ミ サ 聖 祭   第二週                      

          修徳文庫 16
                著 者  R・プリュス
                共 訳  小田部胤明 ・ 上野和子
                出版社    ドン・ボスコ
                再版発行 1962年8月8日
 
                第 二 週

     1. 託身の記念
     2. ミサと𦾔約
     3. 聖マリアとミサ
     4. 祈れ, 兄弟たちよ
     5. アーメン
     6. 献物としての犠牲であるミサ
     7. 彼に由りて, 彼と共に、彼において
 

          第一課 託身の記念

 ミサ中、司祭は託身の玄義を二度記念(起想)する。それは、
  信經の「人となり給い」
  終わりの福音の「かくて御言は肉と成りて」
の二カ所であるが、その都度教会は跪くことを司祭に要求する。キリストのほかの玄義を想い起す場合には司祭は直立のままで良いが、降誕の馬槽を記念するときには、その玄義は、司祭が立ったままこれを背負いきれないほど重く見える。ルブリカ(典礼書に赤い小文字で註した典礼法規)は、彼に跪くことを厳命する。
それは或いは、人と成り給うた神(即ち嬰児なる救い主)の前に跪いた羊飼や三博士に倣って跪くのかも知れないが、それと共にこの馬槽の玄義が(外観こそ愛らしいが)いかに圧倒的な力を持つものであるかを、われわれに想い起させるためでもあろう。
 ふしぎなことに、奉献を閉じる「聖なる三位よ献物を受け納れ給え」と、聖變化に引き続く「されば主よ…を記念しつつ」の二ヵ所では、救霊の玄義として、御受難と復活と昇天しか挙げられていない。ギリシャ教会の典禮は形式が良くまとまっておらず、典禮が一層豊富であるが、託身と降誕と聖霊降臨の三玄義をもげている。ローマ教會は、神の御子の地上への来臨が想い浮べられる所で二度前述の通り、深い意味をこめて跪くことにより、その沈默を補っている。

      一、御降誕の玄義の壓倒的な所

 一、神は、人間が原罪により失った超自然の恵みを、人間に再び興えないなら輿えなくても良かったが、それを回復して下さった。しかも、その回復の使者としては天使でなく、神の御獨子をお遣わしになったのである。                            
 今夜この馬槽において、寂寥(せきりょう)たる岩だらけの田舎にて、この御子、みどり兒が、うら若き御母の腕に抱かれていた。そのみどり見は、あらゆる世界をその手に握り、すべてのものを服従させ、すべてをその絶對的な意欲により治める御者である。
 十字架は更に劇的である。更に悲劇的で圧倒的な感じを興える。恐らく、それは感覚に訴えるからであろう。木、鞭、茨、釘、流された御血など。事實十字架は、われわれの心を悲劇的な恍惚にひたらせる。
 とにかく、人間の場合においても、われわれを納得させる幾つかの例を見出すことができる。例えば、人間の心といえど、もし愛に満ちていれば、人類を救うために殉教することができる。それならば、(勿論、感嘆に絶えないことではあるが、とにかく)人間にして神なる御者が、人間を救うために、犠牲となられることを承諾し給うたことも、納得できる。われわれは、(人と神との間に)並行線を見出し、標點を持つ。
 しかし、人間的な、どういう場面のうちに、託身の崇高さまでわれわれを導くものを見出すことができようか。馬槽の玄義に多少とも似通った、どういう場面があり得ようか。偉大な心を持つ人が、他人のために身を捨てるということは、われわれも理解できる。しかし、われわれのように貧しい者のために神が犠牲となり給うということは、どうして想像できようか。 十字架の玄義を想い浮べるときに教會は司祭を直立したままで置かせるが、馬槽を想い浮かべるとき跪かせるということも、この玄義のふしぎな崇高性を思えば理解できるのである。
 二、 その上、周知の如く、これら二つの玄義は互に結び合っており、馬槽は十字架の先き駆けでしかないのである。御降誕の祝日の八日間の日曜日の典禮は、福音奉奉読(ルカ2-33~40)において、聖ヨゼフと聖マリアがイエズスを神殿に捧げる場面を示しているが、これはそのまま、カルワリオの十字架の前表であり、そこにわれわれは、みずから「さからいを受くる徴に立てられたり」と申された御者の世から捨てられた姿そのものを見、更に苦しみを共にした御母の痛ましい姿をも見出す。
 三、もう一つ御降誕の祝日の典禮で注意すべきは、キリストのため聖ジャンヌ・ダルクと同じ刑(火炙り)に處せられた殉教者、聖女アナスタジアのことが御降誕の祝日の第二のミサのうちで(第二集禱文)記念されているのみならず、御降誕の祝日直後の三日間に、ほかの三つの殉教のことが記念されているという點である。即ち、聖ステファノ、使徒ヨハネ、罪なき嬰兒の殉教である。しかも十二月二十九日には、もう一人殉教者、一一七一年に、司教の權利を守ったため、カンタベリーの司教座大聖堂において殺された聖トマを記念するのである。
 四、われわれに要求されているのは、血の殉教ではない。しかし、われわれは清貧の神に仕えているということ、その神は生活の安楽を少しも求めずに、最後には十字架の上で釘づけにされた神であることを忘れてはならない。
 それ故、われわれのキリスト教的實踐の生活には強固な意志が是非必要である。御降誕の祝日の
八日目(一月一日御割礼の祝日)の福音の文は翌日(一月二日イエズスの祝日聖名)の福音文(ルカ2-21)と同じであり、御割禮の日の聖務日課(これは通常のミサと密接な関係を持っている)の朗読には、聖パウロのロマ書簡中の外見的にユダヤ人であっても真のユダヤ人ではない、本當の割禮は内的な心の割禮でなければならない、という教えが述べられている。この教訓をよく學び取ろう。
 御言は、薔薇水で出來た無意味な安易な宗教を齎すために託身し給うたのではない。馬槽は、道徳の實踐を要求する、すごみのある玄義である。この點を黙想し、忘れないように。

     二、 ミサの玄義の壓倒的な所

一、犠牲としてのミサ聖祭のすばらしさは一時さしおいて、後で默想することとし、ここではただ聖變化の度毎に(日々世界中捧げられるミサの総数を考慮すれば一秒に四回ほど行われるであろう聖変化の度毎に)示される「託身のいわば再現、再版」というふしぎな出来事をながめよう。
 背景は同じではない。託身では、ナザレットの小さな部屋。マリアの胎内。聖變化では、いつもの祭壇布が敷かれ聖體布がひろげられている祭壇。 ナザレットでは、神の御子を世に齎すことを承諾したマリアの言葉。祭壇では、司祭がキリストの御名において唱える比類なき言葉「これわが體なり、これわが血なり」
 現實も完全に同じではない。託身においては、御言はヴェールにつつまれたようにとは云え、人間の姿を取るが、聖體においては、聖主はパンの形色のもとに隠されている。託身の場合には、聖主は始めて地上に降りるのである。もしも聖主が最初にマリアの胎内に来られなかったならば、ミサの祭壇に聖主が實際に來り給うということは、あり得なかった。この意味において、聖體は託身を再生するというより、延長するのである。
 しかし、そうとは云え、聖變化の前に祭壇にイエズスは實在されなかったし、聖變化の後には實在されるということは、否めない。その意味において、聖變化は、現實に、託身の再生とも云える。それは、われわれの想像に絶する、類例なき出来事なのである。
 二、一回の聖體の聖變化が齎す奇蹟の数と性質とが研究された。モンサプレ師 (Monsabré) (1827-1907)が昔パリのノートルダム大聖堂で熱烈な訓話で述べたように、主はいかなるものの前にも尻込みし給わなかった。フランスのアカデミー會員ジォルジュ・ゴアイヨー(Georges Gau-yau)が聖體について、いみじくも云ったように、聖體は「人間歷史中、最も偉大な出来事」である。そしてこの出来事はただ一度あっただけではない。ミサの度毎にすべての司祭は、この神人を祭壇の上に再び降りさせる。それは天上のイエズス、即ち、その昔榮光に満ちて復活し、もはや苦しむことも死ぬこともなきイエズス、御父のもとに行かねばならず、それでいてわれわれと共に地上に踏みとどまることを望み給うたイエズスである。
 三、「活けるパン、活かすパン」と聖トーマス・アキナスが、わかりよい定義で總括しているようにこの活けるパンは、他人の糧となることを望み給うた。地上における使命が終り聖主は昇天によって、地上の生活に終止符を打たねばならなかった、だが、聖主の御心はそれでは満足できなかった。聖主は三十三年の御生活のうちに、もはや地上から離れることができなくなられた。全體的に見て(否、良い人々の方だけを見ても) イエズスの愛に値しないような人類を、主は救いに来られ比類のない愛で愛し給うた。そしてその無限の愛情のうちに、一つの解決、即ちこの世を去りながらこの世に踏みとどまるという方法を見出し給うた。御父の右に坐さんがために天に昇り、しかも「活けるパン、活かすパン」として、われわれの望む度毎に、われわれに御体を糧として與えようとして、われわれの近くに、聖櫃のうちに御身を隠す方法を見出し給うたのである。
 四、愛というものの性質から推測して(特にその愛が無限の場合)、聖體はほとんど自然に託身から流れ出たもの、託身から(強いられなかったとしても、少なくとも)導き出されたものと思える。愛する人は、その愛を証明するあらゆる方法を以て、相手の人に自己を興えたいと望むものである。御言は肉と成り給うたとき、御自身をその人間性において、われわれに興えずにはおられなく成られた。しかも、昔パレスチナにおいて主を仰ぐ幸幅を味った人々にして興えるだけではなく、世の終りまで、そして全人類に対してであった。
 一九一五年ケーニヒスベルグで捕虜の生活を送ったジャック・リヴィエールはこの愛の、論理的頂點を、次の文章を書いたとき、かいま見たのである。「私は、五官に觸れる形色のもとに自らを與えることに決せられたイエズスの氣持を、一瞬の内に私の中に見出した。私は今、他人の糧となることにより、苦しむ人々に力を與えるような何物かに成りたいと云う耐え難い慾求を、想像することができる。人のとりことなった神に當てはめてみるとき、これは極く自然な動きとなる。神は恐らく、無限な愛故に苦しみ、その愛の重荷に耐え切れなくなり、この重荷から遁れて人々の苦しみを和げるため、聖體の制定をなさったのであろう」    それはそれとして、もし愛がこういう論理を持つものであるとしたら、これ以上感嘆すべき美しいものは、他にあり得ない。
 五、この聖體の持つ素晴しさを、よく體得するように努力して、このような深い愛に觸ことによって、愛の何たるかを学び、現在の私の状態においてどの程度まで自己を捧げたらよいかと云うことをも學び取ろう。このイエズスの御體が今日よりもなお理解され、あがめられ、訪問され、そして主の愛が、人類すべての愛によって、もっとよく報いられるように願おう。そして、あらゆる冷淡、無頓着、無爲を補おう。

