聖ピオ十世公教要理詳解
     カトリックの教えとその主な部分
                    護教の盾より

使徒信経の第四箇条
第四箇条「ボンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架につけられ死して葬られた」では何を教えていますか。
第四箇条では、イエズス・キリストがその尊い御血で世の罪をあがなうため、ポンシオ・ピラトの管下で苦しみを受け、十字架につけられ、死去され、葬られたことを教えています。
「苦しみ」とは何を意味しますか。
「苦しみ」とは、イエズス・キリストが御受難において体験されたもろもろの苦痛を意味します。
イエズス・キリストが死去されたのは、神としてですか、それとも人としてですか。
イエズス・キリストは人として死去されました。神としては、苦しむことも死ぬこともないからです。
十字架の責めはどんなものでしたか。
十字架の責めは、あらゆる責苦の中で最も残酷で屈辱にみちたものでした。
だれが、イエズス・キリストを十字架の刑に処すよう命じましたか。
イエズス・キリストを十字架の刑に処すよう命じたのは、ユダヤ地方の総督ポンシオ・ピラトでした。ピラトは、救い主イエズス・キリストの無罪を認めながら、卑怯にも、イエルザレムの人々の脅しに折れたのです。
イエズス・キリストは、お望みになれば、ユダヤ人やピラトの手から逃れることができませんでしたか。
イエズス・キリストはユダヤ人やピラトの手から逃れようと思えばできました。しかし、御父の御旨に従い私たちを救うために、すすんで敵の前に姿を現わし、捕らえられ、苦しみ、死ぬ運命に御自分をゆだねられたのでした。
イエズス・キリストは、どこで十字架につけられましたか。
イエズス・キリストは、カルワリオの丘で、十字架につけられました。
イエズス・キリストは十字架上で何をされましたか。
イエズス・キリストは、十字架上で、敵のために赦しを乞い願い、聖母マリアを弟子ヨハネに母として与えヨハネを通して私たちにも聖マリアを母としてお与えになりました。さらに、御自分の死を犠牲としてささげ、神に対する人間の罪のあがないを成就されました。
私たちの罪をあがなうためには、天使をおつかわしになるだけで充分ではなかったのですか。
私たちの罪を購うために天使をおつかわしになるだけでは充分ではなかったのです。それは、人間が罪によって神に加えた侮辱は、ある意味で無限ですから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方が必要だったのです。
神の正義にふさわしいつぐないをするために、イエズス・キリストは神であると同時に人間である必要がありましたか。
苦しみ死去するためにイエズス・キリストは人間でなくてはならず、この苦しみが無限の価値を有するためには同時に神でなければなりませんでした。
なぜ、イエズス・キリストの功徳が無限の価値あるものでなければなりませんか。
人間が罪によって侮辱を与えた神は無限に偉大を御方ですから、イエズス・キリストの功徳も無限の価値あるものでなければならなかったのです。
イエズスにはあれほどひどい苦しみを受ける必要があったのですか。
イエズスには必らずしもあれほどひどい苦しみを受ける必要はなかったのです。イエズスの行ないはすべて無限の価値を有するものですから、わずかな苦しみだけでも私たちの罪をあがなうには充分であったのです。
では、なぜイエズスはそのような苦しみを受けられたのですか。
イエズスがそのような苦しみを受けられたのは、神の正義に対してよりゆたかなつぐないを望まれ、人間には、神の愛をさらに印象づけ、徹底的に罪を忌みきらう気持を植えつけようとされたからです。
イエズスの御死去に際して異変が起こりましたか。
イエズスが死去されると、太陽は暗み、地はふるえ、墓が開き、多くの死者がよみがえりました。
イエズスの御遺体は、どこに葬られましたか。
イエズスの御遺体は、十字架にかけられた所の近くにあった、丘の岩に堀った新しい墓に葬られました。
イエズス・キリストが死去された時、その神性は肉体と霊魂から離れましたか。
イエズス・キリストが死去された時、その神性は肉体からも霊魂からも離れず、霊魂だけが肉体から離れました。
イエズス・キリストは誰のために死去されましたか。
イエズス・キリストは全ての人間のために死去され、すべての人間の罪をあがなわれました。
イエズス・キリストは全人類のために死去されたのに、なぜある人は救われない可能性があるのですか。
イエズス・キリストは全人類のために死去されましたが、イエズス・キリストを認めない者、掟を守らない者、また、人のために残してくださった聖性に達する手段を利用しない者がいますから、ある人は救われないという可能性があるのです。
人が救われるためには、イエズス・キリストが死去されたことだけで充分ですか。
人が救われるためにイエズス・キリストの御死去だけでは充分でなく、私たち一人一人が主の御受難と御死去のもたらす恵みを正しく受け入れねばなりません。この恵みは特に秘跡を通して受けます。しかし多くの人は秘跡も受けず、受けても正しい受け方をしないので、主の御死去もその人たちには無意味なものとなるのです。

 


