聖体の黙想
テニエール 著
戸塚 文卿 訳
中 央 出 版 社
昭和36年8月1日 改訂版発行
聖体の制定された理由
聖体は神のご託身の継続である
聖体は主の聖徳の模範の継続である
聖体は救い主の受難死去の記念である。
聖聖体は天父に対する最上の賛美である。
聖体は救霊のみわざの継続である
聖体は神の正義の御怒りを防ぐ楯であ
聖体は聖会の保護、慰め、浄化であ
聖体は霊的生活のかてである
聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしでる
聖体は地上における愛の中心であって信者の結合の鎖であ
聖体はキリスト信者の慰めである
聖体は地上の天国であって終わりなき生命の保証である
聖体は神のご託身の継続である
礼拝 聖体の中にまことにこもります神にして人なる私たちの主イエズス・キリストを、大いなる信仰をもって拝したてまつろう。そしてかつてベトレヘムにて天使と三博士とが主を拝んだような、心からの礼拝を主にささげたのちに、この秘跡が、神が地上におくだりになった大きな恩恵をいつまでも継続し、またその影響の範囲を広めるために定められたものであるとの、たいせつな真理をよく黙想し、その深い意味を理解するよう努めなければならない。
あなたたちは神のご託身の奥義を知り、かつこれを信じている。至聖なる三位一体の第二のペルソナであるみ言葉は、神にましましながら人となり、私たちのもとにおいでになり、私たちとともにお住みになった。ご託身によって神ご自身が実際に地上に生活したもうたのである。神は見ることのできない、近づくことのできない御者であるが、イエズスにおいて、私たちは、神に近づき、神に語り、神の御からだに触れることができるようになった。それはまことの人であるイエズス・キリストはまた同時にまことの神にてましますからである。
イエズスのご来臨までは、私たちは被造物という不完全な鏡を通じて神を見るだけであった。しかし主において、神はまことに、直接にペルソナ的におあらわれになった。神は無限の存在と、あまねき全能の御力とをもって、宇宙のどこにもましましながら、イエズスにおいてひとつの場所に限定され、霊魂と肉体、血液と心臓、頭と手足とを有する人となり、その御口によって語り、その御手によって働かれた。主は私たちのように労働し、疲れ、飢え、渇かれた。主は御血をもってするまえに御汗をもって地を潤わされた。主は私たちの不幸をあわれみ、これに同情し、病と悩みと死とを司る全能の御手をかざしてもろもろの奇跡を行なわれた。また、主は人間の理知のあこがれ慕う真理、すなわち神に関し、そのみいつ、慈愛、あわれみに関し、また、私たちの終わりなき生命に関する誤りのない真理を教えられた。さらにまた、主は正義の神と罪人との両極を一身のうちに結びつけるためにおいでになった。主はそのご来臨と恩恵とによって、最も完全な罪の許しの証拠、並びに将来の平和と幸福との安心を人々に与えて、彼らを神とわぼくさせられた。
神の地上へのご来臨は、長くやみの中に嘆き苦しんでいた全被造物によって待ち望まれ、慕い求められていた。それは、神のみわざの中の最も偉大なみわざ、神のたまものの中で最も尊いたまもの、その全能のこのうえない大傑作、御あわれみの最大の祝福であった。もし、主のど来臨がなかったなら、世界はあげて悩みと罪と失望との中にとどまり、永遠の死の深くて暗いふちの中に沈まねばならなかったであろう。だから、み言葉のご託身は神の摂理の最終目的であり、その最大の祝福であったともいえる。
そうして、聖体はこのうえない大傑作、この最大の祝福を引きつづき世界に与えてくださるのである。神はこの秘跡の中にペルソナ的に、肉身と霊魂とをそなえられるイエズス・キリストとして来たり、私たちとともに住み、私たちが主に近づいて祈るのを許し、また私たちの姿を見、私たちの言葉を聞き、人間の心をもって私たちを愛してくださる。しかも主は以前ユデアにお住みになったときのように、ただひとところにおとどまりにならず、同時に地球上のあらゆる場所にあり、また、わずかに数年ないし数十年を私たちとともにおいでになるのでなく、世の終わりまで常に絶え間なく私たちとともにとどまられるのである。
だから、大いなる信仰と愛とをもって、聖体の中においでになる人となられた神の御子、託身なさったみ言葉を拝もう。また、神にして人である主の能力と、その中にたたえられる豊かなご生命とを拝もう。