           第二課  ミサと舊約

      一、 イザヤに関する記念

一、福音奉讀の前に、司祭は祭壇の上へ身をかがめて、その昔イザヤが聖なる言葉を語る前にその唇を、燃える炭火で清められたように、今自分もまた、心と唇を清められんことを、神に願う。これが即ち、「わが心を清め給え」 Munda cor meum である。
 イザヤはキリスト前七百年頃の最も偉大な予言者である。彼は聖殿にて祈りを捧げている途中、神の力につつまれるのを覺えて云った。「ああ、どうしよう。到底駄目だ、自分は汚れた口の持主、不淨な唇を持つ民族のうちの一人だから」と。すると一位の天使が近づき、火箸で祭壇から炭を取って、イザヤの唇に觸れた。「汝の不義は取り去られた、汝の罪は消された」と。こうしてイザヤは力を得て、「わが民のもとに行け」と命ぜられたその使命のために、神に身を献げたのである。しかし民は始めのうちは、光を受けるのを拒み、そのため滅ぼされた。しかし時を経て、その切り株から若芽が生じ、イスラエルは、聖なる種子を産出することになった。
 この象徴のもとに來臨を予言された贖主について、イザヤは、贖主の不可思議な出と、恐るべき受難とを述べる。イザヤは、何とかしてイスラエルを悪い道から救い出そうとして、言葉を換えて忠告する。「もし信じないならば、汝らは立ってはいられない。もし掟を守るならば、ヤーヴェへの信頼と平静のうちに力を得るであろう。ヤーヴェは汝らを守るであろう」と。諸民族の上に呪いを招くものは罪である。神は或る民族を罰するために他の一つの民族を利用し、そしてその後、後者の民族をも滅ぼし給うのである。
 しかしヤーヴェは痛悔を好む。「もし汝らが義に戻るならば、汝らの罪が、紅の如く赤くとも、ヤーヴェはそれを雪の如く白く爲し給うであろう。イエルサレムよ、イエルサレムよ、起きよ、眠を醒ませ、汝らを蔽う塵を拂い、その鎖を解け。汝は神の怒りの杯を既に飲み過ぎるほど飲んだ」
 イザヤがこう餘り何度も同じことを説いたため、不敬虔なマナッセ王は、それに飽き飽きしてイザヤを眞二つに切った、と傳えられている。
 二、これは多くの教訓を含んでいる。その教訓は、民族だけでなく、個々人にも當てはまる。罪がどんなに大きな賠償を要求するかということ、そして、聖人や使徒の言葉に世間がどんなに敵對するかということを、忘れないように。
 また更に、神の使者という使命は非常に素晴しいと同時に恐ろしくもあるということも、忘れてはならない。しかし、神が力を與えるとき、使徒に不可能なことがあろうか。願わくは、神が私の唇をも、その燃える炭で焼き給わんことを。そして、その努力の報いとして殉教が興えられるならば、それは世にも有難い大きな褒美である。生木と同様に扱われた枯木!(ルカ23-31)
 神の眞實の親しみと神の眞の訪れを、本當に良く示すものは、積極的に自己を差出すことより、ひかえ目に謙遜することである。聖寵に満ちた魂は、神の近づき給うことより、遠のき給わんことを願う。それは、怖れるがためではなく、自己の貧しさを知っているがためである。
 三、ミサでもう一カ所、イザヤに關係した言葉が述べられる。それは「聖なるかな」 (Sanctus)で、これは實は教会がイザヤから借りて来たものである。イザヤは始めての召出を知り脱魂狀態に陥ったとき、「聖なるかな」を聞いた。それは天上の霊たちにより交るがわる歌われていた。「聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉、萬軍(地上の軍ではなく天軍)の主・・・・・・」と。
 この三重の呼び掛けのうちに、われわれは神のペルソナの三位と神性の一対とを、同時に見出すのである。それは丁度、聖アンブロジオが述べているように「或る一種の、孤獨の神を示すために一度限り云うのではなく、聖霊を省いてしまって二度だけ云うのでもない。多くの神々があるわけでないから複数形を用いてもいない。この言葉は三回、そして三回とも同じように述べられる。それは、この讃歌が、三位相互の區別と同時に、神性の一體を、理解させようとしているからである」
 舊約時代の信者たちは、この三聖誦 (サンクツス)(Trisagion) を、意味がわからないまま、読んでいた。彼らは、神の一體を信じていたが、三位については何も知らなかった。われわれキリスト信者はイザヤが聞いた。この天使たちの讃歌を繰りかえすとき、その意味を良く知っているし、そして天上に住む者と共にわれわれも、聖父と聖子と聖靈を祝っているのである。
 三重の「聖なるかな」を、屢々思って喜びとしよう。神の偉大さを喜び、そして三位一體を有効に信じよう。
     二、舊約における三大犠牲の追憶        

 聖變化の後である。聖なる犠牲は既に祭壇上にまします。司祭は、アベルアブラハムやメルキセデクが捧げた供物を、神が嘉し給うたように、聖主御自身捧げ給うたところのその御體と御血の犧牲を、聖父が當然受け納れ給わんことを祈る。
 一、舊約聖書における犠牲という言葉の通念
 a、通常、犠牲とは努力を要する行動で、捧げるときに苦しみを伴うことを意味する。        b、語源学的に、犠牲 (sacrificium)とは、「聖なることを為すこと」 (sacrum facere)から來ている。この語義には、「苦痛を伴う」という現實の観念は含まれていない。
 c、 歴史的に見れば、犠牲は、通常の解釈よりも、語源學的解繹に近いようである。聖アウグスチノは「犠牲(sacrificium) とは、神と聖なる一致をするためにわれわれが行う業そのものである」と云う。本質的に云って人間は絶對的に神に依存することを告白し(礼拝)、その御恵みを謝し(感謝)、必要な御助けを願う(祈願)。この目的を達するために、人は神から頂いた御恵みの一部を再び捧げて返すのである。神に何か捧げるときに、人間が何か多少苦しむと云うことは、人が元來罪を犯し神の意に反してまで被造物に執着し、不當な快樂を味ったのだから、それに対する當然の報いである。そのために、大抵の場合、何か捧物をするとき不自由を覺悟して、捧げなければならないのである。
 舊約において一般に犠牲とは(罪滅ぼしの観念が強い「贖罪のための」犠牲の場合のほかは)宗教的表敬以上の何ものでもなかったのである。即ちそれは、全能なる、萬物の主宰者の偉大さを認めることであったのである。
 二、アベルの犠牲―それは、アブラハムとメルキセデクの場合と同じように、完全なる犠牲(即ちイエズスの犠牲)を豫め示したものであるが故に、価値があるのである。アベルは、兄のカインとは違って、義人であった。いたましくもキリストがその兄弟なる人類の手で殺されると同じく、義人アベルも、血を分け合った弟即ち悪人カインにより殺されるのである。
 三、アブラハムの犠牲これは、象徴的であるだけ非常に大きな感銘を人に与える。神は一瞬たりとも、イザアクが父アブラハムによって犠牲として屠られることを望み給わなかった。しかし神は、アブラハムの信仰とイザアクの従順をお試めしになったのである。だが、新約の犠牲においては、聖父は聖子が犠牲になることを承知なさるのである。アブラハムにおいても犠牲はわれわれにとってあれほど不可思議なものであったが、キリストにおいては遙かに不可思議なものとなる。次の聖パウロの言葉を思い出して、その怖るべき意味を測ろう。「神のこの世を愛し給えることは、御子を賜うほどにして」
 四、メルセデクの犠牲アベルは最初の義人であり、アブラハムは神を信ずる者の父祖であるが、メルキセデクは、神に最初にパンと葡萄酒を捧げた人であって、この意味において彼は聖体を明確に想い浮かばせる。 北伊ラヴェンナ市の聖ヴィターリス聖堂には、メルキセデクの犠牲を表わす有名なモザイクがある。そのモザイクは、祭壇の役目の机の上に、二つのパンと、初代教会で使われたような手の二つついた聖杯の置かれた有様を描いている。初代教会では信者たちが犠牲用の葡萄酒を持って来るので、その葡萄酒は、手の二つついたこの甕のようなものに入られて、分配された。この甕(かめ)は助祭が、捧げ物を容れるために用いたのである。 司祭と信者たちが頂くために必要なものはこの大きな甕から取り出したのである。      
 ミサにおいて教會が舊約を追憶することにより、われわれは深い教訓を得る。即ち、舊約と新約との間には一致があり、新約は舊約の延長、完成でしかない。両者の間に、對立はないし、勿論衝突もなく、一致が存在する。舊約の犠牲は、十字架によってその價値を得る。事實、世界にはただ一つの犠牲(ぎせい)、即ちミサにより繰りかえされるカルワリオと、ただ一つの犠牲(いけにえ)なる聖主しかないのである。
私たちは、聖書、少くともその一番重要な箇所を良く知っているか?

