に陥れ、極めて怖るべき靈的暗闇のうちに投げ入れ、時として不安に満ちた恐怖の中にさえ投げ込み給うからである。實に神が一切を浄めんとしたもうのであって、「我等の神は焼き尽くす火にて在す」(へブレオ12・29)からである。
 では我等はどうすればよいのか?神の御働きに身を委ね奉ることである。抵抗を試みるのは第一有害であり、多くの場合不可能である。働き給う御者が聖靈であられる以上、この浄化の苦悩に甘んじて留まることは、とりも直さず神に留まることである。
 イエズス・キリストとその御受難への一致は、何よりも有益である。この靈魂の憂悶がいかばかり深いにしても、それはかの怖るべき時に当たってキリストの聖魂の蒙り給うた絶対的孤立 ―「我が魂は死ぬばかりに憂う……我が神よ、なんぞ我を棄て給いしや」の呻きを発せられ、しかも聖父天主が「愛する御子の上に地獄のあらゆる能力を放ち遣り、同時に天のあらゆるご加護を取り去り給う如くに見えた」(ボシュエ)― かの時の主の忍び給うた絶望的遺棄の状態には及びもつかぬものであろう。「そが難苦の大いなること海の如し」(エレミヤ哀歌2・23)と預言者もいっている。
 しかも、平常はかくも甘く、慰めに満ちていたイエズスとの一致さえ、此處に於いては、恰も凍った如く、何の答えもない悩ましいものとなるということも知っておかねばならない。心はもはや一致を感じることなく、信仰の裡に黙すのみである。靈魂もひたすら信仰によって神に結ばれ、いわば縋り付いて居なければならぬ。信仰こそ唯一の頼む陰、聖パウロのいわゆる「揺るがぬ国」(へブレオ12・28)であり、「我等が立ちて在るのは信仰に於いて」である。
 打ち棄てられた哀れな靈魂は、いつにも増して「神の我等を愛し給うた大いなるご寵愛」(エヘゾ2・4)を信じ、モイゼの如く「見えざる所を見えるが如くにして忍耐」(へブレオ11・27)せねばならぬ。靈魂を追い退け給う如く思われる今の時ほど、神が深く愛し近く留まり給うことはないと信じなければならない。主御自身、福者フォリニョのアンヂェラに宣った―「汝が捨てられた如く思われる時ほど、却って彼に愛され彼の胸に抱かれて居るのである。……あゝ我が愛するものよ、かゝる時こそ神と汝とは如何なる時にもまさって深く結ばれていることを悟れ」と。それ故我等も聖ヨハネの言葉をかりていおう。「神の我等に対して有し給える愛は、我等こそ之れを知り、且つ信じたる者なれ」(ヨハネ前4・16)と。
 この内的憂悶の、正しく言えば超自然的浄化の、恩寵の時に於いて、大いなる事が成
就される。即ち「愛」なる御者は、その御約束に従い、靈魂と神との一致を成就せしめられるのである。 ―「我汝等を信仰のうちにめとりて永遠に結ばん」(ホゼア2・19)と宣うたごとく。それ故、浄化の御業が果たされると、浄配たる者は清浄と喜悦と力に飾られて現われるのである。― 「荒野より上り来たる者は誰ぞ、愛する者によるて倚リてその喜びしたゝるばかりなり。」(雅歌8・5)
 結局、試練に在る時の霊魂にとっては、ひたすらイエズス・キリストに結びつき、聖なる御人性の御傷口から御神性に入り込むことが唯一の道である。
 このような犠牲に上がった靈魂は、一つの燔祭、一つのホスチアである、靈魂はそれを甘受すべきである。自己の燔祭を以てイエズスのそれに與るばかりでなく、全く彼の燔祭に溶け込むべきである。かくてイエズスと偕に、神の御前に栄えある唯一の燔祭と化すのである。それは聖三位の挙げて喜び給うところとなるであろう。聖父は彼に、愛し給う御子に似通うものを認めて、妙なるご寵愛を注ぎ給い、御言葉は贖罪の御受難のみあとを慕う者を見給うて、選まれた浄配の如くに招き給い、聖靈は教会の聖性のため恩寵を受けるべき完全な器を彼に見出して喜び給い、御自ら靈感を送り且つ操る者となり給うのである。
 故に我々は苦しむことを嘆いてはならない。「己を馨しき香りの献物とし給うた」(エフェゾ5・2)イエズスの如く自ら進んで十字架に向かうべきである。「永遠の愛の王国に、若し嫉妬が入り得るものとすれば、人間のために神が忍び給うた御苦難と、神のために人の凌いだ苦難とは、天使の妬むところとなるにちがいない」とサレジオ聖フランシスコは言っている。
 福なる苦悩よ、福なる死よ、こゝにおいて我等も聖パウロと共に叫び得るであろう。「我はキリスト共に十字架に釘つけられたるなり。それ我活と雖も、もはや我に非ず、キリストこそ我に於いて活き給うなれ。我肉体に活と雖も、我を愛して我がために己を付し給いし神の御子の信仰に於いて活るなり」(ガラチヤ2・19-20)と。
                              ☆                          
  あゝ神よ われを救いたまえ
  大いなる水が魂にまで昇り来ればなり
  われは底なき淵の泥に沈み入り
  足をふむべきところなし
  われは深淵に落ち
  水われを蔽い沈めんとす
  われ叫びて疲れはて
  わが喉は焼くがごとし
  眼はわが神を待ちあぐみて衰えはてぬ
  あゝ神よおんみの道は聖なるかな・・・・・・
  わが魂、主を祝しまつれ
  わがうちなるすべては聖なる御名をたゝえよ
  わが魂ヤーヴェを祝しまつれ
  主こそもろもろの過ちをゆるし
  悩みをいやしたまえば!
  主によりてぞ汝が若さ新たにせられ
  鷲の力を得るなり
  主の仁慈はとこしなえなり
  さいわいなるかな主により頼む者!
  アレルヤ!     (詩篇