感謝 救い主が周囲の人々にお与えになった無数の御恵みを聖福音書の中で読むとき、私 たちは主に近づき、主にまみえ、主の御口から奇跡的治癒を命ずるお言葉を聞くことができた人々の幸福を、うらやましく思うのである。ユデア人らは主をさして『なんびともこの人のように語った者はない』と感嘆し、また地上での主の生涯を『彼は善をなしつつ過ぎゆきたまえり』の一句で総括した。しかし、同一の存在は同一の結果を生ずるはずである。もしイエズスが聖体によって地上に存在をおつづけになるならば、やはり以前と同一の能力、同一の慈愛を示さねばならない。だから、罪の中に沈んでいた世界の建てなおしが、ご託身によって成就したものであるならば、それが今日なお保たれて、あらゆる時代、あらゆる場所で新しい生命が、私たちに与えられるのは、ひとえに聖体の秘跡のおかげである。なぜなら、この聖体は、神の全能なる御子にして童貞母のあわれみ深き御子なるキリストご自身にほかならないからである。実にイエズスが聖体の中にましまして、この世界におとどまりにな事実そのものによって、また、聖体の能力と不思議な御働きとによって、真理も、善徳も、秩序も、平和、世界並びに霊魂の中でのあらゆる調和も存在するのである。また、かずかずの罪悪が絶え間なく世に行なわれるにもかかわらず、神と人間の交渉が依然として存続するのも、同じく聖体のおかげである。もし、かりに一瞬間でも聖体が地上から消失したならば、霊魂の世界に非常な無秩序と混乱とが生じ、この物質世界から突如として太陽が取り去られ、宇宙がこなごなになる場合より、もっとはなはだしいであろう。
だから、イエズスがあなたたちのためにこの世にとどまり、あなたたちにその存在のすべての恩恵を与えられることを思い、その深き慈愛に感謝しよう。主が聖体の中においでになって、あなたたちに与えられる恩恵は、主がユデア国にお住まいになったときと同じく、いや、なおいっそり大である。なぜなら、ユデア人らは主の御からだを見、御言葉を聞いただけであるが、あなたたちは主によって養われ、主を完全に所有し、主は全くあなたたちに属したもうからである。
償い イエズスがこの世においでになったとき、ユデア人らが犯した罪は、主を知らず、主を認めず、かえって主を迫害し、カルワリオ山上にて主を殺したてまつったことであった。これが十九世紀間、ユデア人の上にとどまった神の御怒りの理由である。ところが悲しいことに、今日の国々も主を認めず、聖体中の神の愛の統治を拒み、人々の信仰を滅ぼし、主を迫害して人間の間より追い出そうとしているのである。この大いなる罪の償いとして、あなたたちはますます聖体に忠実であり、できるだけ多くの人々、特に子供らの霊魂を聖体の秘跡に近づけるよう努めなければならない。
祈願 神にして人である存在を、あなたたちのために地上にてつづけたもう聖体の秘跡に対する熱烈な信仰を与えられるよう祈ろう。聖体がイエズスご自身にほかならないことを確固不抜の信仰をもって信する恵みをお願いしよう。そうすればこの信仰によって、あなたたちは主に引きつけられ、聖体のみ前に出るたびごとに、ちょうど馬ぶれの中、あるいはタボル山頂、あるいは十字架上に救い主を拝して起こしたような信心をもつようになるであろう。
実行 聖堂内にはいったならばすぐにせいひつに向かって『御身は生ける神の御子キリストなり』と唱えながら主を拝もう。
聖体は主の聖徳の模範の継続である
人としても祭壇上に生き給う私達の主イエズス・キリストを礼拝し、謹んで主のみ言葉を聞こう。「我は世の光なり、我に従う者は暗闇を歩まず。」「我は道なり、真理なり。生命なり」「われは心柔和けんそんなるがゆえにわれに学べ」「我汝らに例を示したるは、我汝らになししごとく、汝らにもなさしめん為なり」
救い主はこれらの御言葉によって、私達に与えてくださる最も大きな御恵みのひとつ、又地上での最も大きな御使命のひとつは、示された御模範である事を教えてくださったのである。それまで人間は自然徳についても度々誤謬に陥り、超自然徳については全く知るところがなかった。だから、もしも「神の聖なるもの」救い主キリストが御教えと御行いとによって、真理と完徳の模範を示してくださらなかったならば、世はまだ死の暗黒に座して、腐敗の道を辿り続けていたであろう。
人となり給うた御言葉によって示された御模範の中に含まれる聖徳の教えは、実に無限の御恵みである。主は神の愛と他人への愛と、又貞潔、謙遜、忍耐、従順などの諸徳とを世に教えてくださり、その際御自分からこれらの諸徳を実践して、その愛好すべきさまを示し、私たちの怠惰心を励まされた。主は更に主の愛によって行なわれるすべての善業の報いは、天国での主御自身の所有である事を私達に約束された。これによって人々はこのような言語に絶する大いなる賞与を目指し、どんな艱難犠牲にも絶え、英雄的な聖徳さえ実現しようと奮起するようになったのである。
聖体は世々に至るまで、人となり給うた御言葉の地上的御生涯を継続する。イエズスが聖体の外観のもとで実行される諸徳、いわば聖体の状態でおとどまりになる為の条件とも云う諸徳の輝きを眺め奉るには、聖体を仰ぎ望み、信仰を持って黙想すれば、それで足りるのである。
卑しいパンの状態で貧しい聖櫃の中におとどまりになったのは、如何なる御方であろうか。これこそ全能の神であり、同時に人なる尊い救い主に他ならない。それならば、それは何という謙遜であり、何という貧しさであろう。
司祭の奉献の言葉に服従されるのは、如何なる御方であろうか。聖体拝領者の祈りに答えて御自身をお与えになるのは、どんな御方であろうか。天地の支配者であり、万物の創造主ではないだろうか。であるならば、それは何という従順、何という完全な服従であろうか。
日々、聖体に加えられる不敬、侮辱、冒涜に対してさえ、これを黙してお忍びになるのは如何なる御方であろうか。みいつ尊き神、天使さえも恐れおののいてお仕え申し上げる全能の神ではないだろうか。ではそれは、如何に大いなる忍耐であろう。