      三、洗者聖ヨハネ

 この聖人は、最後の豫言者であるから、新約より旧約に属していると見て良いであろう。その特徴は、キリストのすぐの先駆者であるという點である。
 一、このような理由により、ミサは彼に特別な待遇を與えている。祭壇のもとで唱えられる二回(司祭と侍者)の告白の祈りでは、一回に二度ずつ結局四度、その名があげられる。奉献の部でも、「聖なる三位、この献物を受け納れ給え」に続いて「……洗者聖ヨハネの光榮のため・・・・・・にこれを捧げ奉る」とその名があげられる。聖體拝領のすぐ前、司祭は「世の罪を除き給う天主の羔」と三度唱えるが、この言葉は、洗者聖ヨハネが、彼の教えを聞きに来て彼こそキリストでないかと問うユダヤ人たちに、眞のキリストを指示するために唱えた言葉である(ヨハネ1-29)。
 二、典禮もまた特別の上席を洗者聖ヨハネに與えている。聖ヨハネ誕生の徹夜(6月23日)に朗読される書簡は、エレミアの預言書から取られている。教會はエレミアにつき云われた言葉を、聖ヨハネにあてはめて云う。「われは、汝を母の胎内に形づくらない内に、既に汝を選み、汝がいまだ母の胎を出ない内に、汝を聖とし、汝を諸々の民の豫言者とした」と。
 六月二十四日が聖ヨハネの誕生日であるが、典禮上誕生を祝われる聖人は、聖母と洗者ヨハネだけである。なぜなら、二人とも、原罪なしにこの世に生れ出たからである。聖母は御孕りのそもそも始めから原罪なく、聖ヨハネは生れ出るに先立って原罪から淨められていた。
 待降節中も、一月中も、聖ヨハネは屢々(しばしば)あらわれる。洗者聖ヨハネが、六ヵ月歳下の、みどり見のイエズスと遊んでいる繪を描いた画家がいるが、それは間違っている。なぜなら、聖ヨハネは恐らくヨルダン河で始めてイエズスに出合ったのだから。洗者聖ヨハネは、聖師の先驅を告げるにふさわしく、殉教し、八月二十九日がその斬首の記念日である。斬首の場面にも、先驅者の生涯の他の場面と同じように、多くの貴重な教訓が見出される。
 三、洗聖ヨハネは典禮のほか、信心業においても特別な扱いを受けていた。昔、洗者聖ヨハネに対する尊敬は非常にポピュラーであり、現代の「小さき花の聖テレジア」にする尊敬に(調子こそ少し違うけれど) 匹敵する。
 四、私もまた、一人の先駆者となるように祈ろう。先駆者には何が要請されるかを、注意深く調べよう。私は必要な条件、即ち心の寛さ、生活の厳しさ、信仰の焔、止むことなき熱心を身につけているであろうか。

          第三課 聖マリアとミサ

 一見、聖マリアと聖體との間には、相対的に二次的な関係しかないように見えるが、そうではない。この課における默想は、マリアが聖體に対するわれわれの信心に座を占めていなければ、われわれは聖體の秘蹟の真価にあずかることはできない、という事實を理解するにある。
 聖體は、秘跡としてであろうと、犠牲としてであろうと、マリアから離れれば損われるのであこのことを深く、かぐわしく悟ることができるように、このいつくしみ深い御母に、先ず願おう。

     一、聖マリアと、秘蹟としての聖體

 秘跡なる聖體とは何であろう。--それは、常に聖櫃のうちにいまし給い、そして洗禮によって聖とされたわれわれの靈魂のうちに、來り給う神人イエズスである。そして、この聖なる御體を拝領することにより、われわれの靈的生命は、その拜領に続く十分間、または十五分間、イエズスの聖なる御體の實在によって強められるのである。
 一、既に(第2週一課)默想したように、託身と聖變化との間には、まさしく並行線があった。一方にはマリアの光榮ある言葉(仰せの如く我に成れかし)、他方では司祭の光榮ある言葉(これ我が身体なり、これ我が血なり)。そして先に述べたように、祭壇上の、キリストの實在は、聖母の「仰せの如くわれになれかし」に依存するのである。
 更に深く掘り下げてみよう。   85
 司祭は三重の權能、即ちキリストの御體と御血に變化させる權能、こうして實在し給うイエズスを聖父に奉献する権能、このイエズスを信者に分配する權能を、持つ。
 a この三重の權能のうち、マリアは最初の權能を持たなかった。イエズスを秘蹟的に實在させることはできなかった。しかしマリアは、司祭に比しより多くまたより少く貰ったのである。より少なくというのは、マリアは品級の秘蹟を受けていないからである。より多くと云うのは、即ち司祭が祕蹟的實在を聖主に興えるのに反し、マリアは自然的實在を興えたからである。司祭は、託身し給うた御言を祭壇にくだらせる。マリアはこれを胎内即ち、いとも親しくふさわしい祭壇にくだらせた。司祭はその際、聖變化の言葉を発言するだけであるが、マリアは「仰せの如くわれに成れかし」の言葉のみでなく、自分の肉と血をも聖主に供えたのである。マリアこそキリストに、犠牲となるべき運命を帯びたキリストの御體を興えたのである。
 b 奉献の權能についてはどう云えるだろうか。ジャンヌ・ダルクの時代にパリ大學の総長だったジェルソン (Gerson) は、マグニフィカートに關する論説の第九において、いみじくも次のように云っている。「いとさいわいなる聖マリアの魂には、勿論、司祭の資格は記されてなかった。それにも拘らず聖マリアは、王的司祭衆のすべてに優る位置を興えられた。それは、聖體を聖別するためでなく、そのマリアの心における祭壇上で、純粋な、満たされた、完全なホスチア (捧物)を捧げるためであった」と。
 犠牲への準備として過ごした三十三年の間、マリアはイエズスを捧げ通した。そしてカルワリオにおいてもマリアは、犠牲を捧げる者の態度そのまま、十字架のもとにたたずみ、悲しみに刺し貫かれた心を通じて、聖なる犠牲に対し禮拜を捧げたのである。それは、典禮上の司祭職ではないが、それよりも深く、また優れた何物かである。
 イズエスが最後の息をひきとり、聖ヨハネが述べているように(ヨハネ19-34)御脇腹より血と水が流れ出たとき、世のために聖父に、この血と水とを捧げ得た人は誰であろう。それは、公けには 云われていないことだが、普通に考えても、聖マリア、即ち、永遠の司祭に親しく結ばれていた聖マリア、この犠牲の御母、以外の誰でもなかったであろう。
 c 司祭のもつ第三の權能、即ちキリストの御體、御血を分配する権能は、元をただせば聖母から受けついだものなのである。聖母は自分自身を與えたのに反し、司祭たちは先ず最初にマリアから受けたものしか與えることができない。われわれが拝領するキリストの御肉は、神の子羊を世に齎され聖母以外の誰からも齎なかったのである。
 初代教會の教父たちは(二世紀のAbercioの有名な碑銘)、信者たちが子羊の、生命を與える肉を拝領するときに、この肉が誰から齎されたかということを忘れないように勧めていた。彼らが拝領の準備をし、神に感謝するときには、現代のわれわれよりも、ずっとマリアのことに心をくばっていた。彼らにおいて度々マリアは「善き牧者」に比較され、その胎内の祝せられた果、即ち胎内に準備され、祭壇の秘蹟において人々に分配される「天使のパン」を以て、マリアは常に教会を養っていた。
 ここで特にマリアと秘蹟たる聖體を默想するとき、前述の三つの權能のうち、最初のが一番興味深い。二番目のは犠牲としての聖体におけるマリアの役割を、われわれに教えているのである。
 ここではただ、イエズスを最初に齎したのがマリアであることを銘記しよう。イエズスがわれわれのためミサ毎に祭壇上に實際に現われ給い、生き返り給うと云えるならば、その度毎にマリアがいつも大きな役割を演じているのである。初めて聖主をわれわれに齎したマリアこそ、真実に聖体容器(チボリウム)であるイエズスが来り給う度毎に、この聖なる贈物(イエズス)は、いつも同じ、汚れなき聖体容器から生れ出で給うのである。
 二、更にキリストとは、最初に生れたイエズスだけのことではなく、聖父の意に叶った御獨子の手足である所の、われわれ全體を指す。 マリアは、「全きキリスト」の御母として(聖霊の働きによってである)神人としての實在をイエズスに興えるだけでなく、更に、われわれ全體に超自然的生命を與えることにより、われわれをキリストの生ける手足とするという役割を演じている。
 われわれの靈的生命を豊かにする偉大な方法は、即ち聖体である。このわれわれの魂を豊かに する良き方法の源にマリアのいることを、どうして否定できようか。マリアはただ一度われわれにイエズスを與えるために取次いだだけでなく、イエズスがわれわれに来り給う度毎に、マリアはまた仲立ちなさる。そして、母としての取次の価値は、云うまでもなく、われわれを豊かにする超自然的なものの価値と釣り合っている。
 換言すれば、キリストの肉身的體の御母として、更にキリストの神秘的體の御母として、マリアはわれわれに聖體が輿えられる度毎に取次ぎをなさるのである。
 こう考えてみれば、われわれの靈的生命を強めるために定められたこの聖體の偉大な秘蹟に近づく度毎に、マリアに頼り、マリアに助けを乞い、マリアに訴えないわけはないであろう。普通の道順から云っても、聖體のイエズスに達するためには、聖體容器であるマリア、また仲介者なるマリアを経るのが當り前ではないだろうか。生命のパンはマリアを通じてわれわれの靈魂の中に来られたのであるから、われわれも生命のパンに到達するために、更に一層マリアを経て進んで行こう。マリアは道のりの大部分を進ませて下さったのだから、残り少い道のりも、マリアに向って歩もうではないか。
 馬槽で、羊飼も三人の博士も、イエズスを指し示すマリアを見出したのである。「イエズスの母そこに居れり」と福音書 (ヨハネ2-1)は述べている、祭壇で再現される馬槽にも、マリアがやはり居て「お近づきなさい、私の御子を求めているのですか。さあ、ここにおいでです」と申される。
 われわれは、聖體拜領や聖體訪問のときに、それにふさわしい気持や、禮拜、讃美、感謝の勤めを十分捧げることができない場合が多い。それ故、マリアの汚れなき聖心の熱情、禮拜、讃美、感謝を聖主に捧げようではないか。しかし、そうは云え、このマリアに則った捧げ方が、常に自明的であり、聖體に近づくときただこの一様の方法しかあり得ない、と云うわけではない。とにかく、マリアに對する信心にひたることによって、われわれの聖體に対する信心も、得る所が疑いなく大なのである。1