          (8) 喜びのうちに
 我等の喜びを慎重に調えることは、この上なく重要なことである。
 喜びとは、愛する者を所有する魂の晴れやかさにほかならない。我等の喜びの性質は我等の愛の性質を、またその純潔さは我等の心の純潔さを顕すものである。それ故、喜びにおいて神から遠ざかる事のないようにし、「志すことはキリスト・イエズスの如くなれ」(フイリッピ2・5)との聖パウロの忠告を実行するよう、細心の注意を払わなければならない。イエズスと偕に喜ぶこと、我等に於いても隣人に於いても、主御自身に於いても、ただイエズスのお喜びになるもののみを喜ぶ事である。何事においても神に留まる事は必要であるが、喜びと愛に 関しては特にそうである。
 A 喜びの源
 被造物は我等に喜びを與える。あるものは、例えば友情の如きものは、まことに甘美なものである。それらを愉しむことは決して禁じられた事ではない。なぜなら、それらは神の賜うところのものだからである。しかし心してそれらを神に帰すべきである。神の外に何ものをも愛すべきではない。神をさしおいて何ものをも愛すべきではない。すべての物を神の愛したもうごとくに愛し、神において愛そう。この神への一致こそ、我等の喜びを純粋にし、確固たらしめ、この上なく自由なものとするであろう。
 併しこれらの喜びは第二義的なものに過ぎない、キリスト信者にとって、根本的な喜びは、神の在すことを知ることにある。神は在す! 本質的に必然的に、存在し給う無限なる御者。万物の本源、真理、美そのもの、善そのもの、慈悲、大能、神性、至上の純潔、正義、愛に在す御者……神は存在し給い、これら總てに在すのである。永遠に渝わることなく、尽きることなく、かくの如く在すのである。……神は在し、御自らを識り御自らを愛し給う。そは一にして三位に在し、聖父、聖子、聖霊に在す。聖父として神はその無限の御生命を聖子に漲らし給い、御子は御父のご思想、光栄にほかならず、両者は共通の単一の愛のうちに相結ばれ給い、その愛は即ち両者の神秘的抱擁、無限の喜悦の永遠にして実体的極みなる聖靈である。聖父聖子聖靈は量り知れぬ一つの愛をもって相愛し給い、限り無く窮まりなく、渝わることなく、福にて在します。しかして、我々をもこの御生命に永遠に与るべく召し給うのである。 
 この事を知ることは、愛情ある霊魂にとっては、何ものにも越えた限り無い喜びの源となる。神の神にて在すことを喜び、神の御悦びを喜ぶこと、これは崇高な、いとも聖なる行為であり、純粋な愛徳である。この喜びは霊魂を人間生活の哀れな惨めさから脱却せしめ、一切の物の上に高め、拝すべき聖三位の内なる御生命に、聖パウロのいわゆる「神の深き所」(コリント前2・10)に入らしめる。「主よ、御身を眺め奉る物は歓喜に溢る」(詩編35・6)とダヴィドをして歌わしめたのもこの喜びである。それは、贖われた被造物のうちに在し働き給う聖靈の最も神聖な好果の一つである。それは靈魂を神化せしめるものである。
 この喜びこそ他のすべての悦びを帰着せしむべきである。我々のあらゆる喜びは、畢竟「神の我等に賜りたる聖靈」(ロマ5・5)の無限の御喜びの一つの迸りにほかならなぬ事を想い起こすならば、それは容易になされるであろう。
 すべての喜びの源は我等のうちにあるのである。「我を信ずる人は、活ける水の川のその腹より流出すべし」この御言葉に「斯く曰いしは、己を信じる人々に賜るべき聖靈の事なりき」(ヨハネ7・38-39)と福音史家は附言している。洗礼がこの内なる泉の口を開き、各々の聖体拝領がそれを拡げるわけである。「河あり、その流れは神の都を、いと高き者の住み給う聖所を喜ばしむ」(詩編45・5)。
 信仰の真理は、最も小さなものでさえ、一つの喜びの園となり、靈魂は時を選ばずそこに愉しむ事が出来る。「信じ奉るが故に、言い難き喜びに堪えざるならん」(ペトロ前1・8)と使徒の長は言う。「汝等は常に潤える園の如く水の絶えざる泉の如くなるべし」(イザヤ58・2)。
 それ故、喜びのうちに活きるか否かは、ひとえに我等に係わるのである。しかし何と言う喜びであろうか! 人間的な喜悦にも真実な清いものはあるが、それらは魂の表面を動かすに止まる。これに比べて神聖な喜悦は、骨の髄まで徹するのである。まことに、真正な喜悦、本質的な喜悦、何ものも我等より奪い得ぬこの悦びこそ、我等の内なる聖三位の現存から発するのである。神の御生命につゝまれていることを感じる霊魂を何ものが擾し、その調和を何が破り得るであろうか!

 B 喜びのうちに生きること
 「汝等常に主に於いて喜べ。我は重ねている。喜べ」(フイリッピ4・4)。神はその子らを喜びのために創り給うた。彼等が喜びのうちに生きるよう、總てをなし給うた。創造とは、聖性とは、自然の或いは超自然の至福への準備、神の御喜悦の溢出でなくてなんであろうか?聖体とは、教会のうちに、各靈魂のうちにひらかれた盡きぬ喜びの泉でなくてなんだあろうか?神は我らが喜びに生きることを望み給う。イエズスはそれを彼の至上の御祈りのうちに求め給うた。「聖父よ、わが斯く祈るは、わが喜びを彼等の身に円満ならしめん為なり」(ヨハネ17・13)
 苦悩でさえ喜びに変化し、融け入るべきである。キリストの尊き御魂は廣大な喜悦と無量の苦悩とを同時に宿し給うた。その下部は極度の御心痛に沈んでいられたが、その頂上は神的喜悦に分け入り居給うた。しかし喜悦は他のすべての感情を圧するものであった。すべての御苦痛も御犠牲も結局こゝに溶け込んでいた。何故ならその御犠牲が苛酷なものであるほど、神に光栄を帰し、御人性にはより高い位を備えるものであることを、イエズスは悟り居給うたからである。
 このように、我々の靈魂は、悩み且つ喜び得るものなのである。感覚に近い下部においては悩み、意志のみが支配するその頂点においては悦びうるのである。最も苦しい時でも、苦悩だけが我等を占めているのではない。慰め主なる御者を我等は有するのである。「而して我は父に乞い、父は他の慰め主を汝等に給いて、永遠に汝等と共に止まらしめ給わん。是即ち真理の靈にして……彼は汝等に止まらん。」(ヨハネ14・16-17)
 我等は喜びのうちに留まろう。それは聖靈のうちに留まることにほかならない。聖体拝領は我等をシエナの聖カタリナの好んで「平和の大洋」と呼び奉った御者の中に投じるものである事を想い起こそう。「あゝ永遠なる天主」―と聖女は叫ぶ―「御身は諸々の靈魂を生かしめ養う静けき大洋なり。彼等はそこに、愛の一致のうちに憩うなり。」
 喜びは神に捧ぐべき一つの拝礼である。それは霊魂のバロメーターである。なぜならこの度合いが愛の度合いを表示するものであるから。絶え間ない試練と迫害のうちにあって、靈魂の崇高な典型である聖会は、曾て喜びを失わなかった。その典礼は日々新たなる祭典である。聖化は祝日を以てその暦日を数える。茨の道を行くとはいえ、眼は天に挙げ、天配の愛と完徳を謳いつゝ行くのである。聖会は喜びに生きる。それは愛の結実なる、強く晴朗な、自由な喜びである。
 キリスト信者とは、喜びを蒔く人であり、それ故にこそ大いなる事を成し遂げる者である。喜びは世に最も抗し難い力をもつものゝ一つである。それは、和らげ、鎮め、征服し、牽きゆく力をもっている。喜びに満ちた魂は一人の使徒である。それは、神の現存が自己にもたらす所のものを顕示して、人々を神に招く。それ故に、聖靈はかく我等を訓し給う。「汝等憂うる事なかれ、それ神にありて喜ぶは汝等が力なればなり。」(ネヘミヤ8・10)
                              ☆                          
 あゝわが生命の神よ、歓喜と愉悦とは御身にあれかし、御身の聖三位の至上権の故に、御実体の本質的唯一性の故に、御身のペルソナの特性の故に、御身のいと妙なる至福の源なるそれらの一致と深く密なる関係との故に!
 歓喜と愉悦とは御身にあれかし。御身の悟り難き偉大さの故に、御身の不動なる永遠性の故に、一切の汚れを排しあらゆる純潔の源なる御身の至上の聖性の故に、御身の栄えある全き至福の故に!
 歓喜と愉悦とは御身にあれかし、其を以て我を浄め給いし御身の御人性のいと清き御肉身の故に、いと尊き御靈魂の故に、わが為に死に於いてまで愛に貫かれ給いし聖心の故に!
 歓喜と愉悦とは御身にあれかし、このいと愛深き、我に対する優しき御配慮に満ち、我に対する愛に渇きて、永遠に我をうけいれ給うまで憩うことなき御心のうちに!
 歓喜と愉悦とは御身にあれかし、母の慈愛の寶庫を常に開きてわが救靈の必要に當てしむるよう、我が母として與え給いし、御身の御母、いと栄えある童貞マリアのいとすぐれたる御靈魂と御心の故に!
 歓喜と愉悦とは御身にあれかし、天と地と深淵を満たす御身のあらゆる被造物によりて!我等こぞりて、御身より出で、またその源なる御身に帰る永遠の賛美をみもとに奉らんことを!
 歓喜と愉悦とは御身にあれかし、我が心、我が魂、我が精神、我が肉身より出でて、宇宙のありとあらゆる物より出でて!
 万物之れよりして、之れによりて生じ、之れがうちに在るところの御身に、ひとり。世々に至るまで誉れと栄え在らんことを! (聖ジェルトルーヂス)