最後に、あらゆる人々に、いつまでも常に聖体と恩恵とを与えて下さるのは、どんな御方であろうか。何人にも何物にも負うところのない神、地上での御務めをことごとく果たされた救い主ではないだろうか。にもかかわらず主はまだ何のみ業を営み給わなかったかのように、聖体の中で、御恵みに御恵みをお重ねになるのである。ああ何という御慈悲であろう。
実に聖体の秘跡は、かねて主が地上で人々にお与えになった御教えと御模範と、このように世の終りまで継続されるのである。
だから礼拝しよう。秘跡の中においでになるイエズスを、聖体が聖徳そのものなる救い主に在す事を黙想し、聖体の信心に関する最も重要な上記の真理をよく会得しよう。
感謝 この真理を黙想するとき、あなたは主の感ずべき謙遜とご慈悲とに対して、無感覚ではおられないであろう。聖徳を理解するには、聖徳の生きた教えが是非必要である。そしてこの為に主が地上的ご生活を秘跡によって今に至るまで継続し、すべての人々に完徳の鏡をお示しになるのは、真に極まりない御恵みと云わなければならない。私達は福音書によって、主の言行を知ることが出来る。併し私達の目前で、主の聖徳の模範引き続いて行なわれるのを見る時、私達は更に一層の感激を覚えるのである。しかもこの時における主の御模範は非常に顕著であるから、無知で単純な心の持ち主でも容易に御教えの意味を悟ることが出来る。聖櫃の貧しさ、ホスチアの卑しさ、忘れられ、辱められ、侮られ給うにもかかわらず、常にお守りになる沈黙と忍耐、友と仇の区別なく、すべとの人々に御身をお与えになる御寛仁。すべてこれらは、誰にも見え、誰にもわかる事実であって、これを了解するには、聖体の覆いのもとにおいでになる御者が、神にして人なるイエズス・キリストであるという公教要理の初歩の信仰を持つならば充分である。主が貧困、忍耐、謙遜、犠牲などを余儀なくされる聖体の状態にあることを承諾されたのは、明らかに主が進んでこれをお選びになったからではないだろうか。だからこれらは、主が私達の為の模範として聖体の中で実行される御徳であるに相違ない。
しかも憐れみ深い主は、聖体の中で、このような貴重な模範をお示しになっただけではなく、私達の力を養う為に聖体そのものを与えられる。即ち、聖体拝領に際し、万徳の主は私達の霊魂の中にお下りになり、私達と一致し、その全能を持って私達を助けて徳を行なわさせて下さる。一方、この聖体拝領は、私達が望めば毎日でも可能であり、主はその貴い模範を示される時にも、徳の実行に必要な恩恵を絶えず私達に与えて下さるのである。
ああ恵み豊かな神の富の偉大さ。なんぴとがこれを知り尽くし、これに相応しく主を賛美することが出来るであろうか。
償い これに関した償いは二つの理由から必要である。第一に、主は無限の御憐れみを持って善徳の模範を私達の目前に示し私達の霊魂を助けて下さるのに、私達は平然として罪悪、怠惰、卑怯な生活を送っている。私達のこのような状態は、いかにも卑しく、又醜く、厳罰に価するものではないだろうか。主は恩恵を与え、模範を垂れ決して倦み給わないのに、どうして私達は惰眠をむさぼっているのだろうか。これは如何に恥ずべきことであろう。私達が如何に謙ってもそれで充分と云うことは出来ない。
償いの第二の理由は、聖体のお示しになる御模範に信者が多くの注意を払わない事実である。実際、殆どすべての信者が、主ご自身の誉れと栄えとを犠牲にして、私達にお与えになるこれらの宝をおろそかにしている。主の御知恵と御慈愛との最大の傑作がこのように無視され、侮られているのは、真に嘆き悲しむべき極みではないだろうか。私達は自分の為、並びに人々の為にこれを嘆き「おのが輩」から忘れられた救い主に心から同情をお寄せしなければならない。
祈願 私たちは自分の生活をもっと聖体に近く、親しいものとする決心をつくり、必要な恩恵を主に請い求めよう。なお聖体を通じてイエズスの聖徳を学び、これをよく理解するために、しばしば聖体のみ前で福音書を黙想し、特に私たちの境遇に適した模範に注意し、これによって、利益を得るために主の御助けを祈ろう。願わくは、聖体の秘跡が、私たちにとって『道であり、真理であり、生命にてまします』ように。
実行 今後、徳について黙想するとき、必ずイエズスが聖体の中でお示しになるご模範を考え、また修徳のために聖体拝領をよく利用しよう。
聖体は救い主の御受難と御死去の記念である 礼拝 私達の主イエズス・キリストが、私達を愛し、私達の救霊の為に甘んじて十字架に上り、一方では、その後受難と御死去を記念する為に聖体の秘跡をお定めになったということは、公教会の最も重要な教義の一つである。救い主は御身を虚無のように、また死者のようになして、パンと葡萄酒の外観のもとに隠れ「わが記念としてこれを行え」とおっしゃった。だからパウロも主のご啓示を受けて「汝らこのパンを食し、また杯を飲むごとに主の死を示すなり」と言った。