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使徒信経の第三箇条
聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれた」という第三箇条は何を教えますか。
使徒信経の第三箇条は、神の御ひとり子が、聖霊の御力によって、処女マリアの清らかな御胎内で、人間の体と霊魂をおとりになり、お生まれになったことを教えます。
御父と御子もイエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造に参与されましたか。
イエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造には、神の三つのペルソナが一緒に参与されました。
なぜ「聖霊によりて宿り」とだけ言いますか。
神の御子の御託身は、善性と愛の働きの結果ですが、これは聖霊に帰せられますから、「聖霊によりて」とだけ言うのです。
神の御子は人となられた結果、神であることをおやめになりましたか。
神の御子は人となられても、神であることに変わりはありませんでした。
とすると、イエズス・キリストは、神であると同時に人であるわけですか。
人となられた神の御子、イエズス・キリストは神であると同時に人です。すなわち、真の神、真の人なのです。
そうすると、イエズス・キリストは二つの本性を持っておられるのですか。
神であると同時に人であるイエズス・キリストは、人性と神性の両方を持っておられます。
同じように、イエズス・キリストには神としてのペルソナと人間としてのペルソナとがあるのですか。
人となられた御子には、たった一つのペルソナ、すなわち神としてのペルソナしかありません。
イエズス・キリストには、いくつの意志がありますか。
イエズス・キリストには、神の意志と人間の意志との二つがあります。
イエズス・キリストには自由意志がありましたか。
イエズス・キリストには自由意志がありました。しかし、悪をおこなうことは出来ませんでした。それは、悪をおこなうことは完全な自由ではなく、自由の欠陥を意味するからです。
神の御子と聖母マリアの御子は、同じひとつのペルソナですか。
神の御子と聖母マリアの御子は同じひとつのペルソナです。つまり、真の神であり、真の人であるイエズス・キリストです。
童貞マリアは、神の御母ですか。
童貞マリアは、真の神であるイエズス・キリストの御母ですから、神の御母です。
どのようにして、聖マリアはイエズス・キリストの御母となられましたか。
聖マリアは聖霊の働きと恵みとによってイエズス・キリストの御母となられました。
聖マリアが終生処女であったことを信じるべきですか。
聖マリアが終生処女であったことを信じるべきです。聖母は、童貞のなかの童貞と呼ばれています。
聖母マリアがからだと霊魂と共に天国におられることを信じなければなりませんか。
聖母マリアがこの世の生活を終えたあとからだと霊魂と共に天国にあげられたことが、一九五〇年十一月一日より信仰箇条と定められました。聖マリアの受けたこの栄誉を「聖母マリアの被昇天」と呼んでいます。

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  使徒信経の第一箇条
父なる神と創造
「われは天地の創造主、全能の父なる天主を信ず」という第一箇条は何を教えていますか。
使徒信経の第一箇条は、神は唯一、全能で、天地万物をお造りになったことを教えています。
どのようにして神の存在を知ることができますか。
神の存在は、理性の働き、すなわち推理によって知ることができるだけでなく、信仰によって確認することができます。
なぜ神は父であると言われるのですか。
神が父であると言われるのは次の理由によります。
1.神がお生みになった三位一体の第二のペルソナである御子の父であるから、
2.神御自身がお造りになり、保ち、つかさどっておられる人間の父であるから、
そして最後に、
3.恩恵によりすべての良い信者の父であるからです。
それゆえ、信者は神の養子と呼ばれます。
※ペルソナとは、知恵と自由意志を備えて独立しているものです。
なぜ「御父」は三位一体の第一のペルソナですか。
「御父」は他のペルソナから出る御方ではなく、御子と聖霊との源ですから、三位一体の第一のペルソナなのです。
「全能」とはどんなことですか。
「全能」とは、神がお望みになることでおできにならないことはないという意味です。
神は罪を犯すことも、死ぬこともないのになぜどんなことでもおできになると言うのですか。
罪を犯すことや死ぬことは能力の顕われではなく、その欠如であって、全く完全な神には見出し得ないものですから、罪を犯すことや死ぬことがなくても、神はどんなことでもおできになると言うのです。
「天地の創造主」とはどういうことですか。
「創造する」とは、「無」から有を生じさせることです。神は無から天地万物を全てお造りになりましたから、天地の創造主と言います。
世界は「御父」だけの創造になるものですか。
世界は三位一体の三つのペルソナによって造られました。三位一体の一つのペルソナが被造物に対してお働きかけになるときは、他の二つのペルソナもひとしく同じ働きをなさるのです。
しかし、なぜ天地の創造が特に「御父」に帰せられるのですか。
神の三つのペルソナはいずれも全能、全知、全善ですが、全能は御父の、全知は御子の、そして全善は聖霊の特性とされていますから、神の全能の顕われである創造は特に「御父」に帰せられています。
神は世界とお造りになったもの全てを主宰しておられますか。
神は無限の善性と知性によって世界とお造りになった全てのものを保ち、かつ主宰しておられます。そして神が望み、お許しにならない限り何事も起こりません。
なぜ、「神が望み、お許しにならない限り何事も起こらない」と言うのですか。
神がお望みになり、お命じになることもあり、また、たとえば罪のように妨げずにお許しになることもありますから、「神が望み、お許しにならない限り何事も起こらない」と言います。
なぜ神は、罪が存在することを許されるのですか。
人間が神に与えられた自由を濫用しても、神はそこから善を引き出し、御自分の慈悲や正義をますますあらわすことがおできになるので、神は罪の存在をお許しになるのです。