           Ⅱ 一致の完成    

 成聖の聖寵の状態を基礎として、神との一致は種々様々の度合いに於いて存在する。完徳の梯子を仰げば、その段は殆ど無限に昇っている。朝の聖体拝領によって我等は先に述べたごとき愛の一致に置かれる。ところが残念ながら、この一致はやがて弛み得るのである。しかしながら又、それは絶えず。より完璧にもなり得るのである。信者の一日中の努力を、まさに聖体による一致を増大し完成することに集中せねばならない。その為に至って有効な一つの方法は、望みと愛の行為を繰り返すことである。

          (1) 望みの反復
 ダニエルは熱望の人であった故に、キリストの玄義に與ることを得た。イエズスを望み求める靈魂は、必ずその玄義を深く悟り味う恩寵を蒙り得るであろう。
 願望は種々の障害物を斥ける。それは靈魂の扉を開き、かの黙示録の素晴らしい一句を実現せしめる。「看よ、我門前に立ちて敲く、我が聲を聞きて我に門を開く人あらば、我その内に入りて彼と晩餐を共にし、彼も亦我と共にすべし。」(黙示録3・20)
 望みは靈魂を廣くし、その望みの対象に適合せしめる。いわば神に相応しい者とするのである。之れについては、天の御父自らシエナの聖カタリナ確言し給うた。「如何なる徳を以てするも、汝限りある方式にて我に仕うる時は、永遠の生命に値することなし。そは我は限り無き神にして限り無き方式にて仕えらるゝを望む故なり。しかし汝にありて無限なるは、汝の魂の願望と飛躍あるのみ。」更に附言して曰うには「此の望みも他の總ての徳と同じく我が独り子、釘ずけられしキリストによるに非ざれば何等の値なし」(シエナの聖カタリナ) 
 靈魂に聖体拝領への望みを燃やすのは、非常に良いことである。「愛の完全な修業はイエズス・キリストを享け奉らんと不断に望むことである。―とボシュエは言う。―聖卓は常に調えられているが会食者に乏しい。しかしあゝイエズスよ、御身は彼等を呼び給う。」
 多くの聖者の生涯は、聖体の一致に対する彼等の靈魂一つの長い燃え続く熱望であった。殉教者者聖イグナシオはローマ人等に宛てゝ次のように書いている。「我は朽つべき糧にも此の世の楽しみにも望みを抱かず。我が欲するは神のパン、ダヴィドの裔なるイエズス・キリストの御肉なり、また飲料には、朽ちざる愛なる御血を、望むなり。」
 シエナの聖カタリナは晝も夜も聖体拝領を望み焦がれていた。曙の光が射し初めると、聖堂に馳せつける。傷み弱った体も文字通り、その熱望に駆り立てられるのである。そして福者レイモンに屢々聖体拝領の望みを訴えるのであった。「神父様、私はひもじうございます。
どうぞ御慈悲で、私の靈魂に糧を頂かせて下さいませ。」
 また聖女マルガレータ・マリアも語っている。
「私の心は天主様を御愛し申したい望みで焼き尽くされるほどで、それが拝領と苦しみに対する飽くことのない熱望を與える。ある聖金曜日に、私は我が主を拝領したい望みに燃え、涙に暮れつゝ申し上げた。『愛すべきイエズス、我は御身を望む熱き思いに焼き尽くされんと欲す。今日御身を受くること能わざるにより、我御身の望みてやまざらん』と。やがて主は甘美なるご来臨を持って私を慰め給い、次の如く仰せられた。『我が娘よ、汝が望み、我が心いかに深く浸みいりしかは、若し今だ此の愛の秘蹟を定めざりしならば、今我を汝の糧となさんため、新たに定めんとする程なり、我は聖体拝領の望を、欣ぶものなれば、人の心かゝる望みを抱く度に、我も彼を我が許に引きよせんと愛もて眺むるなり』と。」
 今も聖櫃の中に在して、イエズスは、曾て神殿の廻廊より群衆に「立ちて呼ばわりつゝ、渇ける人あらば我が許に来りて飲め」(ヨハネ7・37)と曰うた如く、或いは、聖なる叡智の御勧めを繰り返して「總て我を望む者よ、我に来たれ、来たりて飽き食らえ」(集会24・26)と呼びかけ給うのである。
 故に我等も、ますます繁くますます熱く、この望みを奮い起こそう。我等の靈魂を常に聖体の方にふり向け、聖詩人の如く、「我口を開き、爾の御靈を望む」と叫びつゝ常に憧れと渇望の中に生きよう。聖なるものへのこの渇きこそ、神が預言者を通じて約し給うた最も貴き恩寵の一つにほかならない。「やがて日至りて、我饑餓を地に送らん。それはパンに乏しきに非ず水に渇くに非ず、神の御言の饑餓なり」(アモス8・2)
 我等の望みは、何処まで正当に押し及ぼしうるのであろうか。神の一致の最も秘奥の玄義をも渇望してもよいのであろうか。
 然り、我等の望みが謙遜と神の御旨への心からの服従の中に止まる限り、然りである。
 もちろん、神学の言う無償の恩寵(啓示、示現等)の異常な恩恵を望むごときは、愚かな傲慢に走り、最悪の幻覚の危険を招く事になろう。しかし、神と我等の靈魂との能う限り緊密な一致を望むのは、正當であり、成聖に適う事である。「願わしきは彼のその口もて我に口づけせんことこそ」(雅歌1・2)と雅歌の花嫁は歌う。しかして彼女は恩寵によって聖とせ
られ贖われた被造物の名に於いて語り、「ただ一つの靈となるまで主につく」(コリント前6・10)ことを憧れ求めるのである。
 かくも神性にして大胆極まりない願望を、何者がよく我等の靈魂の貧しい地に萌え出しめるであろうか。
 聖靈である。我等の靈魂を神へと向わしめられるのは聖靈である。「蓋し我等は何を求むべきかを知らざれども、聖靈自ら言うベからざる嘆きを、以て、我等の為に祈り給う。しかして我らにありて父よ父よと呼ばわり給うなり。」(ロマ8・26)。それ故、我等の願望を表しまた刺激する為には、聖靈の御扶助を乞い、その御靈感によって屢々神への渇望を表しめ給うた聖書の中の章句を藉りることは、一つのすぐれた方法である。
                              ☆                          
   鹿の泉を慕いもとむるごとく
  あゝ神よ、わが魂もおんみを慕い求むるなり
  わが魂は神を、活ける神をば渇きもとむ
  わが神よ、我おんみを尋ね求む
  水なく乾き荒める地にあるごとく
  わが魂は汝に渇き
  わが肉身は汝に焦れおとろうるなり  (詩篇、第四一と六二)
     (2) 愛の行為の反復 
 聖ヨハネは書いている「蓋し神は愛にて在す」(ヨハネ第1-4・8)と。イエズスは愛にて在す。とも言い得るであろう。さらに又、キリスト信者は愛なり、と附言してもよいであろう。
 拝すべき三位の御懐に於いて御言葉の御生命は御父を愛する事にあり、無量の愛によってその本源に遡り、受け給う總てを返し給うに在つた。
 地上に於いても、やはり愛がその御生命であった。御言は、御父への愛によって託身し給い、我等に御父を啓示して、彼に帰服しせしめんとし給うた。愛が御言を人となし、愛が十字架に釘つけたのである。その總ての玄義、總ての御業、すべての御苦しみの底を流れるものは、御父への愛にほかならない。
しかして御自らをパンとなし聖櫃の奥に籠り給うのも、またこの同じ愛に由るのである。ホスチアの探りえぬ沈黙のうちに在して、主は何をなし給うのであろうか、何よりも先ず、御父に愛を捧げ居給うのである。
 聖体拝領者は、イエズスに倣って生きんとする筈である。即ち先ず神を愛し奉るべきである。他の總てを含む第一の掟に要求される如く、心を盡し、精神を盡し、力を盡して、愛し奉るべきである。。もとよりか弱い人間性にとって、絶え間なく愛そのものゝ行為をなすことは不可能である。ただ聖寵に依り、その數を増加して、他の徳の行為を支配させ、我等の生活の上にますます緊密な深い影響をもたらしめるようになすことが出来る。
 一つの愛の行為を為すのはごくやさしい。心の一つの躍動を以て足りるのである。最もさゝやかな行為、ごくわずかな犠牲さえ、愛に変化し得る。「愛によってなされる總ての事は愛である。仕事も疲労も死も、愛によってそれに服する時、愛となる」とサレジオ聖フランシスコは言う。しかし又、ラコルデール靈父は「神への愛は魂の最高の行為であり、人間の為しえる傑作である」と教える。更に十字架の聖ヨハネも「純粋なる愛の最小の行為も他のすべての業を取り集めたよりも神の御目に貴しとされ、聖会にとつても一層有益である」と言っている。
 「神に対する愛ほど、世に眞實且つ實質的なものはない。この大いなる現實に比較すれば、他の總ては全くの幻影に過ぎない。他は總て無意味であり、夙く消え去るものである。愛の行為は一つの完成された業である。故にそのもたらす作用や結果は、他の總ての行為の結果作用よりも力強く重大である。死でさえも、重大性に於いて匹敵し得ぬであろう。しかも一つの愛の行為をなすのに何が必要であるか。心の視線は稲妻の如く、一瞬にして九重の雲を貫き得るのである。かゝる行為は、あらゆる數を超越した度數にまで倍加され得るし、一見最も気を奪うごとき用務の中に在っても、それは妨げられぬのである。用務に弱められぬばかりか、反復されるうちに却って新たな強度を加え、知られざる力を汲むのである。ともかく、それは何等の努力を要求せぬ上に、為すに当たつて我等の喜びとさえなるのである。」(フエーバー)
 「愛をあつく望む者は、やがて熱く愛するに至るであろう」とサレジオ聖フランシスコは断
言する。故に我等は常に愛を怠つてはならない。「あゝ、たとえ千の心を持とうとも、我が愛し奉る為にはなお足るまい」とは聖マルガレータ・マリアの嘆きである。聖パウロは「愛は掟の目的であるばかりでなく、また律法の完備である」(チモテオ前1・5、ロマ13・10)と教える。そのわけは、愛は神をして被造物に赴かしめた如く、被造物をして神に赴かしめ、その一致を成就せしめるからである。愛はこの両者を一と為す。彼等を相互のうちに投じ、しかして其処に止まらしめるのである。「愛に止まる者は神に止まり奉り、神も又之に止まり給う。」(ヨハネ前4・16) 
「最も重要なのは、霊魂が大いに愛に修練し、以て速やかに完成され、この世に止まる事なく面と面とを合わせて天主を見奉る域に速く到らんことである。」とは十字架の聖ヨハネの言である。
 彼は更に言う。「聖愛のたゆまざる修練は偉大なことである。完徳と愛の完成に達した靈
魂は、この世にあれ他の世にあれ、神の御顔を眺め奉らずに長く止まることはあり得ない。」
 我が神よ、我が愛よ、御身は全く我がもの、我は全く御身のものなり。願わくは我を愛のうちに開かしめ、御身を愛し、愛のうちに溶け入ることの如何に甘味なるかを心の奥に味わい知るを得しめ給え。
 願わくは愛にと捉えられ、その熱情の心奪う烈しさにより、我が身を超越するに至らんことを!
 愛の賛歌を歌わんかな!あゝ、愛しまつる御者よ、御身の光栄の高みにまで、つき従わん!我が魂、力を盡して御身を讃え、喜びと愛に絶え入らんことを!
 我をして己を超えて御身を愛し、御身の為にのみ己を愛し、御身の光のうちに悟る愛の掟の命ずる如く、御身を真に愛する總ての者を御身において愛せしめ給え。(イミタチオ・クリスチィ3・5)126

