「キリストの神秘体」   フルトン・シーン 著
          第二章 キリストの神秘体より抜粋 本性と個格について
 キリストには二つの本性、すなわち人間性と神性があり、一つの個格(ペルソナ)すなわちみ言葉のペルソナ、三位一体の第二位のペルソナがある。
本性は行為の原理、または源泉であり、ペルソナは責任の根源である。たとえば「叫びとは何か?」との問いに対する答えは本性を示し、「誰が叫ぶのか?」に対する答えはペルソナを示す。キリストは完全なる神の本性と人間性の二つの本性があるが、ただ一つのペルソナ、至聖なる三位一体の第二位のペルソナ、永遠のみ言葉、神のペルソナがあるのみである。キリストは人間的ペルソナなしに人間的本性を有し、神のペルソナがキリストの人間的ペルソナを代行する。しかし、その人間性のペルソナは決して新しいものではなく永遠なるものである。「まことにまことに汝らに告ぐ、我がアブラハムが生まれるるに先立ちて存す」とユダヤ人に答えた時には、上述ような意味においてアブラハムの死とアブラハムに比較された主の年齢とに言及したのである。
 以上のことからキリストの人間性は、彼の神格の道具であるということができる。。聖トマス・アクィナスは「神に結ばれた道具」という美しい言葉をもってキリストの人生を表現している。「最後の審判」を書くミケランジェロの手は、脳に「結ばれた道具」であった。これをキリストにあてはめてみよう。「一つの有機体の中にある脳と手の関係以上に、一つのペルソナの中において神性は人間性と一致しているから、人間性は神の「手」であり、人間の手が天才の仕事をするように、神の仕事をするのである。人間性が高められて贖罪と聖性の全領域にわたって参与することので来た位格的一致(ピポスタティク・ユニオン)に感謝しなければならない。キリストの人間性、すなわち肉体と霊魂は、聖三位の第二位と一致することによって、あらゆる霊的不可思議を行う最適の道具となったのである。こうしてキリストの御生涯、御死去、御復活、御昇天は我々の聖化、生命、復活、昇天のため、神の道具となったのである。 さて、キリストの人生はたとえ完全な人間性であったとしても、何故、そのような力を有したのであろうか。これに対する答えは神のペルソナに一致していたからであるということができる。「行為はペルソナのものなり」(Actiones sunt suppositorum)。たとえば、見ることは私の目の本性であり、味わうことは舌の本性であり、歩むことは足の本性であるが、もしそれらの行為の責任の所在を問われる場合には、我々は、それらを本性に帰せず、我々のペルソナに帰すのである。我々は、私の目があなたを見たとはいわず、私が見たという。又私の耳があなたの言うことを聞いたとはいわず、私があなたの言葉を聞いたという。さて、我々の救い主の受肉の生涯は、我々と同じように完全なる人間性の表現であり、涙を流す、苦しむ、血の汗をかく、子供を祝す、慰めの言葉を語るなど、完全な人間行為であるが、これらは決してキリストの人生に帰せず、彼のペルソナに帰す。彼のペルソナは神のペルソナである。それ故、キリストの人間的あらゆる行為は、神のペルソナのなし給うことになるから無限の価値を有する。ここから、キリストの一つの嘆息、一つの言葉、一滴の涙でも全世界を贖うに十分であるとの結論が出てくるのである。なぜなら、それは神の嘆息であり、神の言葉であり、神の涙であるからである。