天使について
神のお造りになったものの中で最も高貴な被造物は何ですか。
神がお造りになったものの中で最も高貴な被造物は「天使」です。
天使とは何ですか。
天使とは知性を備えた純粋な霊です。
神は何のために天使をお造りになりましたか。
神が天使をお造りになったのは、天使が神を崇拝し、神に仕え、永遠の幸福にあずかるためでした。
天使はどんな姿・形をしていますか。
天使は人間の感覚でとらえることのできる姿・形を持っていません。天使は純粋な霊ですから、体に結ばれていなくても存在できるからです。
それでは、なぜ天使に姿・形を与えてあらわすのですか。
天使に姿・形を与えてあらわすのは、① 私たちの想像力を補うため、② また、聖書にあるように、何度もこのような姿・形をして人間の前に姿を見せたからです。
天使はみな神に忠実でしたか。
天使がみな神に忠実であったわけではありません。それどころか、ある天使は高慢心から神と同等になろうとし、神から独立しようとしました。この罪によって、これらの天使たちは永久に天国から追放され地獄に落ちてしまいました。
天国から永久に追放され地獄に落ちた天使は何と呼ばれますか。
天国から永久に追放され地獄に落ちた天使は悪魔と呼ばれ、その首領はサタンあるいはルチフェルと呼ばれます。
悪魔は人に害を与えますか。
悪魔は神のお許しがあれば、人の霊魂とからだに大きな害を与えることができます。特に人を罪におとし入れようと誘惑するのです。
なぜ悪に誘うのですか。
悪魔は人をねたみ、人間が永久にほろびることを望んでいます。また神御自身と人間に反映されている神の似姿を憎んで、人を悪に誘うのです。
神はなぜ誘惑をお許しになりますか。
神が誘惑をお許しになるのは、私たちが神の恩恵に助けられ、誘惑にうち勝ち、諸徳を実践して、天国に入るのにふさわしい人間に成長するためです。
どうすれば誘惑にうち勝つことができますか。
警戒し、祈りと犠牲を行なうことによって、誘惑にうち勝つことができます。
神に忠実に従った天使のことをなんと言いますか。
神に忠実に従った天使のことを、善い天使、主の御使い、または単に天使と言います。
神に忠実に従った天使はどうなりましたか。
神に忠実に従った天使は、さらに恩恵にかためられ、常に神を直接あおぎ見て、永遠に神を愛し、賛美しています。
神は天使を使者としてお使いになりますか。
神は天使を御自分の使者としてお使いになりますが、特に私たちの守護の天使としてお送りになります。
「守護の天使」に特に祈るべきですか。
「守護の天使」には特に祈り、敬い、助力を乞い、その勧めに従い、保護に感謝しなければなりません。