     二、聖マリアと、犠牲としての聖體   

 一、カルワリオにてイエズスは、御一人だけ犠牲になるのを好み給わなかった。十字架の柱のもとにはマリアがいた。云うまでもなく、キリストは神と人との間を仲介する唯一の仲介者にてましますが、キリストは同時に、マリアにも贖罪の業における一役を與えんと欲し給うたのである。われわれもキリストの四肢として、キリストの御受難の足りない所を補う立場にあるのだから、ましてキリスト信者の第一人者なるマリアの使命は非常な重大さを帯びている。勿論この場合、罪を贖うイエズスの功は、正確に等値的な功、即ち de condigno の功であるに反し、マリアの功は、(我らの功と同じく) 合宜的の功、即ち de congruo の功であるが、神がマリアの功を要求し給うた以上、マリアの功は贖罪の業において、最も重要なものであったと云わねばならない。
 理窟の上では、贖罪の業に合宜的な功が必要でなかったとしても、事實上、必要であり、マリアが力を貸さない限り、われわれは一人も贖われないのである。なぜなら、マリアの仲介は普遍的なもの、即ち一人残らず全人類に及ぶものだからである。
 二、ミサにおける犠牲が十字架上のそれと同じである以上、カルワリオにて特別の役を演じなければならなかったマリアが、ミサにおける御子の無血の犠牲に際して、大役を演じないでいるということは考えられない。カルワリオから共贖者マリアを省くなら、神の爲し給うたままの贖罪に傷をつけることになる。無限の唯一の仲介者イエズスの傍にて事實仲介を爲す、いとも聖なるマリアを、ミサの犠牲から省いてしまえば、ミサの捧物は、もはや十字架上のそれの完全な寫しとは云えなくなってしまう。なぜなら、ミサは重要な構成要素を失うことになり、また神が計画し、實現し、そして今なお實行し給いつつある聖なる計画が、きずものになってしまうからである。
 三、それ以上何か云えるであろうか。--然り。すべてのキリスト信者がイエズス・キリストの御體に結ばれるという教義 incorporation を利用するならば、云えるであろう。
 誰しも、マリアがキリスト信者の初花、眞實のキリスト信者であることを肯定する。そもそも信者は誰も、洗禮によって唯一の大司祭イエズスの肢(えだ)の一つとなり、秘蹟的司祭職ではないにせよ霊的な、王的な、真實の司祭職を興えられているのである。聖アウグスチノは云った。「われわれが、あの神秘的な塗油を受けたことによって皆キリスト信者と呼ばれているように、われわれは、唯一の大司祭のを肢(えだ)を為しているが故に、また誰も司祭なのである。使徒聖ペトロ(ペトロ前2-9参照)が聖なる民と王的司祭衆とについて述べたときも、まさにこの點を仄めかした」と。
 一般信者でさえこの通りだとすれば、マリアにおいては、なおさらである。 マリアはこの王的司祭職を、實に王的に有していた。その司祭職は前述のように、聖變化させる權能を持たない。即ちマリアは、秘蹟的司祭職、典禮的司祭職を有していなかった。しかし、多くの著作家が一致して認めているように、聖母はキリストの肢のうちの最初の御者であったから、マリアは神秘的司祭職の塗油を測り知れないほど受けていたであろう。著作家たちは次のように論じている
 幸いなるマリアは、すべての天使、すべての聖人の受けた聖寵を合せた以上の、多くの聖寵を一身に受けていた。その魂の壮麗さは、われわれの想像し得る聖徳を遙かに超えるものである。そして、聖トーマス・アキナスは、マリアの美しさは「神性の境に接する」と云っている。他のいかなる人間においても想定することのできないほどの聖寵の充満を聖母は頂いたのである。のみならず、いかなる美、いかなる特権も不足していないのである。
 こうして論理上まさに、マリアは秘蹟的司祭職を受けてはいなかったが、マリアは司祭獨特の内的な賜、司祭職の比類なき權能に必要な特種の恩寵、それから最も司祭的な徳の習性なども惠まれていたのである。例えば、聖アントニノは、或る日フィレンツェで説教中(他の幾人かの教父達も述べていることではあるが)、神の母は品級の秘蹟は勿論受けていなかったけれども、司祭職に等しい所の尊厳、司祭を司祭たらしめる品級の秘蹟に含まれた所の聖寵、聖靈が興え給う各階級の聖職(司教職、教皇職を含む)に必要な獨特の徳をも、マリアは神から興えられていた、と断言した。
 聖アルベルトは、蔵言八章二三節の「われは永遠の昔より叙品された」という言葉(尤も箴言の真の意味は「品級の秘跡を受けた」とは似ても似つかないものであり、「我は永遠の昔より建てられた」という意味でしかないが、聖アルベルトはこれを「叙品された」という意味にもじったのである。彼の基礎となっているこの思想は誤ってはいない)を用いて、マリアをして一風變った、暗示的な説明を語らせている。「永遠の御父は悪魔を追いはらうために私(マリア)を祓魔師になし給うた。聖殿に潔い人々を入れ、汚れた人々を追いはらうために私を守門になし給うた。予言者の述べた神托が私の身に實現されるので私を讀師になし給うた。光を與える黎明と暁の星に比較されるから、私を侍祭になし給うた。聖なる御言を觀想し、そして、聖書記者に傳えるために心に御言の業の記憶をとどめたので、永遠の御父は私を副助祭になし給うた。御血が人々の飲料となるように、私は人々の靈魂の糧であるイエズス・キリストの御体を形成し、分配するので、私は助祭と司祭に叙品された。また私はすべての教會に對する牧者的思いやりによって、司教とされた。そして最後に私は、すべての人類の母であり、地上と天國、煉獄と地獄において教皇よりも大なる權能をもっているので、私は教皇にされた」と。
 このようなわけであるから、聖なる司祭イエズスが祭壇においてその使命を果しつつあるとき、 マリアも祭壇の側にいると結論することは独断的であろうか。聖祭の功徳を十二分に受けようと思うときマリアの守護を願うのが最上の方法であると断定することは一人よがりであろうか。われわれの霊的(王的)司祭職は常に働かねばならず、殊にそれが司祭の秘的司祭職と共同すると(即ちミサの間に)最も強く働かねばならないのであるが、その瞬間に、マリア以外の誰が、われわれを、霊的司祭職の真髄に導き入れることができるであろうか。
 四、ミサの不思議な性質について考えてみよう。 貧しいわれわれは聖祭に列するとき、自分自身、或いは自分の持つもの以外の何も捧げることができないであろう。幸いにマリアがここにいる。典礼は繰り返し繰り返し何度マリアの御名を呼ぶことであろう。 告白の祈りにおいて、信教において、「聖なる三位よ・・・・・ 献物を受け給え・・・・」において、「生ける者の記憶」につづく「聖なる遍巧によりて…」において、主禱文につづく「主よ、願わくはわれらを・・・ 悪より救い給え」においては云うまでもなく、教皇レオ十三世以来祭壇のもとで唱えられるようになった祈禱文(ミサ後の聖会のための祈り)においても、マリアの御名が上げられている。われわれの虚無と聖なる犠牲の無限大との間にあ大きな淵を埋めることのできるのは、マリアのみであろう。
 もし今までミサ聖祭にあずかりながら、そこから期待されるほどの恩恵を得られずにいるとすれば、それは、マリアに對する信心が不十分であって、われわれが犠牲の献物に沈潜すべきとき自分の力に頼り過ぎて、マリアの力を借りなかったためであるまいか。
 そんなことでは、われわれのすべての行動を鼓舞し行動の魂でなければならないマリアが、われわれの霊的生命のそとに居るようなものである。「イエズスの母そこに居れり」(ヨハネ2-1)。マリアの捧げた犠牲を、御子の献げた犠牲に併せ、われわれの奉献の際の努力を、マリアの力強い守護に合せるのは、何と望ましいことであろう。
 われわれも思念の上では、カルワリオにおけるマリアの傍らに立とう。カルワリオにおいてイエズスは、聖父父の光栄をあげ、われわれの罪を贖うため、全人類の代りに御自身を捧げ給うのであるだが、このイエズスの御心の境地に御母と共にわれわれも入れるよう、御母に向って願おう。
 スタバト・マーテル (Stait Mater)の歌から霊感を受けて、われわれもまた次のように云えるであろう。「御母よ、私にも又御子の傷をお印下さい。どうか御子の苦しみを御身と共に同情し、 御身の苦痛を共にし、罪深い哀れむべき世間のため御身と共に悲しみ、そして贖罪の犠牲の常に捧げられるこのミサにおいて、これに列席を許された私をして、御身と共に、この犠牲をできる限り完きものとするため、私の身を捧げさせて下さい」

          第四課 祈れ、兄弟たちよ (Orate, fratres)     
 