私達の救霊は一には主の御受難、御死去の賜であるから、絶えずこれを思い起こすことは、私達にとって最も大切なことでなければならない。主は、愛する者の為に生命を捨てることが愛の最も重要な証拠であることを、私達の頑なな心を動かすには、これが是非とも必要なことを知っておられた。だから主は、聖体をもって、御受難と御死去との記念を私達の目前に絶えず示すことを望んでおられるのである。
なるほど聖体は、イエズスが私達の為に苦しみを受け、十字架上にお亡くなりになったことを、世々にわたって全ての人々に示すところのものである。ミサ聖祭の間に、司祭が聖別のことばをもって光栄のうちに統治されるイエズスを天国から祭壇上に呼びくだし、動くことをも、話すことも出来ず、生命さえもないようなホスチアの中にお閉じこめするのは、主の御死去の繰り返しでなくて何であろう。主は神性と人性とを完全に保ちながら、今もこの聖体のおおいの下に潜んでおられる。復活されたキリストは不死の栄をもっておられるにも関わらず、ここでは外面に現れる何らかの行為さえもなす事が出来ず、またその他、私達に対して、生きておいでになる何らかの感覚的な証明さえ与えることがおできにならないのである。この聖体の状態は、死も同然であって、御血を流し尽くした御亡骸も同様であると言えるであろう。
聖体の中においでになる救い主は、欲するままに望んでおいでになる場所に移ることをも、敵の手から逃れることをも、冒涜に際して助けを呼ぶことをも、人としてのお姿を現しになることもおできにならない。主は御受難の日と等しく、鉄鎖に繋がれ、十字架につけられ、人々に見捨てられ、主の友までが預言者と共に「我は聖別され死パンを見たれども、聖別せられたるものとの間に、何らの差異をも認むるもえざりき」というのである。ああこのような死の状態によらずとも、主はカルワリオ山上での御受難、御死去を記念することがおできにならなかったのであろうか。
だから礼拝しよう。秘跡の中に在す神のこの忍耐深い御生贄を。柔和にして十字架に釘付けられた主ご自身を。聖体を礼拝するたびごとに、茨の冠をかむせられ、十字架上で私たちの愛のために息絶えられた救い主を絶えず心の中におしのびしよう。
感謝 聖体に対して救い主の御受難を思う時、私達はそれに引き続いて、甘んじてこのような多くの苦しみをおしのぎになった主の無限の愛と忍耐、並びにこの御受難によって全ての罪人に分かち与えられた罪の赦しの御恵みを、深い感謝をもって思い起こさなければならない。
御父の正義を満たす為には、他に多くの方法があったにも関わらず、恥ずべき十字架の死をお選びになった大いなる愛と同一の愛が、今ここ御聖体の中に存在している。主は聖体を制定される何らかの義務もなかった。ところが、主は私達の為に、何の条件も付けず、ご自分から進んで完全に、またいつまでも御身をお与えになったのである。これを黙想し、あなた達は雲を通して輝く太陽の光のように、暖かく、優しい主のみ心の愛を感じないのか。主はあなた達の冷淡な生ぬるい心、現世の財宝と愛情とに奪われがちな心を、ためなおそうとしておいでになるのである。かってのゲッセマニのユダ、法廷でのペトロ、カルワリオでの死刑執行人をお赦しになったように、今も主は聖体の中で、主を売る人、迫害する人、冒涜する人の為に、「父よ彼らはそのなすところを知らざるにより彼らを赦し給え」と祈って下さるのである。柔和であって謙遜な聖体の沈黙は世々に続けられる主の御祈りに他ならない。
あなた達は御受難におけるイエズスの愛を悟り、これに感謝すると共に、聖体への深い感謝を捧げなければならない。24-2
償い 聖体が救い主の御受難と御死去の継続であることを理解する為に、イエズスがその中で昔と同一の不信、屈辱、暴虐を受けながらおいでになることに注意しよう。
もし大罪に汚れた霊魂が聖体を受けるなら、それはユダが主をユダヤ人に裏切ったと同一の背信の行いである。もし他人の嘲りを恐れて聖体拝領を怠る人があれば、それはペトロと同様に主を否むことである。
聖櫃がかすめられ、聖体が土足で踏みにじられるような恐ろしい汚聖行為も世に行われている。ああ、御受難の時に於いてさえ、イエズスはもっと多くの忍耐が必要だったであろうか。
壞疑者の冷笑、不信者の冒涜、多くの信者の無知と忘恩、主の友である人の恥ずべき堕落、知りながら犯す怠慢、習慣的な不敬、侮辱に近い不注意と無礼、これらがみなイエズスの今日お受けになる御苦しみでなくて何であろう。
では人々よ、秘跡の中にあって今もやはり堪え忍んでいらっしゃるイエズスの為に、いにしえの敬虔なエルサレムの婦人のようにお嘆きしよう。主のおもてを拭い、主の御恥辱をお慰めしたヴェロニカはいないのか、十字架をになうシモン、十字架の下にたたずむヨハネはいないのか。救い主の御苦しみをわかつ悲しみの聖母に倣う人はいないのか。あの聖体の中で、主が同一の御受難をお続けになるなら、同じお慰めとご同情とが必要なはずではないだろうか。
祈願 救い主の御受難、御死去の記念は聖であり、力であり、慰めであり、救いでなければならない、しかし、その為には、この記念が心に深く浸み込み、私達の心の目の前に絶えず存在し、私達がこれによって全ての罪を忌み嫌い、あらゆる罪の機会を避けなければならない。