     (3) 見えざる神の派遣
 靈魂に限り無い望みを抱かせ、飽くことを知らぬ愛へと駆り立て得る一つの真理がある。
 最も秘奥の玄義の一つで、神学が「見えざる神の派遣」と名ずけるものがある。これは神の新たの溢出である。即ち御言が我等の知性に與え給う新たな光明であり、聖靈が我等の意志を満たしたもう増大する愛の作用である。これらの派遣は聖子と聖靈との永遠の発出の一つの寫しであり延長である。
 さて、一つの靈魂がその熱意と惜しみなき心を持つて神への愛に一段と進歩とげ、新たな恩寵に値するたびに、御父は彼に御言と聖靈を差遣わされ、それによって神との一致への新たな権利をもたらしめ給うのである。そして聖なる三位は分離され得ぬ故に、御父はおのずとそこに至り給う。靈魂はこれらの御訪れによって新たな生命の注入に満たされ、前よりも一層直接な、現実的な親密な交わりが固められるのである。
 この感ずべき玄義は、時を問わずいつでも行われ得る。愛の一つ一つの増進に応じて、聖三位の見えざるご訪問はなされる。たとえ瞬間毎にでも、靈魂が愛徳を増す一つの行為をなすならば、拝すべき聖三位はそのたびに到り給い、愛と光明の新たなる御恵をなみなみと彼に注ぎ給うのである。
 このような神秘的な上昇を辿る霊魂に、登り得ぬ高みがあるであろうか。
 あゝキリスト信者よ、「汝もし神の賜をしらば!」
  あゝ聖三位!いと高く寛仁にしていと恵み深き天主、
  聖父、聖子、聖靈、一なる神、我御身に希望し奉る。
  我を教え給え、導き給え、支え給え。
  あゝ聖父よ!限りなき御力によりて、我が記憶を御身のうちに固く留まらしめ、     聖にして神的なる思想もて之れを満たし給え。
  あゝ聖子よ!永遠の御叡智によりて我が悟性を照らし、御身の至上の真理と     我が卑しさを識るを得しめ給え。あゝ聖父と聖子の愛に在す聖靈よ!悟り難き     御仁慈によりて、我が意志を御身に移し入れ、御身の消えざる愛の火もてそを    燃えしめ給え。
    あゝ我が主、我が神よ、我が本源にして終極よ、きわめて純一にして静穏、き     わめて愛すべき本質よ、甘美と福楽の淵よ、我が魂の愛すべき光、至上の福い    よ、言い難き喜び大洋よ、一切の善の完き充満よ、我が神、我が總てよ、      我御身を有し奉る上は更に何かを要せん!
  御身は我が唯一不変の寶なり。
  我は御身のみを求むべきなり。
  我は御身のみを求め欲し奉る。
  主よ、我を御身の後に曳き給え。
  主よ、我叩く、我に開き給え。御身に哀願する孤児に開き給え。御身の神性の淵に  我を投じ給え。我が内に御身の至悦を有し得んため、御身と一つの靈たらしめ給え。                           (大聖アルベルト)

 

 

 

 


     四 聖体による一致の目的

                 Ⅰ イエズス・キリストによる養子
                Ⅱ 至聖三位の光榮

 

 

 

 


        