人間について
神が地上に置かれたもののうちもっとも貴い被造物は何ですか。
神が地上に置かれたものの内最も貴い被造物は人間です。
人とはどういうものですか。
人とは、霊魂とからだとから成る、理性を備えた被造物のことです。
霊魂とは何ですか。
霊魂とは、知性と意志とをもち、神を知り永遠に所有することのできる霊です。それゆえ霊魂は人の最も尊い部分です。
霊魂を見たりふれたりすることができますか。
霊魂は霊ですから、見たり、ふれたりはできません。
人の霊魂はからだと共になくなりますか。
人の霊魂は絶対になくなりません。信仰によっても理性によっても霊魂の不滅を証明することができます。
人は、自由に行動することができますか。
人は、自由に行動することができます。だれでも、あることをすることも、しないでおくこともできると感じます。また、あることのかわりに別のことをすることができると思っています。
例をあげて人間の自由について説明してください。
人は、わざと嘘をつく時、心の内で嘘をつかずに黙っていることもできたし、真実を言うこともできたと気づきます。
なぜ人間は神の似姿、神にかたどられたものであると言われますか。
人間の霊魂は霊的、理性的なもので、その働きは自由で、神を知り、神を愛し、永遠の幸福をたのしむことができます。しかし、このような特長は、主の無限の偉大さの反映ですから、人間は、神の似姿、神にかたどられたものと言われるのです。
神は人祖であるアダムとエヴアをどのような状態に置かれましたか。
神はアダムとエヴァを無罪の状態、恩恵に満ちた状態に置かれましたが、まもなく人祖は罪を犯してこの状態から堕落してしまいました。
主は人祖に無罪の状態と成聖の恩恵のほかに特別のたまものをお与えになりましたか。
主は無罪の状態と成聖の恩恵のほかにも人祖とその子孫に特別のたまもの、すなわち「完全性」、つまり感覚を理性に完全に従わせること、「不死性」、またあらゆる苦痛やみじめさからの「免除性」、そして人祖の状態にふさわしい「知性」をお与えになりました。
アダムはどんな罪を犯しましたか。
アダムは高慢と重大な不従順の罪を犯しました。
アダムとエヴアはどんな罰を受けましたか。
アダムとエヴァは、神の恩恵と天国に入る権利を失い、楽園から追放され、死も苦しみも免れ得ないものになりました。
アダムとエヴアが罪を犯さなかったならば、死をまぬがれていたでしょうか。
アダムとエヴァが罪を犯さなかったならば、この世で幸福に暮したのち、死ぬこともなく神の手によって永遠の生命に入ることができたでしょう。
このような賜物は本来人間に備わったものでしたか。
このような賜物は本来人間に備わったものではなく、神が全く無償でお与えになった超自然的なものです。したがって、アダムが神の掟に背いたとき、神がアダムとその子孫からこれらの賜物を取り去られても不正なことではありませんでした。
この罪はアダムだけのものでしたか。
この罪はアダムだけのものではなく、私たちの罪ともなりました。アダムは人阻として罪を犯したので彼自身が自発的に犯した罪であってもすべての子孫に繁殖によって伝わりました。したがってすべての人は原罪をもって生まれます。
どうして原罪はすべての人間に伝わりますか。
神はアダムが従順であることを条件として、アダムを通して人類に成聖の恩恵と他の超自然のたまものをお与えになりました。しかし全人類の頭であり父であるアダムが神に背いた結果、人間の本性が神に反抗するようになりました。それで神の恩恵とその他のたまものが剥奪され、神に反抗する態度をとったままの人間の本性がアダムの子孫みなに伝えられるのです。
原罪の及ぼした害は何ですか。
原罪によって、人は恩恵を失い、知恵が暗み、心は悪に傾くようになり、この世のさまぎまな災いに苦しみ、死も免れなくなりました。
人はみな原罪をもっていますか。
聖母マリア以外、人はみな原罪をもっています。救い主の功徳を予見なさった神の特別の御計らいによって、聖母マリアは原罪を免れました。
アダムの罪ののち、人は救いを得ることができましたか。
アダムの罪の後、神が慈悲をお恵みにならない限り、人は救いを得ることはできませんでした。
神が人類にお恵みになった御慈悲とは何ですか。
神が人類にお恵みになった御慈悲とは、アダムに救い主の到来を約束されたこと、そして時が満ちると、悪魔と罪の奴隷となった人間を救うために救い主をおつかわしになったことです。
約束の救い主とはどなたですか。
使徒信経の第二箇条にある通り、約束の救い主とはイエズス・キリストのことです。

 

 

 

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     カトリックの教えとその主な部分
                    護教の盾より
(初めの数節)
 あなたはカトリック信者ですか。
そうです。私は神の恩恵によりカトリック信者です。
 なぜ「神の恩恵により」と言いますか。
カトリック信者であることは、神が全く無償で与えてくださった賜物のおかげですから、「神の恩恵により」と言います。
 本当のカトリック信者とはどんな人ですか。
本当のカトリック信者とは、洗礼を受け、カトリックの教えを信じかつ認め教会の正しい牧者に従う人です。
 カトリックの教えとは何ですか。
カトリックの教えとは救いの道を示すために、主イエズス・キリストがお教えになった事がらです。
イエズス・キリストがお教えになった教理を学ばなければなりませんか。
イエズス・キリストのお教えになった教理を学ばなければなりません。怠れば重大な罪を犯します。
 両親や目上の人は子供や目下の者にカトリック要理を学ばせる義務がありますか。
両親や目上の人は子供や目下の者にカトリック要理を学ばせる義務があり、この義務を怠ると神に対して罪を犯すことになります。
 だれからカトリックの教えを学びますか。
カトリックの教えはカトリック教会から学びます。
 カトリック教会が伝える教えの正しいことはどうしてわかりますか。
カトリック教会が伝える教えの正しいことは、それを神であるイエズス・キリストがお教えになり、使 徒たちを通して御自分の教会に託され、また教会を全人類の誤りなき師とし、世の終りまで神の助力を約束されたからです。
 カトリックの教えが正しいことを知るためにほかにも方法がありますか。
カトリックの教えが正しいことは、各時代に勝れた聖性をもった信者がたくさんいたこと、世界中で殉教者たちが示した英雄的な剛毅、素晴らしい速度で広がり数多くの困難にもかかわらず二十世紀にもわたって教えを完全に受け継いでいることからわかります。
 カトリックの教えの主な部分は何ですか。
カトリックの教えの主な部分は、使徒信経、主の祈り、神と教会の掟、そして秘跡の四つです。
 使徒信経は何を教えますか。
使徒信経は聖なる信仰の主要な箇条を教えます。
 主の祈りは何を教えますか。
主の祈りは神に希望すべきことと願うべきことを教えます。
 神と教会の掟は何を教えますか。
神と教会の掟は、神の御旨にかなうために人のしなければならないこと、要約すれば、何にもまして神を愛し、神のために人を自分と同じように愛することを教えます。
 秘跡について何を教えますか。
秘跡については、イエズス・キリストが人の罪をゆるし、恩恵を与え、信仰・希望・愛の徳を注ぎ育てるためにお定めになった秘跡の本質と正しいあずかり方とを教えます。