主は救世のみ業をおろそかにしない為に、今もやはり愛に駆られて聖体の中におとどまりになる。だから、聖体によって救霊の効果があなたの心に結ばれるよう願い、特にミサ聖祭、聖体拝領、聖体礼拝の間に、度々この御恵みを祈り求めよう。
日常の黙想に際して、より大きな効果を得る為に、救い主の秘跡的御受難の事実を忘れないようにしよう。
聖体は天父に対する最上の賛美である
祭壇の上においでになって、秘跡の覆いの下に隠れながら、聖父なる神のみいつを拝し、完全なる宗教的礼拝をお捧げになるイエズス・キリストを、生きた信仰を持って黙想しよう。御言葉のご託身の理由の一つは、被造物には不可能な、神に対する完全な礼拝と奉仕とを、ご自分からお果たしになる為であった。聖体の制定の目的もこれと異ならない。もとより、ご託身及び聖体の直接の動機は人類の救霊の為であったが、これと相並んで天父への完全な礼拝が主のみ旨であったことを忘れてはならい。「我は我が父を敬い父に光栄を帰す。」との御言葉は、今でも主が聖体の中から、おっしゃているのである。
主がいかに完全に礼拝の義務を天父にお捧げになるかをみよう。礼拝とは、神が何ものにも超えて尊くいらっしゃることを、理性と心情と意志と行為とを持って認めることである。天父の限りない敬うべきみいつ、並びなき尊貴、その全能のご能力、ご威光を賛美することである。
しかしながら、なんぴともイエズス・キリストのように天父の完徳を知ることは出来ない。「子のほかに父を知る者なし」とご自分でおしゃったように、主の御目にだけ父に関するすべてが明らかである。だから主の聖心から発する賛美は、真に完全な礼拝である。主は御父の神性の無限の富を知り尽くしおられ、これを賛美し、そのご意志の力を持ってご自身を全く御父に委ね、進んで御父の権力のもとにおとどまりになる。ああ、何と完全な霊と真をもってする礼拝であろう。
御父はすべてに於いて、ご自分と等しい栄えをもつ聖子が、ご自分を賛美する為に、御前にひれ伏して生贄とおなりになりのをご覧になる。主の主である真の神なる御子が、聖父の光栄の為に、愛によって自ら進んで服従されるのは、何という偉大な聖父の喜びであろう。祭壇の下に集まる人々よ、永遠に休み給わない完全な礼拝者イエズス・キリストを信仰の目をもって仰ぎ望もう。主は尊敬と愛と賛美を天父に捧げて、あなたの欠けたとことを補われる。即ち、主御自ら、あなた達が、どのように霊と真をもって神を礼拝しなければならないかをお示しになるのである。
感謝 敬神徳の第一の義務を礼拝とすれば、第二のものは、すべての被造物が、つきることのない善の源である神にすべての御恵を感謝することである。
そしてさらに感謝の義務を正しく果たす為には、第一に神がどのように憐れみ深い善でおいでになるかを知らなければならない。神は何人にも又何者にも負うところのない御者でありながら、ひたすら純粋の御憐れみによって、あらゆる被造物に惜しみない賜物を分かち与え給うのである。
次に私達はこれらの賜物の価値と種類とその量とをよく知らなければならない。自然の賜物、超自然の賜物、この世での賜物、来世での栄光の賜物、一切が神の賜物である。
又、相応しく神に感謝する為には、私達は利己心を持ってはならない。即ちこれらの賜物を自己のものとしていたずらに虚しくおごることがないように、かえって神の栄光の為だけ、忠実にみ旨に従ってそれらを用いなければならないのである。
イエズスは又この点で私達の模範である。主のみひとり天父の善徳を知り尽くし、その御憐れみの深さとその富の豊かさとをお測りになることができる。主はあらゆる被造物の受ける天父の賜物を知っていらっしゃると同時に、御自身の人生が他に比べるものがない絶対的に独自な尊い賜物を与えられたことをも知っておいでになるが、しかもこの為に自ら高ぶられることはない。「我は、我を遣わし給いし父の光栄の他に、我が光栄を求めず」「なんぞ我をよきと言うや、よき者はただ神のみ」と仰せられるのである。
今日も私達の聖櫃の中から、感謝に満ちた賛美の歌が、絶え間なく天父の方に昇ってゆく。それはすべての被造物の頭であるイエズスが、主の御血に洗われた被造物の名によって聖父に感謝なさるのである。
主とともに天父に感謝しよう。あなたが受けた多くの賜物を思い出して、その価値を計ろう。そして、一切に超える妙なる賜物なる聖体を眺め、神に感謝すると共に、主の謙遜、忠実、無私を学ばねばならない。真の感謝は、謙遜、忠実、無私なるものであるから。
償い 罪がこの世に入ってから、敬神徳は償いと離れることのできないものとなった。しかし無限に尊い神に対して犯した無限に重い罪の償いを捧げるには、無限の価値のある犠牲と無限に聖なる司祭が必要である。
この犠牲と司祭こそ私達の主イエズス・キリストである。主は御手ずから御身を十字架上にお捧げになったばかりではなく、天父の怒りを和らげ、その正義を満たし、罪の赦しを私達に得させる為に、贖罪の犠牲となって祭壇の上に御身を横たえられたのである。
何という聖にして偉大な司祭であろう。天父の光栄、そのみ名の誉れ、み国の建設、人々の改心、罪の赦しの為に、ひたすら御身をお捧げになるこの尊い大司祭。