     1 イエズス・キリストによる養子
       (1)聖三位と我等の超自然的召命 

「祝すべきかな、我が主イエズス・キリストの御父……我等をば、愛のうちに聖にして汚れなき者たらしめんとして、世界開闢以前よりキリストによりて選び給えり。」(エフェゾ1・3-4)
 かく永遠から、神は我等に御心を配り給うた。御父は我等について一つの思考を持ち給い、それは同時に御意志であった。彼は我等各自の上に一つの言葉を発し給うた。この言葉は我等を創り、表現し、我等の現世と永世との生命を含み、我等のあるべきさま、我等の占むべき場所、我等の実現すべき完徳、我等の達すべき光栄を示す。この言葉を天の御父は、我等についての至上の御考えを表すことを望み給い、我等の超自然的召命を定め給うた時に発せられたのであつた。それは我等の存在の至上の法則、神的理論であつて、これを以て如何なる程度に我等が神の創造のご計画に参与すべきかを示し給うたのである。
 この御思考のほかには、御父は我等を愛による認識をもつて見知り給うわけではない。ただ我等がその至上命令的御意志の光明の中に動き、之れを実現しつゝ永遠の実在の神的秩序に入るに及んで、我等を顧慮し、聖寵を注ぎ、また御自らを與え給うのである。
 それ故、我等の根本的義務は次の一時に尽きる。即ち、天なる御父の御意志を成就し、我等の上に曰うた御言に従って生きることである。前もって、このみ言葉の含むすべてを、喜悦であれ苦悩であれ、一切を受諾し奉ること、次に、その御要求が我等の日々の生活に顕れ来るに応じて、愛を以て服し奉ることである。
 ところで此の神秘な御思考とは何であろう。この御言葉は何を語のであろうか?
 聖パウロは答えて言う。「蓋し神は豫知し給える人々を御子の狀に肖似らしめんと予定し給えり」(ロマ8・29)と。神の御意志は我等をキリストの玄義に参加せしめ給うことにある。我等の上に発し給う御言は、天の御父の光栄のため我等がイエズスを己のうちに再生すべき度合いと方法とを表示するものである。すなわち神は寵愛をもって我等をば、「イエズス・キリストによる己が子とならしめんことを予定し給い……それは我等に給いし栄光ある恩寵の誉れのため」(エフェゾ1・5-6)なのである。我等の超自然的召命とは、ほかでもない、
イエズスに一致し、イエズスの如く生き、イエズスに成ること、これである。
 肉となり給える御言は、神のご寵愛によつて予定されたすべての者が、再生し、顕現すべき唯一の普遍的典型である。イエズス・キリストこそは、俗人、聖職者、修道者、婚姻者、童貞者を問わず、すべての者が否応なく模倣すべく定められた模範であり、それなくしては恩寵の世界より除外されることゝなる。彼等の完徳と超自然的功徳の豊けさの度合いが、彼等のイエズスへの一致の度とその忠実な類似の度合いに正確に比例するであろう。「他の者によりては救霊の道あることなし」(使徒行錄4・12)と言われる所以である。
 自分はどの程度イエズスを再現すべきであろうか。永遠の御予定の玄妙なる玄義に関することである。しかし自分が主を再現し奉らねばならぬことは確かである。常にイエズスを眺め、模倣し、イエズスと成らねばならぬ。
 かゝる崇高な召命を、如何にすれば果たすことが出来るであろうか?
 聖寵と聖靈のご協力によつてである。聖靈は常に我等と共に留まり給い(ヨハネ14・16)御父の御旨の実行者となり、託身の御言の模型に基づいて、御父の立て給うた計画なる人間の神化の業の遂行者として働き給う。「おゝ造り主なる聖靈よ、御身は父なる神の御指なり。」(ヴェニ・クレアトール)書家や彫刻家が自ら描く理想を表現するために自分の手を用いる如く、天の御父はその御思想を表わし、その御言を録し、我等にその御姿を彫りつけるため、聖靈を用い給うのである。
 此の創造と成聖の働き手なる聖靈が我等になし給う最初の御業は、我等を神の御子の似姿に変貌せしめ、神の子たるに相応しい生活をなさしめることである。「何人によらず、神の靈に導かるゝ人は神の子なり。蓋し汝等の受けしは、更に懼れを懐く奴隷たるの靈にあらず、子とせらるゝ靈を受けしなり。我等がアッバ即ち父と呼ぶのは是が為なり。蓋し聖靈自ら我等の精神に、我等が神の子たることを証し給う」(ロマ8・14-16) 
 真理の靈として、彼は我等の靈魂に御父の永遠の御思考を照らしだし給う。我等にイエズスを啓示し給うことによつて、それをより明瞭に、より明確に、より心惹くものとなし給うた。「彼の真理の霊来たらん時、一切の真理を汝等に教え給わん……。汝等に我受けし恩寵と我が神性を更に知らしめて、彼は我に光栄あらしむべし。」(ヨハネ16・13-16)
 總てを成就し祝聖し給う御者として、聖靈は我等の靈魂に、イエズスにほかならぬかの御父の崇むべき御思想を録し続け給う。彼は是を固定せしめ、永続せしめ、我らが望むかぎり、消すべからざるものとなし給う。これこそ「主よ、なんじの御顔の光は我等に璽の如く捺されたり」とダヴィドの歌ったかの玄義である。天主の御顔、その光輝とその栄光とは、御言にほかならぬからである。
 次いで、聖靈は生命の靈、超自然的生命の発動者に在す故、御父の思想を業に転じ給う。即ち我等をキリストとの全き類似の実現へと押し進め給うのである。そして『我等が全き人の状態、キリストの全き聖寵の量に達するまで……我等の中にキリストの型造れるるまで」(ガラチア41・9)我等を愛し励まし給うのである。
 最後に、御自ら愛そのものに在す故に、聖靈は、聖三位と我等の間に愛の関係を確定し、一致への永続的傾向を置き給う。聖靈は聖三位を我等の方に傾かしめ、我等を聖三位に惹きよせ給うのである。聖霊は我等をイエズスへと惹きゆく不断の呼びかけ、活ける引力、抗し難き息吹である。それ故、かく聖靈によって実現される御父の御思考に靈魂が自己を任せ奉るに応じて、一致はより緊密に、より完全になる。そして遂には、聖父が聖子のうちに在し、御子が御父のうちに在す如く、靈魂はキリストの中にあり、キリストは靈魂の中に在すにいたり、かの聖晩餐の折の至上の御望みに応じて両者は「一つに全うせられる」のである。 
 こゝに至って、贖われ聖化された人間は天父の御前に臆せず進み出て「あゝ我が天主よ、我をみそなわし給え!我がうちに御身のキリストの御顔をみそなわし給え」(詩編83・10)と申し上げることが出来るのである。
                             ☆                             
 あゝ永遠なる聖三位よ!御身は底知れぬ大海にして、我そが中に沈むにつれて、御身を見出し、御身を見出すにつれ、ますます御身を求むるなり。御身につきては「我もはや足らえり」と言いうる者かって無し!
 永遠なる聖三位よ、靈魂は常に御身に焦がれ渇く故に、御身の深みに満ち足りつゝ、なおも御身を求めて止まず。御身の光明の中に居りつゝも、常に御身の光を見んと望みてや
まず。鹿の泉の水を慕い求める如く、我が魂も、肉身の暗き獄より出でて真理のうちに御身を見奉らんことを憧れ望むなり……。
 あゝ永遠なる神性よ!底なき大海よ!御自らを賜うより大いなる賜物を我に與え得給うや!御身は常に燃え、永久に消ゆることなき火に在す。御身は靈魂のすべての自愛の念を御自らのうちに焼き亡ぼし給う火に在し、なべて凍れる者を溶かし、且つ照らし給う火にて在す。我をして真理を識らしめ給いしも此の光によるなり。御身はまことに、よろずの光に超えたる光に在す……。
 御身はまた至上無限の善にて在す。よろずの善を超えたる善、至福の源なる善!究むべからざる善!量るべからざる善!よろずの美を超えたる美、よろずの智を超えたる智、否、叡智そのものに在す!御身、天使のパンよ、熱き愛に燃え給うあまり、御自らを人間に與え給いぬ。御身はあらゆる赤裸を蔽う衣、飢えたる者のを喜ばしむる甘美なる糧に在す。まことに御身は甘美にして、苦き影すらもち給わず。
 あゝ永遠なる聖三位よ、御身は我に大いなる完徳の道を示し給えり。是わが闇を去りて光のうちに御身に仕えまつらんが為、わがあやまちにより闇の中に御身に仕えまつりし悲惨の生を抛ちて、浄く聖なる生命の鏡とならん為なり。
 我に着せ給え、永遠なる聖三位よ、御自らもて我等に着せ給え。しかして我をして、眞の従順と、それもて我が魂を酔わしめ給いしいと聖なる信仰の光のうちに、この朽つべき世を過ごさしめ給え。        (シエナの聖カタリナ)