 

         感謝についって
      「私に啓示された福音」8 中  出版社 天使館

 体の健康が与えられたなら、あなた方の霊魂の健康を求めるように努めなければなりません。福音の言葉が正義を求める意思を必要とするように。体の健康が血肉の喜びを与えただけで、霊魂が不活性であったなら、どんなに恐ろしいことでしょう! わたしはあなた方に、主を賛美させました。 主はあなた方に健康を贈られました。でも、あなた方の主への感謝は、大喜びした瞬間に終わってはいけません。 感謝は主を愛する善い意志によって表さなければなりません。神からどんな贈り物をもらったとしても、それがどんなに強い力を持っていたとしても、自分の霊魂を神にささげて返礼するのでないならば、何にもなりません。 

 

 イルミナティの極秘指令と解説 護教の盾より
1962年3月、ローマのフリーメイソンの連合(coalition)は、カトリック教会を破壊することを目的とする34条からなるガイドラインを発行した。その文書の冒頭にはこうある。
 発効 1962年3月

バチカン II のアジョルナメント)

全ての魔術師たち(warlocks)はこれらの重要指令に関する進捗状況について報告しなければならない!

参照
それは、バチカン II〔1962年10月11日~1965年12月8日〕の直前、イタリアの悪名高いフリーメイソンのP2ロッジによって発行された。

指令書本文

1. カトリック教会の守護者ミカエルを、ミサ中であるか否かを問わず、すべての祈祷から、完全に削除せよ。ミカエルのすべての像を取り除け。それは、人々をキリストから引き離すからであると言え。
2. 金曜日に肉食をしないことや、断食のごとき四旬節中の償いの慣習を止めさせよ。いかなる自己否定の行為も止めさせよ。それを、喜び、幸福、隣人愛の行いに置き換えよ。キリストは、すでにわれわれのために天国を勝ち得ているので、人間の努力は不要であると言え。
3. プロテスタントの牧師を結集し、ミサの改訂と非聖化を行え。キリストの現存を疑わせるよう人々を動かし、聖体拝領は単なる食事と象徴でしかないという、プロテスタントの信条にいっそう近づけよ。
4. すべてのラテン語典礼、信心、歌を止めさせよ。それは、神秘と崇敬の気持ちに導くから。それは意味不明な呪文のごときものであると言え。こうすれば、人々は、司祭が彼らよりも優れた知性を持っているとは思わなくなる。
5. 教会でベールをかぶらぬよう、女たちを先導しろ。髪は性的なものであるから。民主主義の理念に則り、女性侍者、女性司祭になるよう女たちを動かせ。女性解放運動に着手せよ。
6. 聖体拝領のときに、跪きを止めさせよ。聖体拝領のときに、子供たちが両手を合わせるのを止めさせるよう、修道女を仕向けよ。神はありのままの彼らを愛するのだと言え。彼らが完全に気を緩めるよう仕向けよ。
7. 聖なるオルガン音楽をやめさせよ。ギター、口琴、太鼓、足踏みを持ち込め。イエズスとの私的祈りと対話が、これによって妨げられるであろう。イエズスに子供たちを召し出す機会を与えてはならない。
8. 神の母や、聖ヨゼフに対する聖歌を廃止し、プロテスタントの歌に換えよ。それは偶像崇拝であると言え。これによって、プロテスタントこそ真の宗教で、カトリックと同等だと、カトリック教会自身が認めているという誤解が生まれる。
9. イエズスに向けられているものも含め、すべての聖歌を取り替えよ。聖歌は、幼いころの自己否定と神への償いの宗教生活から受けた、甘美な平和を思い起こさせる。ともかく、以前の典礼は誤っていたことを確信させるために、新しい歌を持ち込め。各ミサで、最低一つは、イエズスに触れず、人間愛を謳歌する歌を使うようにせよ。若者は隣人愛に熱心になるだろう。
10. 祭壇から、聖人の聖遺物をことごとく排除せよ。次に、祭壇そのものも排除せよ。そこで黒ミサを密かに行うときに、生きた生け贄を捧げるのに使えるよう、異端的で祝別されていない机にすり替えよ。教会でのミサは、聖人の聖遺物を収めた祭壇の上でのみ捧げるという教会法を廃止させよ。
11. 聖櫃の聖体の前でミサをする習慣を一掃せよ。どのような聖櫃もミサに使われることを許してはならない。祭壇を夕食机のようにせよ。それが聖なるものではなく、会議机やトランプ台のように、多目的に使えるよう、持ち運び自由なものにせよ。それから、聖体拝領後に、司祭が食休みをしていることを意味するよう、この机に椅子を最低一脚は備えるようにし、司祭をそこに座らせよ。ミサのとき、けっして司祭に跪いたり、片膝をついたりさせてはならない。人間は跪いて食事をしないのだから。
12. 徐々に、聖人を教会の典礼暦から削除しろ。司祭が、聖福音書に記録されていない聖人について話をする権利を禁じること。これを好ましく思わぬプロテスタントが、教会にいるかもしれないからと言え。
13. 聖福音書を紹介するときに、「聖」の語を取り除け。聖ヨハネによる福音書というところを、ただ単に、ヨハネによる福音と言え。これは、それらをもはや崇敬する必要がないことを暗に意味しているのだ。プロテスタントの聖書と同じになるまで、聖書を改訳し続けよ。
14. すべての個人的祈祷書を取り除き、破壊せよ。これは、聖心、聖母、聖ヨゼフの連祷や、聖体拝領のための準備を止めさせる手立てになり、同じく、聖体拝領後の感謝の祈りも、形ばかりのものに変える効果がある。
15. すべての像と天使の絵を取り除け。われわれの敵の像を周囲に置いておく必要が、どこにあるか。それは神話であり、お伽話なのだと言え。