何という完全な、そして甘美な犠牲であろう。あらゆるもののうち、最も清く最も完全な御生命を供え物にし、その主権を屈辱に、光栄を卑賤に、統治を従順に変え、ご自身をなき者として生きながら葬られ、屍のように世の終わりの日まで一切を黙し忍び、すべてに絶えず従い、パンと葡萄酒の外観のもとに隠れられるこの尊むべき犠牲。
天使と人との光栄の主である生けるキリストの横たわれる聖体の、み墓の中に入ってみよう。御父神を礼拝し、その正義を満足させて、御父の怒りをなだめ申し上げる為に、御受難、及び今日の屈辱と清貧と従順と愛とを、衆人の侮辱、反逆、罪悪、忘恩の償いとしてお捧げになるイエズスを仰ごう。ああ人類によって最も無惨にそむかれた御父は、この英雄的な大司祭、無言にして忍耐深い犠牲によって、どれほど完全に礼拝され給うであろうか。
祈願 創造主に対する被造物の第一の義務は、神に対する信頼と、すべての賜物が神のご厚意によって与えられることを告白することである。祈りはこの義務の表現に他ならないが、人々はそれをいとい、自己と自己の力量とに頼って神に祈ろうともしない。ところが御子は私達に代わって天父に祈り給う為にこの世にお降りになった。イエズスは昼夜を区別せず、御父の御前に跪き、その喜び給う謙遜な、愛にあふれる祈りの香りをおたきになった。今日も私達の聖櫃は疲労することも休息しすることもない聖体の祈りの至聖所である。
イエズスは御父のみ旨をすべて知り、そのみ旨、そのご光栄の他には、何ものも求め給わないから、主の御祈りは完全である。イエズスは聖であって汚れなく、御父の愛子であって御父は何ものも聖子にお拒みにならないから、主の御祈りは完全である。
だから、この愛すべき大司祭と共に祈り、神のみ旨に従い、万事をみ摂理に委ね、キリストと共に、キリストに於いて、キリストのみ名によって祈ろう。
実行 秘跡の中においでになるイエズス・キリストをっ大司祭としてみることを学ぼう。
聖体は救霊のみわざの継続である
聖体のおおいの下においでになる主イエズス・キリストを私たち人類の救い主として礼拝しよう。主は十字架上で私たちの救霊の為に尊い御血をお流しになったが、今もなお祭壇上にあって、絶えず救霊のわざを続けられるのである。聖体の秘跡の御制定は、もとより御父の光栄の為であったが、それはまた同時に人類の救霊の為でもあった。なぜなら、イエズスが天父に光栄を帰したもう主要な手段は、私たちの救霊であるからである。こうして、主はかつて祈りと説教と、善業と御受難とによって、人々の救霊の為に尽くされたように、今日も聖体の秘跡によって同一のことをお続けになるのである。
救霊の事業にいとまなくいそしまれる主のみ姿を仰げ、主はかって寂しい山に登って幾代かを夜もすがらお祈りになった。同じように今日、世界中の聖櫃から絶え間なく主の御祈り天父に捧げられる。聖櫃は都市と世界との安全を守る物見櫓である。
また、主はかって人々に教えて、信仰、従順、信頼、謙遜、忍耐などの諸徳をお説きになった。同じく今日、聖体の秘跡的状態そのものが、これらの徳の模範を示し、私たちに無言の説教されるのである。
聖体は、またかつての日のように、私たちを癒やし、養い、慰め、私たちに霊的生命をわかってくださる。それも昔のように単なる祝福ではなく、実に主ご自身をお与えになることによってである。
最後に、主はかって十字架上に死なれてこの世を救ってくださったが、今日では聖体が主の御受難御死去の反復であって恩恵の源泉でもある。すべての秘跡の効果はもとより、私たちがどんなお恵みを祈り求めてもそれが聞き入れられるのは、みなこの秘跡的犠牲の賜である。
このように聖体は、その秘跡的状態そのものにより、また、その祈りと賜と犠牲とによって、絶えず人類の救霊のみわざを営み続けられるのである。この雄々しい忍耐深い大司祭が、ご自分の仕事を終わる時、すなわち御父から委ねられた御任務を完全にお果たしになる時は、世の終わりにほかならない。感嘆すべき愛のみわざを仰ぎながら、主を礼拝し、主を賛美しよう。
感謝 聖体によって救い主が私たちの救霊の為に、私たち一人一人ももとに来てくださる事実をよく考えるなら、私たちの心は、どんなに喜びと幸福に満たされることであろう。地上での御生涯の間、主は全ての人々の為に一様にお祈りになった。しかし今では私たち一人一人のもとにおいでになり、私たちの心の中で私たちと共にお祈りになるのである。主は恩恵と善徳との甘露を持て私たちを養い、私の心にみ教えを刻みつける為に親しく私を訪れてくださり、尊い御血を私の心の中で流し、御功徳と償いとを全部分け与えて、私の為に死にたもうたのである。だから私たちはみな、めいめい次のように言わなければならない。「私は救い主が真実に私の救霊の為に努力されることを知り、私の霊魂の中にそれを感じる。私は確かに主のご自愛と、ご苦心との対象であるから、私は自分さえ主のみわざに一心に協力するなら必ず救霊の御恵みを受けるに相違ない」と。
ああ聖体は、いかに尊い愛のあらわれ、救い主が私を救おうとなさるみ旨のいかに確実な保証であろうか。
主の御憐れみと御慈愛とにふさわしく感謝する為に、秘跡の中のその御忍耐を考えよう。そうすればあなたたちの心に、このあまりにも慈悲深い救い主の御心に対して、感謝の念が自然と湧あがるであろう。