     (2) 聖体拝領と我等の超自然的召命
 聖体拝領は我等をして成聖と救靈予定の玄義のうちに入らしめる。聖体を拝領する時、このすべての玄義は我等に入り、我等に止まるのである。御父はその御思想を我等に通わし、御言を新たに傅え給う。聖靈はそれを我等に固定し給う。そして我等の熱心が神のご厚意によく副い奉るならば、各聖体拝領は、その都度、より親密な交わりを、信仰に照らされた我等の靈魂の奥深くに結ばしめ、聖靈によつて刻まれたイエズスの相似を更に深からしめるのである。140
「我等はかの靈に飲み飽かしめられたり」(コリント前12・13)と聖パウロは言う。実際聖体拝領は我等にイエズスの御肉を與えるだけではなく、同時にその聖なる靈も通わしめるのである。聖なる靈は清浄なる血の如く我らに差し入り、血が肉身になすが如き働きを、我等の靈魂になすのである。それは生命の根元である。イエズスの御人性を、御生涯の最初の日から最後の日に到るまで導き、その御思念御愛情を鼓吹された如く、聖靈は我等の指導者となり、我等の超自然的変化を、我等のうちに司り給うのである。イエズスと聖体拝領者には同じ生命の靈、同じ活動力の本源が存する。拝領者がその御勧めに従順であるならば、やがて完全な同化が成就されるであろう。何故なら、同じ聖寵は同じ諸徳を産み出すはずであるし、同じ靈は同じ行動を惹き起こすはずであるから。
 それ故イエズスとの類似に最高の域まで達した聖人たちは、イエズスと眞に一つとなり、唯一の心、唯一の魂に生きるようになるのである。彼等は總てをイエズスの如く見、イエズスの如く判じ、同じ望み、同じ意志、同じ愛を持つのである。「パウロの心はキリストの心なり」と聖ヨハネ・クリゾストモは言った。それは大使徒自らも宣言するところではないか。「そは我は活と雖ももはや我に非ず、キリストこそ我において生き給うなれ。」(ガラチア2・20)「キリストは我が魂に代り給う」と聖マカリオは言った。「我もはや魂を持たす、心を持たず、わが魂が心はイエズス・キリストそれなり」とヂェノアの聖カタリナも言っている。
 シエナの聖カタリナに於いては、この神秘的な変化は主の特異な御愛情を示す事情の下に行われた。福者レイモンは次のように語っている。「ある日、彼女は更に大いなる熱心を以て、かの預言者の祈りを『我が神よ、我に清き心をつくり、我が胸奥に正しき精神を新たになし給え』と繰り返し、己の意志と心とを取り去り給わんことを主に懇願していた。やがて永遠の天配が常の如く到り給い、忽ち彼女の左の脇を開き、その心臓を取って立ち去り給うたのを見た。そこで彼女は心臓を失ったまゝでいた。この示現の印象は極めて強く、感覚もそれを立證したところから、カタリナはその聴罪司祭に向かって、己が肉体はもはや心臓を持たぬと語った。…数日の後、主はその尊き御手に真紅に輝く一つの心臓を以て現われ給うた…。主は彼女に近づき、再び左の脇を披き、御手の心臓を差し入れて曰うた。『我が優しき娘よ、我さきの日に汝の心を取りし如く、今日我が心を汝に入るゝなリ。今よりこれに依りて汝常に生べし』」と。  
 同様の一節が聖マルガレータ・マリアの伝記にも見られる。「御聖体の祝日の八日内の金曜日のこと―と彼女は語っている―御聖体拝領の後に、我がイエズスは次の如く仰せられた。『我が娘よ、我は汝の魂に我が魂を代え、我が心と我が精神とを汝の心と精神に代えんとて来たれり。これ汝今より我によりてのみ生き、我が為にのみ生きん為なり。』この御恩寵は眞に大いなる結果を残し、もはや何者もわが魂の平和をいささかも擾すを得ず、わが心はわが天主を愛しまつるよりほかは何も為しえない如くに覚えました。」
 畢竟、聖体拝領の目的は此処につきる。即ち、心と心、靈魂と靈魂の合一である。
 この二つの物語はたしかに奇蹟に属する特異な事実を含んでいる。しかしこの外的事実を別にするならば、總ての聖体拝領は我等に同様の変化を生ぜせしめようとするものである。それは我等に固有の生命を失わしめ、キリストの御生命を以てそれに換えることを目的とする。「我聖父によりて活くる如く、我を食する人も亦我に由りて活きん」(ヨハネ6・58)と主御自ら御意圖を明かされた如くに。
 結局、御聖体拝領の目的は他のキリスト、神の他の子らをつくられることにほかならぬのである。                                         
                              ☆                          
 あゝ大能にして永遠に在す聖三位よ!いと甘美にしていと妙なる愛よ!かくも大いなる愛に誰か燃え立たざらん。如何なる心が御身のために焼きつくさるゝを拒みえん。
 あゝ聖愛の淵よ!御身かくまで被造物に愛着せらるゝ故に、彼等無くしては生き得給わざる如くにも見ゆるなり。しかも御身は我等の天主にまします!御身はいささかも我等を必要とし給わず。御身は不変に在せば我等の善は御身の偉大さに何をも加えざるなり。我等の悪も、至上永遠の善に在す御身に何の害も及ぼしえざるなり。去れば御身をかくも大いなる哀憐に引きまつるものは何ぞ。そは愛なり。御身は我等に何等の負債をも負い給わず、我等より何をも必要とし給わざれば。
 無限なる天主よ、小さな被造物なる我に御身を傾けまいらせし者は誰ぞ。
 あゝ愛の火よ、御身にほかならず。かつても今も常に愛のみ一人御身を駆り立て、被造 75
物への哀憐へと傾け、量り知れざる賜と恩寵もて満たすべく促しまつるなり。
 あゝ一切の善を超えたる善よ!御身ひとり至上の善にまします。御身は御独り子なる御言を我等に与えて、腐敗と暗黒との我等の生活に接しつゝ共に暮らしめ給えり。何の故にかばかりの賜ぞ、愛の故なり、その御身は我等の存在に先立って我等を愛し給いたればなり。
 あゝ永遠に偉大なる御者よ、偉大なる善よ、御身は卑しき者となり給えり。人間を大ならしめん為、御自ら小さき者となり給えり。あゝ我いずれの方に向わんも、御身の聖愛の淵と火を見出すのみ。 (シエナの聖カタリナ)