16. 下級聖品の祓魔師を排除せよ。これには全力を尽くせ。真の悪魔などは存在しないという考えを蔓延させろ。それは悪を暗示する聖書独特の語法であって、悪者がいなければ善い話は成立しなくなるからだと言っておけ。これで、彼らは地獄も信じなくなり、そこに行くこともまったく恐れなくなる。地獄は、神から離れることに過ぎないと言っておけ。それがどうして、そんなに悪いのかと言え。
17. イエズスはただの人間に過ぎず、彼には兄弟姉妹がいて、支配者階級を憎悪していたと教示しろ。彼は、売春婦の弟子、特にマグダラナのマリアを愛したのだと言い広めよ。彼は教会や会堂にとって無用の人物だったと言い広めよ。
18. 修道女たちの虚栄心、女としての魅力、その美貌を褒め称えることによって、彼女たちを還俗させられることを、けっして忘れてはならない。修道服を捨てさせよ。それと一緒に、ロザリオも投げ捨てることだろう。修道院内部に、意見の衝突があることを世間に訴えろ。そうすれば召し出しも底をつく。
19. すべてのカテキズム(カトリック要理)を焼き払え。宗教教育者には、神の愛の代わりに、神の民の愛を教示するよう宣伝しろ。人前をはばからず愛するのは大人のしるしであると言え。セックスを宗教部門の一般用語とせよ。セックスを新宗教とせよ。
20. 修道女の召命を減らすことによって、すべてのカトリック学校を閉鎖に追い込め。修道女は、低賃金の社会福祉労働者で、教会は裕福ではないが、安楽な生活ができる程度の金と財産があると言え。
21. 大学での最高権を滅ぼすことによって、教皇を滅ぼせ。政府は喜んで資金をはずんでくれると言うことによって、大学を教皇から引き離せ。「無限罪の御宿りスクール」を「コンプトン・ハイスクール」に変えるなど、ミッション系の学校の名称を世俗的名称に変更せよ。それを、エキュメニカルと呼べ。
22. その職務に年齢制限をおくことによって、教皇の権威を攻撃せよ。年齢制限を少しづ下げさせろ。教皇の過労を防ぐためのものであると言え。
23. 司教会議を設置することによって、教皇を弱体化させるよう激励せよ。イギリス国王が上院と下院に支配され彼らから指令を受けているように、教皇も表看板に過ぎなくなる。それから、司祭レベルの会議を設置して、司教の権威を弱める。司祭は、最終的に望む名声を得られると言え。それから、司祭を支配する平信徒グループを結成させて、司祭の権威を弱めよ。枢機卿さえ教会を去るほどに、憎悪が高まってくるだろう。教会は、今や民主主義になったのだといえ。新しい教会組織を称えよ。
24. 平信徒から寄せられる尊敬を失わしめることによって、司祭の召命を減らせ。一人の司祭の政治スキャンダルによって、千の召し出しが失われることだろう。好きな女のためにすべてを捨てる、落ちこぼれ司祭をほめたたえよ。彼らを英雄とたたえよ。還俗した司祭を褒めちぎり、彼らは司祭職ができなくなるよう圧力をかけられた殉教者なのだと言え。
25. 司祭不足を理由に、教会を閉鎖に追い込め。それは経費節約のための、正しい経済行為なのだといえ。神はどこででも祈りの声を聞くのだから、教会は浪費にすぎないと言い広めよ。
26. 平信徒の委員会と信仰の弱い司祭たちを使って、聖母マリアの新しい出現や、報じられる奇跡、特に大天使聖ミカエルの出現があれば、即刻これを非難し、否認せよ。第二バチカン会議以後、絶対にどんなものも認めぬようにせよ。そのようなメッセージに従い、あるいは繰り返し、あるいはそれについて考えることさえ不従順に当たると言え。
27. 新教皇が選出される度に教皇庁を解散する法案を通せ。これによって、教皇庁が、多くの革新派とモダニストの溜り場となることは必至である。
28. 偽教皇を選出せよ。彼はプロテスタントと、またユダヤ人さえも、カトリック教会に引き戻せるのだと言え。司教に投票権を与えることによって、偽教皇を選出できることを知れ。あまりに多くの教皇が候補に立つため、妥協する教皇として、偽教皇が舞台に立つ。
29. 小学校二学年、三学年の子供たちが初聖体を受ける前に告解をする慣習を取り除け。こうすれば、四学年、五学年、それ以上になったときに、彼らは告解をしなくなる。こうすれば、告解そのものが消滅するだろう。
30. 女性と平信徒に聖体を配らせろ。平信徒の時代なのだと言え。舌によってではなく、プロテスタントと同様、手で聖体を受けさせろ。キリストもそのようにしたのだと言え。聖体の一部を黒ミサ(サタンミサ)のためにとっておけ。次には、一人一人聖体を受ける代わりに、ボールに一杯入っているホスチアを各自が取って、教会を出られるようにせよ。彼らは、こうして神の賜物を日常生活に持ち込むことができるのだと言え。聖体自動販売機を設置し、これを聖櫃と呼べ。
31. 偽教皇が支配するようになってから司教会議(シノドス)や司祭協議会、平信徒顧問会を解散せよ。宗教者が許可なく政治問題に加わることを禁止せよ。神は謙遜を愛し、栄光を求める者を憎むからだと言え。
32. 後任者を選ぶ絶対権を教皇に与えよ。破門という苦痛を与えて、神を愛するすべての者に獣の刻印を押してやれ。
33. 教皇不可謬説以外、過去の教理はみな虚偽だったと宣伝せよ。イエズス・キリストは革命家の一人であったのであり、教理を作りはしなかったのだと言え。真のキリストはもうすぐ来るのだと言え。
34. 教皇に従う者すべてに、世界統一宗教拡大のための聖戦を戦うよう指令せよ。サタンは、失われた黄金がどこにあるかを知っている。容赦なく世界を征服しろ。これによって、彼らが憧れてやまなかったもの ─ 平和の黄金時代 ─ を人類に与えられるのだ。