 心靈修業は實に特に祈りの時であり、日常の仕事と縁を切ってしまったこの心靈修業期間中に聖なる省察、深い默想、神との靈的對話などを成功させるために、他のすべてを犠牲にしなければならない。読書、手仕事などは、祈禱の邪魔にならないで却って潜心の状態を助ける場合にだけ、許されるのである。
 このようなわけで、司祭は、奉献が終ってミサ典文が始まる前に、会集に向って、神に一層専心することを勧めるために「兄弟たちよ、祈れ……」 オラーテ、 フラートレス (Orate, fratres)云う。われわれはこの勸告に従わなければならない。「兄弟たちよ、祈れ……」 司祭は聲をあげてこう云いながら、会衆全部に聞えるように、手で丸く圓を描くのである。 この勧告は非常に大事だから、われわれはそれに、つんぼであってはならない。

      一、ミサはあらゆる種類の祈祷のモデルを示す

 一、念禱 殉教者の時代にミサは、(丁度今もなお聖金曜日の聖務の始めに、そうするように) 司祭がミサの祭壇の前に無言で身を平伏することから開始された。 われわれも聖祭にあずかる度毎に、遅刻しないだけでなく、 少しは早目に来て、やがて行われる偉大なミサのため、沈黙のうちに、準備をしなければならない。(自宅でもっと長い黙想をして来ることは言うまでもない)
 現在ミサでは、「生ける者の記憶」と「死せる者の記憶」の数分間と、司祭が御體と御血を拝領した後の暫時の沈默以外には、念禱はなされないことになっている。
 しかし念禱が含む教訓をよく體得しよう。
 二、口祷は
 a 密誦を唱える時のように、唇だけを動かし、聲を出さずに
 b ミサ典文の間などのように、低いで
 c 或る場合には聲をあげて、また時として屡々歌われることもある。
   連禱の形式をとって。 キリエ・エレイソン (Kyrie eleison)は、初代教會において、信仰を渇望する求道者、公の償いを命ぜられた罪人、牢獄や鑛山につながれた殉教者、乃至は教會全體、或いは特定の教會のために行われた嘆願の名残りである。 助祭が意向を述べると、皆で「キリエ・エレイソン」應えたのである。
 詩編の朗讀の形式をとって。階段祈禱の「天主よ、われ審き給え…………」や、洗手式の「主よ......われは手を洗わん」(詩篇25)のように。なお入祭文は、司祭が香部屋から祭壇に進むとき歌われた詩篇の名残である。
 祈願文の形式をとって。集祷文、密誦、聖体拜傾後の文のように。これらは、今日では、ほとんど定型的な祈願文となっているが、昔は、即興的に唱えられていたのである。祈願文は、神に呼びかけるときは「……し給う神よ」であり、神に嘆願するときは「……するを得しめ給え」であり、終わりは、いつも同じく「われらの主、イエズス・キリストによりて」で結ばれている。これらの定型的祈願文は、初期キリスト信者の、禮拝、信頼、信仰、嘆願などの心から自然に発する叫びや、ギリシャ教會のミサの祈願文に比べて、冷淡のように見えるかもしれないが、實はここにローマ的精神の特色が存する。即ち、信者個人の感情と熱心さは勿論、つけ加えられてよいのであるが、テキストとしては、表現の冗長(じょうちょう)より地味が望まれ、神秘的誇張よりも簡潔の方が望まれる。なぜならば、誇張された表現は、すべての信者に向くとは云えないからである。----それらの祈りを唱える前に、司祭は振りかえって「われら祈らん」 (Oremus) という。聖祭中には何度もこれが爲される。
 榮光誦 (Gloria) は特別に説明しなければならない。ミサにおける祈りは、嘆願とか悔みとかの祈りしかないわけではない。ミサ全體が一つの禮拜であるのみならず、グロリアは特に神の御栄えを歌っているのである。グロリアこそは最も純粋な祈りと云える。なぜなら、祈る人がもはや自分の事でなく、ただ神の事のみを考えているから。 本當の感謝は、貧しい自分の受けた數數のお恵みを神に感謝するだけでなく、神が御自身に具え給うた偉大さをも感謝するのである。「主の御榮えの大いなるがために謹みて感謝し奉る」
 ミサのグロリアを、日頃ミサを默想するときの、好きな題目としよう。特に愛する、射祷(呼祷)として、榮誦 (Gloria Patri) を採用しよう。少くとも、自分の利益、自己の欲求に心を奪われている靈をそこから引離すために。 先ず何よりも心がけるべきことは、神と神の利益のことでなければならない。
 祈祷文およびミサ典文の大部分のような、願い奉るための美しい祈りや、グロリアのような、大きな禮拜の祈りのほかに奉献の美しい祈りのあることを忘れてはならない。「至聖なる聖父よ受け入れ給え-----聖なる三位よ受け入れた給え----主よ御身に捧げ奉る」

      二、祭壇上の犠牲はそれ自體大いなる、禮拜、感謝、償い、嘆願を構成する  
 
 一、ミサと禮拜---禮拜はわれわれの第一の勤めである。だが、われわれはいかにして、神に ふさわしい敬意を拂うことができるであろうか。人間は、ただ一人では、それをなす力がない。ミサにおいては、われわれと共に、そしてわれわれの名において、十字架上のイエズスと一緒に、イエズスの、無限の禮拜の力が、聖父に引き渡されるのである。犠牲を捧げるものも、犧牲(いけにえ)に捧げられるもの(キリスト)も、聖性そのものである。こうして、この禮拜により、神の聖性に、十分なる光榮が帰せられたわけである。
 御言は、託身の前に、天においては聖父にし、對等者間の敬意しか捧げることができなかった。そこでは、禮拜をするものが、禮拜を受けるものに依存していると云う關係がなかったから、本當の意味の禮拜はなかった。御言は、人となり給うて以来、この地上から聖父に向け、(人間が神に対して現わす有限の賛美とともに)無限の価値のある敬意をも捧げることがおできになるようになった。なぜなら、御言は(人となった為被造物に結ばれた)人となり給うた後も御言はその神性を失い給うことはなかったから。
 二、ミサと罪の償い――人間は、罪を犯したので、元來虚無でありながら、神の無限なる稜威に傷をつけたとも云える。人間は同僚に對するように神にして云った。「君は存在しない。君の誠は意に介さない。僕は自分の好きなことをする。君の意思に敗けていないぞ」と。このようなわけだったから、人間の犯した罪は無限のものであった。或る侮辱がいかに重いかということは、侮辱を行った者の如何ではなく、侮辱を受けた者の如何によって測られるのだから。
 人間は、このような忌わしい行爲を、いかなる方法によって十分に補い、神に最もふさわしく償うことができようか。勿論それは不可能なことである。しかし、聖主が犠牲として御自分をお捧げになったその奉献は、人間として人類の名において捧げ給うたのみならず、同時に神としてお捧げになったので、無限の償いの価値値を持っている。聖主がカルワリオにおいて決定的なものとして爲し給うたと同じ事が、われわれの祭壇におけるミサの度毎に爲されるのである。
 三、ミサと感謝(Eucharistia エウカリスチアまたユーカリスチアという語は聖体の意味に用いられるが、語源上は感謝という意味にである。この点について後で第三週五課さらに良く黙想するが、ここでは次のことだけを指摘しよう)
 人間はこの世に生れ自然的および超自然的恵みを受けたので、神に感謝する義務がある。だが、その受けた恩寵と、それを與え給うた御者にふさわしい感謝を、いかにして捧げることができよ。
 沈黙だけがそれにふさわしいものであるだろう。詩篇(ヘブライ語原典によれば65-27)も「沈默は最上の讃美である」と述べている。フォリニョ(イタリア)の福者アンジェラ (Angela de Foligno) も、脱魂のときに「至善を含む至美」を見た後、次のように断言している。
 「私が何を見たかと仰言るのですか、それは彼御自身のほか何物でもありませんでした。それは一つの完全さ、それは内的で満ち溢れるような光であり、それを表現できる言葉も、それに比較できる何ものも、ありませんでした。體を有するものは何ものも見えませんでした。丁度天上 にましますが如く、そのときは地上にも同じく、彼はましましたのです」と。そして聖女は、彼女の見たもので而も表現できないものを説明するために「それは唇を閉じさせるような美でした」と述べている。
 神の偉大さに値する讃美を與える口は、ただイエズスの御口のみであった。なぜならイエズスは御言にてましますから。イエズスは肉となり給うて後も、無限なる聖父に無限なる光榮を歸する能力を失い給うことはなかったし、そして、御父に實にふさわしい讃美の捧物(ホスチア)ともなり給うたのである。
 四、ミサと嘆願 祈祷の四つ目の目的は嘆願(希願)、即ち願い奉ることである。嘆願は、また最も優れた祈りであるミサ聖祭の、四つ目の目的でもある。
 原則として物に缺けている者だけが、物を願うのである。聖主は天上のあらゆる寶を享有しているので、御自身のためには何も要求なさることはない。聖父が聖子に必要なものを何で拒み給おうか。
 しかし聖主はわれわれの代りを勤め給うた。 聖主はわれわれのうちの一人となることを欲し給うた(托身)。それのみならず、われわれのうちの一人一人を御自分のものとし、一つの「完きキリスト」においてわれわれ全部を御自身に一致させることを欲し給うた(アウグスチノが述べたように「キリストの体の充満」を欲し給う)。これこそ、われわれの體がキリストの御體に結ばれるという玄義である。
 イエズスは、われわれの要求を全部取りまとめ給う。人々のため犠牲となることも辞し給わなかったお蔭で、われわれの嘆願も、イエズスがわれわれの名によって御自らを聖父に供える場合に、聖父に受け納れられるのである。ヘブレオ書(10-19)が述べているように、キリストは御血によって聖所に入り給うたのであり、われわれも聖主のあとに従い、かつ聖主と一體となっているので、聖所に入り得るのである。われわれのキリストはその民のために「執り成しを爲さんとて常に活き給う」大司祭である(7-25)。ヨハネ福音書十七章における、次のキリストの司祭的祈りに耳を傾けよ(これはそのまま、そして屡々黙想しなければならない) 「父よ、父は御子(キリスト)には、萬民の上に權能を賜えり・・・・・・わが祈るは、われに賜いたる人々のためなり……汝のものはわがものなり……父よ、われに賜いたる人々を御名を以て護り給え・・・・・・わが喜びをかれらの身に圓満ならしめんがためなり・・・・・・ 願わくはかれを眞理のうちに聖ならしめ給え…… 父よ、これ汝のわれに在しわが汝に居るが如く、かれらもわれらに居りて一ならんためなり……願わくはわれに賜いし人々も、わが居るところにわれと共ならんことを。これ世界開闢以前よりわれを愛し給いてわれに賜いたるわが光榮を、かれらに見せんためなり……」
 そして聖主は、自分の願いが果して聞き入れられるかどうかと疑う嘆願者の如くでなく、必ず聞き入れられると確信せる者の如くに、祈り給うている。なぜなら、聖主は、祈りの相手(聖父)と一體であられるから(カ-ル・アダム著「キリスト真相」のうち「イエズスの祈祷」参照)。
 ミサの度毎に聖主は、最後の晩餐の高間における如く、無限の犠牲の讃美を繰りかえしつつ、聞き入れられるという権利を主張しておられる。それ故に、われわれの嘆願も、イエズスの聖心を經て目的を達そう。ただわれわれ自身のためだけでなく、世のために祈ろう。ミサの中の主禱文を通じて(主禱文において聖主は、われわれの願うべき事柄を言いつくしておおられ、主禱文は大抵の場合生聖體拜領の準備として、最も古い聖體の典禮にも見出されているが)次の事柄を願おう。
 -聖主の御名の尊まれんことを
 -御園のらんことを
 -御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを
 この祈りの先を続けて強調するならば、第一に「魂の糧」これは聖體拝領のうちにわれわれが求めに行く糧のことであり、終りに「われらを悪より救い給え」という「悪」とは即ち、この聖なる糧よりわれわれを遠ざけキリスト御自身の祈りを無駄に終らせるところの罪のことである。