     Ⅱ 至聖聖三位の光栄   
               (1)創造の究極目的
 我等は更に、我等の超自然的召命への知識を押し進め、神が何故我等をイエズス・キリストに依る養子となすべく望み給うたかと考えることができる。
 たしかに、それはわれらの幸福のためである。無償なるとともに広大な神の愛は、我等を無から引出されただけでは飽き足らず、我等を幸福に、しかも前代未聞の賜を以て、神的生命と神性に参与せしめると言う至上の幸福に招かれるのである。
 しかしながら、被造物の幸福が、神の創造の御業の究極の目的となることは出来ない。この究極の目的は即ち神の諸徳の、特にその善性の光輝ある発現と、聖三位の全き光栄である。
 神は私たちの至福を授けることにより、御自らに光栄を帰すことを望ませられた。つまり私の幸福のうちに御自らの光栄を挙げ給うのである。
 結局、我等を養子となし給うのも、神御自身のため、その御光栄のためである。我等の神の子となることは、主への愛と賛美のうちになされるべきものである。「思し召す儘に万事を行い給う者の御旨によりて、我等はその光栄の誉れとならんため豫定されたり」(エフェゾ1・12)なんとなれば、神は神に在すが故に、万事を御自分のためになし給うからである。ありとあらゆるものは、我等の幸福そのものに至るまで、すべて天主に依存し、主を讃めたたうべ
きことは必然の法則である。主に光栄を帰すこと、これが存在の初めから被造物たる者の根元的な本質的な務めである。他のすべてを統率すべき務めである。これこそイエズスが、彼等にその飢え渇くことを望まれた片時も忽せになし得ぬ「義」(マテオ5・6)そのものである。
 それ故、まさにこれこそ聖なる御人性が地上に於いて果たし給うべく来たり給うたところの第一の御業、その御生涯に於いてまた御聖体においてなし給う主要な御働きである。キリストは我等を救わんがために来たり給うた。しかしそれ以上に、聖父を崇め讃えんが為に来たり給うたのである。主は我等を幸福ならしめんため来たり給うた。しかしとりわけ、世の創造以来天主の期待し給う宗教上の義務を果さんが為に来たり給うたのでる。その内的御生活は、一つの絶え間のない拝禮であった。労働し道を説き、多くの奇蹟を行ない悩み苦しみ、遂に死し給うたのであった。すべて聖父に光栄を帰し給う為であった。まことに聖父に光栄あらしめんためんとの御望みに燃え居給うたのであり、その内なる火に焼き尽くされ、愛と義に飢え渇く御魂は片時もくつろぎを持ち給わなかったのである。
「我には受くべき洗礼あり、そが成し遂げらるゝまで、我が思いせまれること如何ばかりぞや」(ルカ12・50)とイエズスは曰うた。この洗禮とは、神に創造の光栄を還し奉るべき、御血の流出のことであった。
「我苦しみを受くる前にこの過越の食事を汝等と共にせん事を切に望めり」(ルカ22・15)。この過越の食事とは、ホスチアの奉献、即ち光栄の燔祭としての御自らの奉献にほかならなかった。
 又、息絶え給うにあたって「我渇く」(ヨハネ19・28)と仰せられた。この渇きとは、聖父に愛を献げんとの聖心の言うベからざる切なるお望みのことであった。カルワリオの御犠牲もなお御渇きを鎮めるにたらず、かくて更に御血の流出をあらたにし、普くし、世々に永続せしめる為に、聖体の秘蹟を定め給うたのであった。
 その御生活及び御死去は、他の總てを統率すべき、一つの目的を持っていた。即ち先ず聖父に最も完全な崇敬を奉ることであり、次に、御自らの魂と愛の犠牲に一致し、共に聖父に光栄を帰し、天父の求め給う靈と實とを以てする眞の礼拝者(ヨハネ4・23)となる靈魂を世に起こす事であった。いわば御自ら禮拝し、しかして禮拝者をつくることであった。
 祝すべき哉、我主イエズス・キリストの神及び父、こはキリストに於て諸々の靈的祝福を以て我等を天より祝し給い、御前に於て聖にして汚れなき者たらしめんとて、寵愛を以て、世界開闢以前よりキリストによりて選み給い、思召のまにまに、イエズス・キリストをもつて己が子とならしめん事を豫定し給いたればなり。是れ最愛なる御子に於て我等に賜いし栄光ある恩寵の譽の爲なり…
我等はキリストに於て選まれ、思召すまゝに萬事を行い給うものゝ量りに從いて豫定せられしが、これ先んじてキリストを希望せし我等がその光榮の譽とならん爲なり……。
我之が為に我主イエズス・キリストの父の御前に跪き、……汝等の光栄の富に從い、その靈により、能力を以て内面の人として堅固にせられんこと、又信仰によりてキリストの汝等に宿り給わんことを希い奉る。これ汝等は愛に根ざし、且つ基きて、凡ての聖徒と共に、廣さ、長さ、高さ、深さの如何を知り、又一切の知識を超絶せるキリストの寵愛を知ることを得て、すべて神に充滿てるものに汝等の滿たされん爲なり。
願わくは我等の中に働ける能力によりて、我等の願う所、又知る所を超えて、尚豊かに万事を為し得給える者に、教會及びイエズス・キリストに於て、永遠の世に至るまで光榮あらんことを! アーメン!
(聖パウロ・エフェゾ書一ノ三十六、一二ー二、三ノ一四十二一)
 
      (2)唯一の典礼  
 之を要するに、キリストは我等のうちにあって、一つの賛美の業を、一つの典礼の業を成就する為に来たり給うたのである。
 そして主はそれを今も猶果し居給う。何故ならば、託身の御言として、イエズスは司祭、「我等が宣言する信仰の使徒に在し大司祭に在す」(へブレオ3・2)からである。
 主はそれを永遠に果たし給うであろう。何故ならば司祭職は主の根本的な御状態であつて「不休の司祭職を有し給う」(へブレオ7・2)とある如く、それは主において最も根底的なものだからで在る。また聖父も彼に曰うた「汝はとこしえに司祭たり」(詩編109・4)と。
 それ故、我等は主が、天に於いても地に於いても唯一の典礼を司り給うのを見る。聖ヨハネは、黙示録の最も崇高な示現の一つのうちで、我等の大司祭が天主の在す玉座のそのうちにあつて、贖われた被造物の眞中に、選ばれた者等の集まりの中で、司祭職を執り行わせらるゝ様を示している。七つの形有する靈が彼の上に宿り、その聖なる執行に靈感を送る。彼は犠牲奉献者として立ち居給う。また彼は普遍の犠牲として捧げられ給う。しかして彼は「曾て在し、今も在し、常に在す御者に」光栄を帰し給う。やがて天のあらゆる者は羔に加わり、彼が自らを奉献し給う御者を讃め頌えるのである。「主にて在す我等の神よ、主こそ光栄と尊崇と権力とを受け給うべければなり。そは御自ら万物を創造した給いたればなり ……聖なる哉、 聖なる哉、 聖なる哉、全能の神にて在す主よ……」彼等は拜禮し、 御前に平伏し、 己が冠を玉座の前に投じつ、自らの勝利と光榮はひとえに主に據るものなることを證し奉るのである。
 しかし又、選民達は羔に目を轉じ、その受け給うべき賛美を献げげ奉るのである。その司祭職を執り行わせらるゝ間、彼等は御前に平伏し、聲を合せてすべて贖われし者の新しき讃美歌をうたう。「屠られ給いし羔は、權威と神性と、叡智と能力と、尊貴と光栄と祝福とを受くるに堪え給うものなり。」(黙示録、四章と五章)
 これが、万有普遍の大司祭イエズスの統率のもとに、「聖靈を以て羔の己が穢なき身を神に 獻げ給いし」(へブレオ9・14)その聖靈の靈感のもとに、絶えずその光輝の展開される、天に於ける典體の大観である。
 ところで、我等の祭壇上に行われるのも、全く之と同一の典禮にほかならない。即ち同じ司祭職、同じ司祭、同じ生贄、同じ目的がそこにある。た 外形が變るのみである。つまり凱旋の教會は至幅直觀のうちに、犠牲奉獻を行うが、戰いの教會は信仰の中に行うのである。しかし典禮は唯一つである。聖化され淨められた被造物から感嘆すべき一の奏楽が時を問わずたちのぼって、全能なる御者の王座に至り、自らを贄とし給うた羔によつて彼に光榮を帰し、讃めたゝえ祝しまつるのである。無數の贖われた者の數知れぬ聲は、天と地のあらゆる果から湧きのぼる。しかもこの總ての聲はたゞ一つの合唱をなし、唯一の讃美をうたい、唯一の典禮を行うのである。
 こゝにイエズスがカルワリオにて御身を犠牲となし給い、聖体によつてその御犠牲を永續 的たらしめた所以がある。即ち永遠にわたり神に光栄の讃美を昇らしめんが為にほかならない。