イルミナティの極秘指令

解 説

これは、イルミナティグランドマスターから、カトリック内部の各秘密工作員(偽司祭)に配られた極秘指令書である。

指令書は、一九六二年三月に、第二バチカン会議での決戦に備えさせるため、彼らの最高権力者から、カトリック教会内部に潜伏する共産主義メイソンの各同志宛てに出されたものだが、その内容は、本書に書かれている偽司祭の計画に驚くほど一致している。

指令書が配られたのは、ヨハネス二三世が在任中のことだったが、教皇バチカン会議の開催を見ることなく、翌年一九六三年六月に死去した。

教会の敵は次期教皇を待ち、新しく即位したパウロ六世がこの計画案を受け入れるだろう(これは虚偽である)とのコメントを添えて、再度この指令書を出した。

AA1025は、教会のドグマを変更できなかった意味で、第二バチカン会議に敗北したことを認めているが、会議文書の語法に影響を及ぼし、致命的な曖昧さをそこに含み込むことには成功した。

それによって、軟弱な司教たちが、「会議の精神に則って」の口実の下、これらの文書を現代的に解釈し直す好機を与える結果になった。

この意味では、彼らは戦いの火蓋を切ることに成功したと言えるであろう。この指令書の内容と、今の教会で現実に起きていることを比較すれば、多くの一致に驚かされるはずである。

彼らが最終目標に据えているのは、彼らの代表として働く傀儡教皇を擁立することで、この偽教皇をもって、統一世界宗教を樹立せんとするものである。そのための準備段階についても指令が出されているが、まだ実現には至っていない。

指令書の一から二十までは、故志村辰也神父によって別途に邦訳され、「聖母のブルーアーミー」会員に配布されたことがある。その最後に添付されたコメントより引用する。

これは、“FIDELIS ET VERUS”(May,1987)に掲載された、イルミナティの組織に関する記事の抄訳で、組織の指導者であるグランド・マスターから、公教会で聖職者になっている各会員に宛てた指導書である。もちろん、個人の救霊を損ない、カトリック教会を内部的に破壊するのが目的である。

イルミナティILLUMINATI)は、アダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt・1748-1830)によって設立された悪魔崇拝の団体で、政治、経済、宗教の世界統一を目指している。フリーメーソンと同一組織と考えて差支えない。