      第五課 アーメン

 今度は「アーメン」という一語につき默想すべき段階である。
 キリストの全生涯はアーメン (Amen)という言葉、或いは、これと同じ意味のイタ・パーテ(Ita Pater)「然り、父よ」(マテオ11-26)という言葉に總括される。人祖の不從順を補うために、神の御言は託身により御自身(即ち無限の御者、聖父に等しき御者)を、従順にして服せる状態に置くことを望み給うた。主は
「従える者となり給いしなり」(フイリッピ2-8)。主は一生涯、服従する。そして、死(しかも十字架上の死)に至るまで従える者となり給うたのである。
 私もまた「もう一人のキリスト」とならなければならない。それ故に、キリストの内心の基礎をなしていた「然り、父よ」という祈りを私自身の祈りとしよう。

     一、職責を受け容れること

 一、職責というものは、各自を聖ならしめるための枠組である。私は德を實行するに當って、いわば多少人工的な夢のような環境において實行するのではなく、一定の仕事を一定の環境において實行しなければならない。
 二、神は摂理という意思を持っておられ、攝理からわれわれに関する助かりと聖性が出て来るのである。私がもし、摂理の望み給う所に居なければ、私はこれら多くの聖寵を失うであろう。いずこにも、私の運命を保障するに必要な最少限の聖籠はあるにはあるが、私の霊的生活に有益で必要な多くの尊い助け手の聖寵は、神が私に望み給う所に私が居ない限り得られないのである。
 そういうわけであるから、職域を選擇することは重大事であり、また神の御光りに照らされて選んだ職域においてその本務を忠實に果すことも重大事である。
 三、屢々逃げたくなるものである。特に日々の仕事が單調であり、われわれの夢みていたものに反する場合にそうである。先ず何よりも自分の義務に忠実であること。そして熱心に努力し、自分の専門に熟達すること。何かする場合にはそれを立派にするように心がけること(勿論あまり細かくてもいけないが十分慎重に仕事をしなければならない)。
 四、仕事に當たるときには、できる事なら喜びを以て、むしろ熱狂的な調子をこめて、しなければならない。「忍耐のまことの姿は、義務が負担であるということを全然気づかないことである」とよく云われる。

      二、種々の事件が齎すもの

 一、戰争、同盟、革命のように一般社会にかかわりあるもの
 a 怖れというものは、屢々恵みであり、何もかも無くなるということは解放である(テイボン曰く「惨事ほど ものを簡単化するものはない)ということを自分に云い聞かせよ。
 b もっとひどい出来事もあり得ると思って自ら慰めとせよ。 怖れているほどの苦しみはめたにこない。(それはちょうど我々が期待していた喜びが非常にまれなのと同じよう)。
 c すべてのものを通して神は御業を行い給うということを悟れをれ
 d われわれの時代は、幾つかの缺陷があるにも拘らず
  美しいものである。というのは、すべての問題は既に提供されており、神が必要であることを表している。
  最上のものである。と云うのは、この時代は私が自由になし得る唯一のものである。私はそれより最善 の結果を引き出さねばならない。
  もし危険がそのうちにひそまれているにしても、それは私にとり良いものである。危険があればこそ偉大な 靈は生き甲斐がある。
 二、私の周園の人にかかわりあるもの
 a 喜びも悲しみも、周園の人と一緒にすること。
 b それらの人々のため安易な生活を望まないこと。なぜなら、安易はわれわれを弱くするからである。
 c それらの人々の世俗的および靈的の利害の問題をすべて神に委せること。
 三、自分だけにかかわりあるもの
 a 喪--既にこの世を去った人々のために永遠の生命を望み、それを信ずること。これらの人々は御父の家に行ったのである。
  彼らのために祈ること
    この地上の生活はほとんど意味のないものであるという気持ちを彼らから受け取ること。
  b 財産の喪失など 
  生きるために(更に、死ぬために)これほど沢山の物が必要であろうか。
    仕事がつらければつらいほどなおさら喜ぶこと。
    
             三、 健康状態および精神の気分が齎すもの

  一、健康上
  a 病気
  それを過大観しないこと
  一度に今日一日だけを生きること
  もしできるなら、苦を忘れるために働くこと
  平然として療養すること(自分の苦についてあまり語らないこと)
  超自然を上手に利用して向上に努力すること
 b 老年 フェーバー師 (Faber)は「病弱者のための注意」という題目のもとに、幾つかの賢明な注意を興えているから、それから少し書き抜いてみよう。
 口祷や念祷の長いものはやめて、また、信心を却って働かせなくするような長い聖務をやめて、 それよりも、途中で屢々休みながら霊的読書をした方がよい。これは餘り疲れさせないし、神との一致を容易ならしめる。
 聖主の生涯、われわれに対す御愛るなど、特に託身について黙想することとし、四終よびそれに関連した出来事はり黙想しない方がよい。換言すれば、題目としては靈魂の静寂さを失わせるほど怖ろしい事實よりも、平和を與え慰めるような事を選ぶのがよい。
 ずっと以前に犯した罪は余り考えるな。
 もったいぶって批判したり、批評したりする悪い癖をよく注意せよ。「舌をつつしむことは弱者にとり克己の偉大な職場である」
 寛大な親切心を持ち、いらいらした感情に負けるな。
 それと同時に、普通以上の同情心も警戒せよ。
  二、性向
 あるがままの自分を見極めること。試煉はわれわれの自由にならない。いつも平和であるように最善をつくすこと。感情の苦しいおののきの内にも、意思により絶えず平和でいられるのである。このことは、色々の異るプランのもとに行うことができる。
 ジャンヌ・ダルクのように、「すべてを良い方に解釋する」よう努めること。
 いつも客観的であること。ものごとを大げさにしないこと。なぜなら、無意味な苦しみは屢々このような事から起るのであろう。
 霊的方面においては特に勇気づけてくれるような題目を利用すること。

     四、霊的傾向が齎すもの 

  一、乾燥
 信仰の精神が完全になるよう自己を修めること。教義(ドグマ)に眞實の優値を與えること。自分の感情よりも教義の方に重きを置くこと。
 信心生活においては、なるべく自分のことは考えないこと。即ち、神にする感嘆、愛、人々の魂についての思索などが上位を占める遠心的な霊性をわがものにして、自分の苦しさなどは餘り考慮しないこと。
 二、己がみじめさに對する敏感
 それは謙遜を生む場合があるから、或る程度まで許されるが、失望させるほどになったり熱心を冷ますほど強くなれば宜しくない。
 聖主が神として義人、罪なき者を好み給うとしても、人として、罪ある者を一層愛し給う、ということも忘れてはならない。なぜなら、キリストは罪ある人々を救うためにこの世に来られたのであるから。ボスエがノートル・ダム大聖堂で行った御降誕に闘する説教を参照せよ。或いは聖ベルナルドの、諸聖人の祝日の最初の、即ち、あわれみの御父は必然的にまた罪人の御父である、という言葉、或いはサレジオ聖フランシスコの二番目の訓話「私はいつも慈愛(ミゼリコルド)の王座はわれわれの貧(ミゼ-ル)しさであると云って来た」という言葉、或いは教皇ピオ九世が一八七〇年にずシネシー(イタリアに近いフランスの町)の「聖母訪問童貞會聖堂造營」のためのいわゆる奉加帳の冒頭に、大きな慰めを含んでいるが故に、書き入れたいと望んだ「神は、淨配としてふさわしいほど清らかな魂を見出せないときには、それらの靈魂に病を持たせ、そして醫師としてわれわれを訪問し給うのである」という言葉を参照せよ。
 三、布教の無能力
 やり方に誤りがないか、方法に缺陷がないか、技術を信頼し過ぎてはいないか、人間的方法を餘に見過ぎていないか、などを良く調べること。
 眞理を拒む者の善意を云々できるのは神だけであることを忘れぬこと。
 われわれの失敗や無力さを神に捧げることは、非常に贖いのためになる。

