聖ピオ十世公教要理詳解
     カトリックの教えとその主な部分
                    護教の盾より

使徒信経の第四箇条
第四箇条「ボンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架につけられ死して葬られた」では何を教えていますか。
第四箇条では、イエズス・キリストがその尊い御血で世の罪をあがなうため、ポンシオ・ピラトの管下で苦しみを受け、十字架につけられ、死去され、葬られたことを教えています。
「苦しみ」とは何を意味しますか。
「苦しみ」とは、イエズス・キリストが御受難において体験されたもろもろの苦痛を意味します。
イエズス・キリストが死去されたのは、神としてですか、それとも人としてですか。
イエズス・キリストは人として死去されました。神としては、苦しむことも死ぬこともないからです。
十字架の責めはどんなものでしたか。
十字架の責めは、あらゆる責苦の中で最も残酷で屈辱にみちたものでした。
だれが、イエズス・キリストを十字架の刑に処すよう命じましたか。
イエズス・キリストを十字架の刑に処すよう命じたのは、ユダヤ地方の総督ポンシオ・ピラトでした。ピラトは、救い主イエズス・キリストの無罪を認めながら、卑怯にも、イエルザレムの人々の脅しに折れたのです。
イエズス・キリストは、お望みになれば、ユダヤ人やピラトの手から逃れることができませんでしたか。
イエズス・キリストはユダヤ人やピラトの手から逃れようと思えばできました。しかし、御父の御旨に従い私たちを救うために、すすんで敵の前に姿を現わし、捕らえられ、苦しみ、死ぬ運命に御自分をゆだねられたのでした。
イエズス・キリストは、どこで十字架につけられましたか。
イエズス・キリストは、カルワリオの丘で、十字架につけられました。
イエズス・キリストは十字架上で何をされましたか。
イエズス・キリストは、十字架上で、敵のために赦しを乞い願い、聖母マリアを弟子ヨハネに母として与えヨハネを通して私たちにも聖マリアを母としてお与えになりました。さらに、御自分の死を犠牲としてささげ、神に対する人間の罪のあがないを成就されました。
私たちの罪をあがなうためには、天使をおつかわしになるだけで充分ではなかったのですか。
私たちの罪を購うために天使をおつかわしになるだけでは充分ではなかったのです。それは、人間が罪によって神に加えた侮辱は、ある意味で無限ですから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方が必要だったのです。
神の正義にふさわしいつぐないをするために、イエズス・キリストは神であると同時に人間である必要がありましたか。
苦しみ死去するためにイエズス・キリストは人間でなくてはならず、この苦しみが無限の価値を有するためには同時に神でなければなりませんでした。
なぜ、イエズス・キリストの功徳が無限の価値あるものでなければなりませんか。
人間が罪によって侮辱を与えた神は無限に偉大を御方ですから、イエズス・キリストの功徳も無限の価値あるものでなければならなかったのです。
イエズスにはあれほどひどい苦しみを受ける必要があったのですか。
イエズスには必らずしもあれほどひどい苦しみを受ける必要はなかったのです。イエズスの行ないはすべて無限の価値を有するものですから、わずかな苦しみだけでも私たちの罪をあがなうには充分であったのです。
では、なぜイエズスはそのような苦しみを受けられたのですか。
イエズスがそのような苦しみを受けられたのは、神の正義に対してよりゆたかなつぐないを望まれ、人間には、神の愛をさらに印象づけ、徹底的に罪を忌みきらう気持を植えつけようとされたからです。
イエズスの御死去に際して異変が起こりましたか。
イエズスが死去されると、太陽は暗み、地はふるえ、墓が開き、多くの死者がよみがえりました。
イエズスの御遺体は、どこに葬られましたか。
イエズスの御遺体は、十字架にかけられた所の近くにあった、丘の岩に堀った新しい墓に葬られました。
イエズス・キリストが死去された時、その神性は肉体と霊魂から離れましたか。
イエズス・キリストが死去された時、その神性は肉体からも霊魂からも離れず、霊魂だけが肉体から離れました。
イエズス・キリストは誰のために死去されましたか。
イエズス・キリストは全ての人間のために死去され、すべての人間の罪をあがなわれました。
イエズス・キリストは全人類のために死去されたのに、なぜある人は救われない可能性があるのですか。
イエズス・キリストは全人類のために死去されましたが、イエズス・キリストを認めない者、掟を守らない者、また、人のために残してくださった聖性に達する手段を利用しない者がいますから、ある人は救われないという可能性があるのです。
人が救われるためには、イエズス・キリストが死去されたことだけで充分ですか。
人が救われるためにイエズス・キリストの御死去だけでは充分でなく、私たち一人一人が主の御受難と御死去のもたらす恵みを正しく受け入れねばなりません。この恵みは特に秘跡を通して受けます。しかし多くの人は秘跡も受けず、受けても正しい受け方をしないので、主の御死去もその人たちには無意味なものとなるのです。