 聖体拝領の究極の目的も又こゝにある。
 神の玉座の御前と祭壇の上に於いて全く同一に展開されるこの典禮を、イエズスは聖体拝領者の靈魂内に於ても行わしめんと望み給うのである。主は我らに至つて、御自ら長として大司祭として主宰し給い、この讚美の大いなる業のうちに我らをも入らしめ給う。「我は最高の犠牲奉献者として汝に來れり」と主はある日聖マルガレータ・マリアに宣うた。
  洗禮を受けた者は一つの祝聖された神殿であり、典禮的奉獻をなす一つの場所である。「蓋し神殿は聖にして汝等は即ち其れなり。」(コリント前書3・17) この神殿の内に、犠牲を献げまつる對象たる全能の天主、拝すべき聖三位が在すのである。「我等彼に至りてその内に住まん。」(ヨハネ14・23) そして聖体拝領は其處に生贄をもたらす。屠られし羔は再び來り給い、受けまつる靈魂の犠牲をもとに加えて、御自らを 獻げ給うのである。即ち我等る「その肉身を以て、活ける聖なる御意に適える犠牲(ホスチア)」とならんことを望み給う故である。「キリスト信者の靈魂は、昼夜を分たず犠牲の献げられる固定祭壇である」とオリゲネスは言つている。その犠牲は一時的ではなく永續的でなければならない。何故ならば屠られし羔は秘蹟の形色が消滅した後も、御自ら約束し給うた如く、我等のうちに、止まり給うからである。それは、我等が「彼によって、絶えず賛美の祭、即ち御名を稱うる唇の果を神に獻げん」(ヘブレオ13・15)ためである。
 かくして聖体拝領は靈魂に、自己の聖所に於いて、凱旋の教会と戦闘の教會とがたえず主に獻げまつる同じ犠牲を行うを得しめるのである。其処に於いて同じ生贄が同じ神への同じ賛美のために自らを奉獻し給うからである。
 其処に不足するものは何もない。かの聖ヨハネの示現に於ける琴の妙なる調や薫香までも具わっている。即ちその霊魂の祈りは犠牲奉獻をめぐって芳しき香の如くにたちのぼり「香、没薬さまざまの物に身をくゆらせ、煙のはしらのごとくぞ、配はのぼりきたる」(雅歌3・6)と天主に嘉せられるのである。
 琴の音は、聖靈の息吹のもとに、その時の心に群がり起る種々の想い、あらゆる望み、愛の行為などの渾然たる諧調である。肉身と靈魂のあらゆる能力が堅琴の絃の如く痛悔と純潔との音に調べ合される時、その樂音は、かの天の選民の新しき讃美歌の如く崇高なものとなるのである。「かゝる時――と天の聖父はシェナの聖カタリナに曰う―この靈魂は賢慮の手もてすべての絃を調べ、わが名とわが光榮の誉れのために聖き音をたつる樂器を奏でつゝ、こゝろろよき賛歌をうたう。との調音は靈魂の能力なる太き絃、肉身の感覺なる細き絃より成る。わが聖者等はすべて已が靈魂にかゝる調音を具えたり。そを先ず奏でしは、わが至愛なる御言にして、かれは汝等が人性を採りて神性にあわせ、人の子等の心を奪う妙なる樂を十字架上に奏でしなり。」
 かくて天國に、祭壇の上に、霊魂のうちに、同じ永遠の典禮が執り行われるのである。
 この典禮が我等のうちに進展するにつれて、それを行う者の成聖もまたすゝむ。霊魂が、全き愛德の土臺に立ち、智と愛とを以て羔の犠牲に一致し、その内なる禮拜を絶えず執り行い、何によつてもその讚美の業から心を紛らされぬまでに至つた時、この靈魂は地上に於ける完德に行き着き得たのである。かれは、福者等が永遠の直親のうちに在る如く、信仰の陰に安住し、その生活は、大聖アルベルトの言う如く、「天國の生活の序曲及び開始」となるのである。
                              ☆                          
愛と智と活ける神性の、永遠の光輝ておん内懐に輝きいます聖三位よ!
 あゝ聖父よ、 御本性をなす大能の唯一の泉よ!御身において叡智は本質を成し、仁慈は絶えず湧きいで、聖愛は火のごとく燃え、聖德はすべてのもの上に擴がり行かんとし、慈愛は創り給いしものみなの上に行きわたらんとす。御身に讃美と榮譽と光榮あれ! 御身に感謝と大能と光あれ!これぞ謝恩の念にあふるゝわが心の希望なる。
 あゝ御言よ、リバノンの山のいと高き杉の樹にして、至上の御稜威るて神性の枝を熾天使のうえにまで翳したもう。御身は、この卑賤の谷底にまで至り、まずしきヒソポの一莖を喜びもとめ給いて、密に結びて御身に併せ、限りなき愛のうちに浄配となし給う。
あゝ聖靈よ、愛なる神、愛もて聖三位を結ぶ繋よ、御身の大能と魅力により、茨のうちなる 薔薇のごと、地上に咲き出でし聖き貞潔のうちに在して、人の子等のうちにやすらぎ悦びたもう。
  聖靈よ!愛よ! 愛よ!われに告げたまえ、かの甘美しき住居に導くは如何なる道ぞ。渇ける心をうるおす天の露の豊けきかの野に向う、生命の徑はいずこにありや。おゝ愛よ、生命と真理に導くかゝる徑は御身のみひとり知りたもう。
 聖三位の聖きペルソナを至悦に滿てる結合のなさるゝは御身においてなり。あゝ聖靈よ、御身によりてぞ我等にいと貴き賜物は流れ來りぬ。御身よりぞ、生命の果をむすぶべきゆたけき種子は出で、御身よりぞ、神のうちにのみ汲まるゝ妙に甘しき密は流るなり。御身によってこそ、神の祝福の實りゆたけき水、我等のほとりにはかくも稀にかくる貴き靈の賜物は、ながれくだるなり。
 おゝ神の御子よ!愛よ! 愛よ!わが為に御身に行くべき道を備えたまえ。美しき愛の徑をそなえたまえ。淨き愛の情に曳かれ、今よりはわれ御身につき從いたてまつらん。御身の赴き給うは何處にてもあれ――かのいと高きところ、神性の至上の尊厳もて統べ治めたもう聖所までも――つねに豊けき御優しみの實を撒き、焼くばかりなる聖き愛の焔にもえ給いつゝ、雪の白妙の衣まばゆき童貞女の千萬と群れいて、悦びに酔いつゝ永遠の婚姻の雅歌を高らかにうたえるを、みちびき居たもうその宮居まで――われ御身に從いまつらん。その時まで、あゝ愛なるイエズスよ、われをばこの惨めさの谷において御身の愛の御陰に守りたまえ。やがてこの永き流謫の終らん日には、もろもろの汚れを免れしめて我を導き、御身の聖所に入らしめたまえ。しかして我をもかの清き童貞者の群に加え給え。かくて我、御身の聖き御慈愛の泉に、渇きをいやさん! かくてわれ、御身のいと甘美なる愛に、楽しみ飽かされん!
 アーメン!アーメン! これぞなべての者の叫びたれかし!
                        (聖ヂェルトルーデス)                             

 

 

 

 

 

 

 
                              Nihil obstat
                   Kyoto, die 18 Aprilis 1956
                     Franciscus Maruyama
                        Cens. Lib.


                            Imprimatur
                    Kyoto, die 18 Aprilis 1956

                    +Paulus Y. Furuya
                      Episcopus Kyotoensis


                昭和31年6月10日 印刷
                昭和31年6月15日  発行
                           聖体より三位一体へ
                                        定価160円
                           著 者 ベ ル ナ ル ド
                           訳 者 宮 本 さ え 子
                           発行者  パウロ・エグリ
                           印刷社 橋 本 岩 太 郎

              京都市上京区河原町通広小路梶井町461
             発 行 所      ヴェリタス書院
                                  振替京都14125番
                                  電話上 ③3251番