         第六課 捧物としての犠牲であるミサ   
      
 この課の默想の目的は、生活において、できるだけ完全な形に、御旨を實現させることにある。私も「もう一人のキリスト」とならなければならない。キリストの絶え間なき息、いつも持たれた渇望は、一體何であったろうか。それはイタ・パーテル (Ita Pater) 「然り、父よ、かくの如きは御心にかないし故なり」という叫び、および、 アーメン (Amen) 「お望みのままに」であった。このイエズスの心の基本的な傾向をわがものとしたとき、私も始めて「もう一人のキリスト」となれるのである。
 しかし、そこまで達するには、神が私に都合のよいもの、或いは必要なものとして示されたものを、採用するよう努めなければならない。これらの方法につき具体的な形の決心が必要である。有益な作戦計画を作るには、今こそこれについて考えなければならない。
 次のようなことを默想して力を得るのが一番良い。

     一、ミサがいかにして献物としての犠牲となり得るか

 トリエントの公會議は宣言した。「ミサで行われる聖なる犧牲は、かつて十字架上で御血を流して御自らを捧げ給うたキリストが、また再び、そして今度は御血を流さず、このミサのうちに現存し給い、そして犠牲に供せられ給うのである。實に、ホスチアも同一であり、司祭も同一である。かつては十字架上で御自らを捧げ給い、今は使徒たちの行う聖役を通じて御自らを捧げ拾うのである。違うのは、捧げ方だけである」と。
 この聲明は、次の三つのことを断言している。
 一、ミサの犠牲と、十字架上の犠牲は、ただ十字架上においてはその献物のため血が流されミサにおいては流されないという違いがあるのみで、同一の犠牲である。
 二、十字架上にても、ミサにても、いずれも司祭が同じなので、同一の犠牲である。
 十字架において神に聖なる犠牲を捧げたのは誰であったろうか。それは聖主であった。
 ミサにおいて犠牲を捧げる者は誰であろうか。見たところでは、司祭である。しかし、彼はた自分のことをするためにそこに居るのではない。そして、その手と唇を聖主にお貸しするのである。さればこそ、パンと葡萄酒をキリストの御体と御血に突如として變える、美しい聖變化の言葉を唱えるとき、司祭は第三者のことを云う如く「これキリストの體なり」とは云わず、唯一の司祭たる主イエズスに成り切って直接「これが體なり」と云うのである。勿論この場合その體とは、司祭の人間としての體ではなく、司祭が代理をつとめているところのイエズス御自身の體である
 三、司祭、即ち奉献者が同一であるばかりでなく、捧げられる犠牲(いけにえ)もまた同じなので、同一の議牲なのである。
 カルワリオで犠牲(いけにえ)にされたのは誰であったろうか、救世主イエズスであった。よく観察すればわかることである。そして祭壇で犠牲(いけにえ)にされるのは誰であろうか。ここでもまた、それは救世主イエズスである。聖木曜日の最後の晩餐における最初の聖體に始まり、十字架上の「成り終わり」まで続いた状態においての、イエズスである。後ほどこれについて更に深く默想しよう。多くの著述家は、このパンと葡萄酒との二つにわけられた聖變化のうちに、聖主が十字架上で御血のすべてを失い御體と御血とに分離され給うた姿を見てとっている。
 四、このミサの否定し得ない威厳故に、教會は信者たちに、成るべく多くミサに與ことを勧めている。日曜日はミサに與らなければならないし、その他の日も任意に與るように。

     二、自分も聖主と共に己を捧げること

 一、われわれがキリストと一の體を形成するという教義は、このことを強く要求している。われわれは洗礼によって、頭であるキリストと「唯一」の一體を形成したのであるが、それは、われわれがキリストから受ける威厳を盾にとって何もせずに無気力でいてよい、ということではない。キリストが救世の行為をなし給う度毎に、われわれは、生けるキリストの眞實の延長としてキリストと共に、役を果たさなければならない。 キリストがわれわれ全體をその神秘の一致に引き入れ、素晴らしい複數として自らを世のため御父に捧げ給うとき、云うまでもなくわれわれはキリストと一なのであるから、キリストと共に自分を捧げなければならない。手足を頭から離すことはできない。私という者が位置を變えるとき、私全體が移動するのであって、一つの手、または片目、片足が「私はここに踏みとどまる」と云って、全體の活動に参加せずにいることはあり得ない。キリストが「全きキリスト」としての完全な姿を見せ給い、かの偉大な行爲のため活躍し給うとき、私はキリストと一致しキリストと共に己を捧げ、更にキリストと共に、聖なる司祭と聖なる犠牲とに参加しなければならない。私が洗禮によって受けた「王的司祭職」(それは勿論霊的なものに過ぎないが、非常に強い)は、私にそのことを要求する。もしこれを實踐しなかったとすれば、私のキリスト的精神は無に等しい。
 二、このことは、ミサの祈りの言葉が複数形になっていることにも表現されている。
 司祭は、極めて稀にしか單數形を自分の名において用いない。大抵の場合、司祭は、その民全の名において、信者全體(複数形)としてに願い奉り、犠牲を捧げるのである。
 このことは奉献の部の祈りにおいて明らかに現われる。「主よ、われらはこの救霊のカリスを主に捧げ奉る。そは、われらと全世界との救霊のためなり」 そして、すぐあとで、「主よ、願わくは深くへりくだり且つ痛悔の心を以て捧げるわれらを受け納れ給わんことを。 主なる天主、われらの犠牲をば…」続いて、「祈れ、兄弟たちよ、われと汝との捧物が全能の父なる天主に叶わんために」と。これに對し侍者は、すべての信者を代表して、「願わくは献物をわれらにも、全聖會にも······」と答える。
 「生ける者の記憶」において、司祭は、始めから聖なる犠牲を教會のため、頭と手足とを含めてミサに輿るすべての人たちのため、殊にミサを立てることを願った人たちのために捧げるのである。(ミサのもたらす色々のお恵みは、この最後の者、即ちミサを願ったものが一番豊かに受けるのである。昔、信者たちはパンと葡萄酒を持って来た。しかし現在は、これにかえ信者は謝礼金を出し、司祭は「この賛美の犠牲を捧げる所の僕、婢何某を記憶し給え」と、その人の名あげて祈るいるのである。)
 聖變化の後にも複数形で祈られる。 「天主よ、これらの物を、主の聖なる天使の手を以て、主のいとも尊き祭壇に運ばしめ給え・・・・・・拝領し奉るわれらをして、すべての天の祝福に充たさしめ給わんことを」
 三、ミサの禮式の幾つかも、複数形を表現している。例えば、
 一滴の水を、カリス(杯)に入っている葡萄酒に混ぜること
 殉教者の聖遺物が、祭壇の石の中に安置されてあること
 献物の上に司祭が手を伸べる掩手の動作。この動作をボスエは次のように説明している。聖なる司祭が御自らと、キリスト信者全體とを、これからいよいよ聖変化させるパンと葡萄酒と共に捧げ、そしてその全體が唯一のそして共同の献物であるということを示している、と。(この掩手は、𦾔約時代に行われそして同じ意味を持つていた動作をここに寫したものである)
 初期キリスト教時代に行われた「共同聖祭」即ち数名で共同に捧げた祭 (concélébration)の慣習は(現在では叙品式だけに名残りをとどめているが)明らかに複數形を示しており、それはすべての司祭が共同参加すること、そして司祭と共に信者全部が共同參加する點を強調していたのである。

           第七課 彼に由りて、彼と共に、彼において
               (per ipsum, cum ipso, in ipso)

 ローマの昔の典禮においては、司祭は聖なる形色(聖體)をさく丁度その時、それらを揚げて信者達に禮拜させたのである。
 その後これには二重の變革が起った。即ちパンをさくのは所謂「小さき奉擧』より少しあとですることに改められ、また、特に一二〇八年に亡くなったパリ司教ユード・ドゥ・シュリー(Eudesde Sully)以来、聖變化の直後にあの荘厳な奉擧が行われることがならわしとなったのである。幾人かの人は、この荘厳な奉舉はベランジェ(Béranger)の異端(聖體におけるキリストの實在を霊的實在に過ぎないと説いた異端)に對抗する目的で行われたものであると見た。しかし他の人たちは荘厳な奉擧は、パンは事實上、葡萄酒の聖變化の後にしか聖變化されないと説いていたパリ大學の神者ビエール・ドゥ・シャシール(Pierre de Chantre) の意見に抗議する目的で行われたと見ている(この人の見方の方が正当らしいなぜな、ユード・ドゥ・シュリーの指令が出たときには、ベランジェはもう一世紀前に死んでいたから)。全教會は、この「奉擧」を採用すると共に、別のパリ司教ギョーム・ドゥ・セニュレ (Guillaume de Seignelay) が一二二〇年にこの奉擧を信者たちに合圖するために定めた鈴の使用をも採用した。
  〔註〕御血の入ったカリスの奉擧は一三一一年即ちアヴィニョンの最初の教皇クレメンス五世のもと    に実施され、そしてこの儀式は十六世紀の終りにトリエントの公会議のミサ典書によって始めて    義務づけられたのである。
 「小さき奉擧」は存續したけれども、形式は萎縮した。むしろ、この動作の直ぐ前、聖別されたホスチアを以てカリスの上に十字架の記を三度しるしつつ司祭の唱える、次の記憶すべき言葉の方が重要である。「彼に由りて、彼と共に、また彼において、聖霊と共にすべての光榮と讃美とは主に歸すべきなり」