償い イエズスはかって主の御勧めを聞き入れず、救霊の御恵みを退けたユダヤ人らを責められた。ユダヤ人はこのかたくなさと忘恩との為に厳罰を受け、主に捨てられることとなった。
それでは、聖体の中の救い主の生贄と御勧めとを拒み、主の愛に背く人たちの運命はどうなるであろうか。彼らは、主が私たちと一緒においでになって、私たちの心を主のお住まいとなさりたいとの思し召しを無視し、主が日々全世界の各教会の祭壇で尊い御生命を犠牲として、ご自分を亡き者とされるのに、その愛を考えてみようともしない。又、主が御体を、私たちに欠くことの出来ない生命の養い、旅路の糧、悩める時の慰め、罪の償いとして与え、私たちの心をかち得ようと絶えず私たちを追い求めておいでになるのに、侮辱と冷淡とを持って主を退けてしまうのである。ああ、主は荒れ狂う波濤のうちに諸人に向かって救霊のみ手をお広げになるのであるが、人々はその御腕に抱かれることを拒み、主に御苦しみを加えるのである。この忘恩、この不可解な頑固さ、この未曾有の愚かさは、いったい何を意味しているのであろうか、必ず救い主は二千年前にユダヤ人に対しておっしゃったお言葉を、この世に向かって繰り返されるであろう。「我もし来たらざりしならば、汝らの罪は軽かりしものを・・我を見てなお信じぜざる人々は災いなるかな」と。
だから私たちは、救い主が聖体によってお与えになる救霊の恩恵を重んじ、忠誠を尽くして御心を慰め衆人の罪を償おう。ことに私たち自身が聖体に対してどのように振る舞っているかを吟味しよう。果たして聖体への奉仕が私たちの生涯の主な部分を占めているか、度々聖体拝領するか、ふさわしい準備と大きな愛を持ってこれを拝領するか、聖体拝領の効果を私たちの生活の上に実現しているだろうか、私たちはこの点についてよく糾明し、必要な償いをしなければならない。
祈願 第一に、人々の救霊とあなた自身の救霊とのために、聖体の限りない御力に信頼するように熱心に祈ろう。第二に、しばしば聖体拝領をし、効果を結んで主に忠実に仕えるよう恩恵を求めよう。第三に聖体拝領の効果を妨げる全ての障害、即ち罪と誤った愛着、危険な機会とを取り除く恩恵を願おう。第四に、聖体が、益々人々に知られ、尊ばれ、救霊の為に利用されんことを祈ろう。
実行 なるべく聖体拝領の回数を増やし、もしそれができないなら、聖体拝領の準備を完全にするよう心がけよう。
聖体は神の正義の御怒りを防ぐ盾である
礼拝 慈悲深い救い主イエズス・キリストが絶えず尊い司祭の任務を尽くし、又、世のための罪のために生贄とおなりになるその祭壇の前にひれ伏して、大いなる信仰と尊敬と、聖なる恐れとを持って聖体を礼拝しよう。主はここに十字架上でなされたと同じく、天地の間に上げられ、無力な被造物と創造主との間に立って、神の御怒りをお和らげになるのである。黙示録に拠れば、主は、天にあってもやはり屠られた羊として、御身を祭壇の上に横たえになるというが、それはこれによって天父の光栄と、人類の救霊とのために、十字架上の生贄となることを天父に絶えずお示しになる為にほかならない。
天国には天父の御怒りの源となり、又恩恵の喪失の原因となる罪がない、しかし、それにもかかわらず、やはり神の子羊の生贄が、そこに続けられているなら、地上ではなおそれが必要なことは明らかである。犠牲なしに地上の平和はあり得ないのである。ああ、我が神よ、人々は腐敗し、御身のみ名は汚され、御身の権利は認められず、あらゆる悪はたやすく行われ、霊魂の救済は、すっかり忘れられている今日、もし御子の祈り、償い、犠牲が地上になかったならば、即ち、絶えず御血を捧げ、御身の光栄のために御自らをお供えになるイエズスが、おいでにならなかったな、この世はどうなっていることであろうか。
至聖なる秘跡の陰に隠れ、贖罪の司祭職を執行されるイエズス・キリストを礼拝しよう。主は司祭に必要な全ての資格を備えておいでになる。主は純潔にして聖、罪をいとい、天父の光栄のほか何もお求めにならず、世間を軽んじ、しかも罪人に対しては無限の慈悲を持っておいでになり、実に理想的大司祭の資格を全て完全に具備しておられる。それは、主が限りなく完全な神の御子にましますからである。
聖体の中で主は、又完全な生贄である。これ以上にすぐれた生贄がほかにあるだろうか。光栄の主が一塊のパン、いっぱいの葡萄酒の外観のもとに隠れ、秘跡の中に身を落として、天父にお捧げになるものは何であろうか。その御霊魂、御肉親、御血、御生涯、御権能、ご自由の全てではないだろうか。
ああ、主を礼拝しよう、たぐいなき大祭司、たぐいなき生贄なる主をひれ伏して礼拝しよう。
感謝 主が聖体の中で絶えずお捧げになる全ての生贄を、深い感謝の念を持って眺めながら、愛によって主の成し遂げられたこのたえなる発明についてよく黙想しよう。主が人となって、死、しかも十字架の死に至るまで己をむなしくされたあとに、さらに聖体の秘跡の中に隠れ、祭壇上での生贄となられたのは、決してほかから強いられたのでもなく、又、こうしなければならない義務があったからでもない。それは全く主ご自身のご選択に拠るものであって、純粋二種の憐れみ深い御心から最初に流れ出た愛が一瞬ごとに繰り返されて生ずる新しい賜であるということが出来る。そして私たちの罪と反逆と忘恩とによって絶えず損なわれている神の御稜威と正義とが、いつも必要以上に償われているのは、全くこの生贄のおかげである。