各項目は、おおよそ、実行事項と、それを行う時の偽りの宣伝、その効果の三つから成っている。彼らの手法の特徴は、破壊的意図や挑戦的態度を隠して、巧みな偽りのうたい文句によって、一見表面的でしかないような宗教行動の変化を加えることで、知らないあいだに深い心理的な影響を与え、信仰生活を堕落させることにある。

何でもないかのように受け入れられてしまうその行動変容は、ことごとく神への軽視を言外に意味しているものなので、習慣になっていると気づかないうちに、聖なるものの感覚や超自然の存在への思考を損ない、結果として、内的生活の破壊をもたらすように計算されている。

さらに、彼らの隠れた意図などまったく知らずにいる多くの善意の人々は、偽りのうたい文句を鵜呑みにして、これを自らの信条として取り込み広めていくという相乗効果も生じている。この指令は現在大成功を収めている。

教会内の秘密結社についての参考資料

1.『カトリック教会文書資料集』(エンデルレ書店)。
 今の教皇聖下になってからも何度も出されている、バチカンからのフリーメーソンに関する通達(1981、1984、1985、etc.)
2.『秘密結社フリーメーソンの陰謀』(デルコル神父著、大分聖ヨゼフ修道院・世の光社、1990年改訂版)
3.『第2バチカンの光と陰』(澤田昭夫著、世の光社、1990年)
4.『悪魔に愛された女』(シスター・マリ・エメリー著、J・ガッツェ神父原訳。成甲書房、2000年4月)
5.『へロデの呪い・暴かれたユダヤ古写本』(A・カウリー著、J・ガッツェ神父復刻、中央アート出版社、2002年2月)

 

          「キリストの神秘体」   フルトン・シーン 著
          第二章 キリストの神秘体より抜粋 本性と個格について
 キリストには二つの本性、すなわち人間性と神性があり、一つの個格(ペルソナ)すなわちみ言葉のペルソナ、三位一体の第二位のペルソナがある。
本性は行為の原理、または源泉であり、ペルソナは責任の根源である。たとえば「叫びとは何か?」との問いに対する答えは本性を示し、「誰が叫ぶのか?」に対する答えはペルソナを示す。キリストは完全なる神の本性と人間性の二つの本性があるが、ただ一つのペルソナ、至聖なる三位一体の第二位のペルソナ、永遠のみ言葉、神のペルソナがあるのみである。キリストは人間的ペルソナなしに人間的本性を有し、神のペルソナがキリストの人間的ペルソナを代行する。しかし、その人間性のペルソナは決して新しいものではなく永遠なるものである。「まことにまことに汝らに告ぐ、我がアブラハムが生まれるるに先立ちて存す」とユダヤ人に答えた時には、上述ような意味においてアブラハムの死とアブラハムに比較された主の年齢とに言及したのである。
 以上のことからキリストの人間性は、彼の神格の道具であるということができる。。聖トマス・アクィナスは「神に結ばれた道具」という美しい言葉をもってキリストの人生を表現している。「最後の審判」を書くミケランジェロの手は、脳に「結ばれた道具」であった。これをキリストにあてはめてみよう。「一つの有機体の中にある脳と手の関係以上に、一つのペルソナの中において神性は人間性と一致しているから、人間性は神の「手」であり、人間の手が天才の仕事をするように、神の仕事をするのである。人間性が高められて贖罪と聖性の全領域にわたって参与することので来た位格的一致(ピポスタティク・ユニオン)に感謝しなければならない。キリストの人間性、すなわち肉体と霊魂は、聖三位の第二位と一致することによって、あらゆる霊的不可思議を行う最適の道具となったのである。こうしてキリストの御生涯、御死去、御復活、御昇天は我々の聖化、生命、復活、昇天のため、神の道具となったのである。 さて、キリストの人生はたとえ完全な人間性であったとしても、何故、そのような力を有したのであろうか。これに対する答えは神のペルソナに一致していたからであるということができる。「行為はペルソナのものなり」(Actiones sunt suppositorum)。たとえば、見ることは私の目の本性であり、味わうことは舌の本性であり、歩むことは足の本性であるが、もしそれらの行為の責任の所在を問われる場合には、我々は、それらを本性に帰せず、我々のペルソナに帰すのである。我々は、私の目があなたを見たとはいわず、私が見たという。又私の耳があなたの言うことを聞いたとはいわず、私があなたの言葉を聞いたという。さて、我々の救い主の受肉の生涯は、我々と同じように完全なる人間性の表現であり、涙を流す、苦しむ、血の汗をかく、子供を祝す、慰めの言葉を語るなど、完全な人間行為であるが、これらは決してキリストの人生に帰せず、彼のペルソナに帰す。彼のペルソナは神のペルソナである。それ故、キリストの人間的あらゆる行為は、神のペルソナのなし給うことになるから無限の価値を有する。ここから、キリストの一つの嘆息、一つの言葉、一滴の涙でも全世界を贖うに十分であるとの結論が出てくるのである。なぜなら、それは神の嘆息であり、神の言葉であり、神の涙であるからである。