     一、彼に由りて

 一、アダムに由って超自然的生命は失われた。第二のアダム(キリスト)は我々を聖なる特権に復帰せしめるため、自らを犠牲にする。御言は永遠の響きを持って「見よ、我は来る」と発言する。その時が来ると御言は地上に来たり給い、その御降誕、御生涯、御死去は我々を救う。至聖なる者と我々との間に罪によって出来た淵は、埋められることになる。惨めな我々と、いと高き御者との間には、何者かがその腕を十字の形に広げて、裏切れる人類の上に神の審判の降るのを防ぐのである。聖パウロの言うように、人たるキリストが中間にましまし、愛の奇跡によって仲介し、我々に助かりを得させるのである。
 二、キリストなくして救霊はあり得ない。聖主は唯一の通路であり、聖主は真理であり、聖主は原理であるり、聖主はアルファであり、オメガーである。聖主は唯一の道である「我道なり」。聖主は唯一の門である「我は門なり」。そしてどの羊も、聖主の所を通らずして羊小屋に入ることは出来ない。
 「小さき奉擧」の「彼によりて」は、先ずこのことを我々に思い起こさせる。ミサにおいて聖主は仲介者としての役割、態度そのまま、我々に現れ給う。いと高き所には、御父、聖三位。即ち「聖なる父、受け入れ給え」「聖三位よ、受け入れ給え」と、キリストによって捧げられた教会の賛美は、三重の聖なる神に捧げられるのである。一番低い所には人間。即ち、虚無の踊り場には、罪を犯した憐れむべき者でありながら、罪を悔やみ、そして善を願いつつも、その数限りない罪に相応しい償いを自分の力だけでは神へ捧げる能力のない人類が居るのである。無限の施工者と、虚無の罪人の間には、イエズスが、我々のために御自らを捧げ、我々すべてを後ろに控えたまま御父の前に現れ、赦しとお恵みの扉を開き給うのである。これが即ちミサである。
 三、このようなわけであるから、聖祭におけるすべての祈願は「我らの主イエズス・キリストに由りて」という語で結ばれる。キリストの仲介を阻むものはない。御父のすべての宝の鍵を持っておられるのは御子でないか。二重の意味においてそうである。先ず、「御父と共に聖霊との一致のうちに世々に生き且つ治め給う御子」なる御言としてである。第二に、贖われた人類の頭としてである。この後者については、神秘體の頭としての聖主を黙想するとき、即ち「彼において」を黙想するときに掘り下げよう。

     二、彼と共に

 一、ここに至っては、仲介だけでなく「共同」と「同伴」が問題となるのである。聖主は我々に道を開き給うただけでない。道すがら聖主は我々と共にあることを望み給うたのである。仲介者は我々の上にいるに反し、同伴者は我々の傍らにいる。
 トビアを案内した天使ラファエルを想うこと。そしてエンマウスに赴く二人の弟子と同道し給うた聖主を思うこと。(ルカ25・13)
 二、我々は
 a 主の模範が我々を引き上げてくれなければ、苦難、暗黒、失望、悲歎の時、どうなるであろうか。
 b 主の聖寵がなければ
  -先立つ聖寵がなければ、どうなるであろう。
  -手助けする聖寵がなければ、どうなるであろう。この聖寵は我々が最も惨めな苦しみにある時我々を訪れることを忘れない。迷える羊を探しに来るよき牧者を想うこと。(ルカ15・4)。何かの家具の後ろに転がり込んでしまった古代ギリシャの銀貨を、あちこちと探し回る主婦(ルカ15・8)。家出した放蕩息子が、旅先で大饑饉に逢い、或る小作場で、豚の食う豆がらで己が腹を満たしたいと望んだが、豆がらさえ呉れる人がなかった時、その放蕩息子を襲った後悔の念(ルカ    15・26)、弱くて無鉄砲なひよこたちを、いつも翼の下に集めてかばおうとした牝鶏(マテオ23・37)を想うこと。
 三、 次の事のうちに大きな喜びを見出すこと。
  イエズスその御目差しによって私に意味するもの(ペトロに向け、富める青年に向け、聖フランシスコに向け、投げ給うたイエズスの御目差)
 その力強き御手が私に意味するもの。「我を強め給う御者においてわれは万事を為し得」
 イエズスの聖言葉がが私に意味するもの。福音書は何と豊かであろう。「われに従う者は暗黒を歩まず」(ヨハネ8・12)
 聖主の祈りと、その絶え間なき献物が私に意味するもの。「人のために執り成しさんとて常に活きたもう」(ヘブレオ7・25)
 イエズスが、その御母であり私の母でもあるマリアを通じて、私に意味するもの。
 イエズスが聖体を通じて私に意味するもの。エリアを力づけたパン
のことを考えよう。
「『立ち上りて、食せよ。道は汝にとりて遠過ぎるが故なり』エリアは立ち上りて飲食し、この食事によりて強められ、四十日四十夜、神の山ホレブに到るまで彼は歩けり」(列王記上19・6-9)
 イエズスの教會が
 教職者として私を眞理のうちにとどめ
 祭職者として私に必要な秘蹟を興え
 牧職者として私を正しい道にとどめて、私に意味するところのもの。

      三、彼において

 一、三つの言葉のうちこれが一番神秘に満ち、同時に我々の贖いの言語に絶した真意を表す言葉である。「彼に由りては」仲介を、「彼と共に」は協同を意味したが、「彼においては」成就をなしている。よく理解するように努めよう、これこそキリスト教の精神の神髄である。
 二、神の御独り子は単に、外からの救い、外面からの解放をなし給うたのみではない。この外面からの解放というのは、例えば、多大な金銭を支払うことによって贖ったような場合であり、即ち、贖う人と贖われた人との間には固有の絆が出来上がるが、その絆は勿論血族的なものまでにならず、その二人を同じ血を分かつ間柄までにはしない。
 このような外面からの贖い方をされただけでも、もうすでに素晴らしいことだが、それでは、「主において」ではなく「主によりて」救われるにとどまる。
 キリストが我々を再び聖なる者とするために、我々をキリストに化し、我々を聖主に並んでキリストたらしめると言うことは、玄義中の玄義、一つの神秘、妙なる発見である。聖主は外から我々を助けるのではなく、我々を聖主と一つのものとなし給う。聖主は頭であり、我々は手足である。聖主はブドウの樹であり、我々はその枝である。頭と手足も、ブドウの幹も枝も、ただ一つの「一体」を構成する。キリストにおけるこの「復興」の計画を考慮して、教会はミサの奉献の部において司祭をして「主は人生を奇しくも造りたまいしかど、さらにこれを妙なるものに改め給いしにより」と言わせるのである。最初の(人類の)聖化のご計画は、すでに非常に美しいものであったが、キリストはそれに加わり給わなかった。今はキリストが実際に登場し給うのであるから、どんなに素晴らしいことであろう。
 今までの黙想で、我々はこの偉大な教義に近づいていた。聖パウロはこれを奥義(ミステリウム)と呼んだが、これは福音の精髄だから、我々の霊的基礎としてここで掘り下げて黙想しなければならない。
 三、ミサにおける「彼において」が幸いに我々に想起させるこの頂上に到達しなければ、我々は結局、本質的なものを見出さなかったことになる。そして地平線以上に上がれないままである。
 洗禮によって私がキリストと真に一なることを理解しよう。(丁度博物館で一つの絵を摸写するように)ただ外面からキリストを複写するだけでなく、うちからキリストを延長し、外観は「私」でもうちは「もう一人のキリスト」となるように、さらに熱心に努めよう。(常に生活においてこの内からのキリストを実現するということが、私にいかなる意味を持っているかを、私は測ったことがあろうか)。聖主がミサにおいて御自らのすべてを捧げ給う時、私が生贄の外にあることは許されないのである。
 もし私がキリストと事実、一體であるならば、私もまたミサを捧げる者とも一なのである。それゆえ、聖主と共に捧げよう。(これについてはすでに六課の二で黙想したが、教義によってさらに照らされて、ここでまた思い起こすことがよかろう)。
 もしも私がキリストと事実、一体であるならば、私はまたミサにおいて捧げられる犠牲(いけにえ)とも一なのである。それゆえ、犠牲のホスチアと共に己を捧げよう。
 このようにして、ミサにおける献物は、ただ一人のキリスト、孤立したキリストではない。即ち、カルワリオにて御血を流した歴史上のキリストがその昔の役を全世界の祭壇の上でただ一人続け給うのではないのである。昔の犠牲のお陰で、私も聖主の御体のうちに入り、それと結合されることが出来るようになったのである。それ以来キリストは複数形の人物となった。そしてこの複数形のキリストこそ、ミサの度に、かの偉大な行為を能動的に行うのである。これを理解してこそ、聖祭全部を理解したことになる。
 四、屡々、ミサにはどういうふうに与ったらよいか、と尋ねられる。即ち、司祭が唱える通りの祈りを唱えなければならないだろうか、自分一人で祈って良いだろうか、祝日毎に變る典禮の部分と、祝日によって變らない部分との、定型的な祈りをいくつか黙想し、そのほかのことは余り重視しなくて良いだろうか、と聞かれる。
 この点については既に少し触れてきた。
 肝心なのは、司祭およびホスチアとして、自分を聖なる生贄のうちに入れ込むことである。そこに達するように、今述べた方法のうち一番有益なものを選べばよいのである。形式よりも精神が重要である。
 [註] 司祭は公けの役を演ずるから、個人的信心にひかれずに、種々の決まった祈りを唱える義務が   ある。これに反し普通の信者は、公けの、外的な役を持っていないのだから、もっと自由に祈って    よい。 一番勧めたいことは、云うまでもなく司祭の祈りに合せてついてゆくことである。しかし、必要    以上に堅くなったり狭くなっては良くない。また、それ以上に よ い方法があれば、それを用いてよい。
 救い主イエズスとの一體のうちにさらに深く私を引き入れてくれるミサを、十分利用しよう。そして日々、キリストの真の手足として、ますます熱心に生きるために、度々「もしこれがキリストであったら、いかにし給うであろうか」と自問しよう。むら気に優位を占めさせてはいけない。私はもはや、生きていないし、生きてはならない。私の肉はただキリストのみが居給わなければならない。「我活と雖も最早われに非ず、キリストこそわれにおいて生き給うなれ」(ガラチア2-20)                    
 それ故、ミサに與れば、私は日常の態度において特に「キリスト」そのものになって生きることがたやすくなり、他方また日常「キリスト・イエズスにおいて」という態度であれば、ミサ毎にキリストに相応しく結ぶつく力を與えられる。