救い主が天地の間に立って取りなしたもうのは、単父の御怒りをなだめて神と人との間に平和を回復し、この世に生を受ける全ての人に十字架の救済を教えて、自然の生活と超自然の恩恵との間に仲介されるためである。聖体は義人にとっては罪に陥る危険の防御となり、罪人とっては再起のための必要な力となり、臨終の人にとっては安んじてともに永遠の休息に入る伴侶となり、全世界にとっては最上の祝福となるのである。
絶え間なく罪が犯されているために、聖体は世の終わりまでその存在を続け、又罪の破壊のあとを償うよう、罪のあるところへはどこまでも従い行かれる為に、聖体は地上にくまなくおいでになるのである。 ああ、聖体の中に在し給う救い主の御取りなしは、いかに甘美で愛に満ちあふれ、いかに忍耐にとみ有力であることだろう。ああ、平和の祭壇、大司祭にして生贄なるイエズスの聖体よ、御身がとこしえに祝せられ讃えられますように。
償い この世における罪の憎むべきありさまに注意しよう。神の子羊が世の罪を贖う為に御身を供えられる祭壇の前で、やはり罪悪が続けられ、このたぐいない愛も、驚くべき屈辱も、全てが無益であるかのように見える。
人間はイエズス・キリストの御生贄を侮り汚して、忘恩をもって愛に報い、いっそう神の怒りを招く、世界中どこにも聖体がおいでになるのだから、全世界が大神殿と化した今日、罪人の冒涜は実にこの神殿の中で行われているわけである。罪を防ぎ、罪を償われる為に、聖体が勧告、助力、生贄、贖罪をお休みなく続け、益々奮発されるにも関わらす、いや、益々奮発されるほど、人々は、なお神に背くのである。ああ、私たちはいかなる罰を期待しなければならないだろうか。
だから、よく自分を省みて今までの大罪を思い起こして、それがどんなに重く、どんなに大きいかを糾明しよう。主が二千年になんなんとする間、聖体の中におとどまりになっているその愛の大きさと、あなたの罪の重さと比較しよう。主を愛する為に、主がお嫌いになるようなあなたの罪を忌み嫌い、主の御慈悲の賜なる聖体を神にお捧げしよう。もしあなたが、なおも主の愛を軽んじ続けるならば、あなたの受ける審判は、いかに厳しく恐ろしいものであろうか。
祈願 度々聖体のみ前に出て、聖体のみそばでお祈りしよう。これは最もよき取りなしの大司祭、世の罪の購いなる最上の犠牲によって祈ることである。この大司祭、この生贄が常に聖体の中においでになることを記憶するように。あなたは罪に汚れた不忠実な自分の霊魂の為に、なだめの生贄の御取り次ぎを頼み、又、あなたの親族、恩人、友人も同じく聖体の御保護のもとに置かねばならない。親鳥の翼の下にかくまわれる雛は嵐を恐れる必要がない。私たちも又聖体の御保護により頼む時、地獄の攻撃に敗れることはなく、従って神の御怒りを招く憂いはないのである。
実行 特に誘惑を感じる場合、或いは危険に臨み、困難に際しては大きな信頼をもって聖体に祈ろう。
聖体は聖化の保護、慰め、浄化である
礼拝 聖会のはじめから世の終わりに至るまで、聖体の中におとどまりになるイエズス・キリストを、公教会の真の子供にふさわしい信仰を持って、聖会の名によって礼拝しよう。主はこの秘跡によって、その深く愛しておいでになる聖会に、必要な全ての助けをお与えになるからである。
まず、聖会の浄配なる主を礼拝しよう、主は愛によって「聖会」を選び、御血をもってこれを洗い清め、全く清く汚れなく、美しく聖なるものとされた。又、主は絶えず聖会を支え、慰め、聖会の子なる信者らが、「魂の母」に乞い求める天来のパンを、いつも聖会のために準備される。主が共においでになることは、聖会の歓喜であり、生命であり、名誉であり、光栄であって、一方では聖化の無限に発展し栄える理由である、天地の創造主、全人類の救い主は統治の栄誉を、その妃である聖会と共にし、そのみ国をこれと共に分かちになる。もし妃にたとえられる聖会から、聖体を奪い去ってしまうなら、聖会の光栄、豊穣、使徒的使命はどうなってしまうであろうか。
又聖会の神秘体の頭なる主を礼拝しよう。私たちはみな同一の真理を信じ、同一の永生を希望し、同一の生命をわかって、主と共に一つの神秘体を形づくる。人体の各部分には、動脈血が行きわたって、これに生命を与えるように、七つの秘跡によって全教会に恩恵が分配され、その霊的活動を支えているが、その源は心臓にも比べられる聖体の秘跡である。もし聖体がなくなったなら、聖会の力と熱と生命とはどうなってしまうであろうか。
最後に聖会の目に見えない主を礼拝しよう。主は、教皇、司教、司祭らの目に見える聖務者を通じ、聖会を教え、治め、清めて、その尊い御務めの一端をお果たしになるが、より直接に、又、より完全な方法によって、新約の至聖所である聖体の陰から、自分その大部分を執り行われる。まず第一に司祭職の最も重要な任務は、祈りと生贄の奉献とであるが、主は聖体の中においでになって、昼夜を分かたず完全にこれを行われる。又そのほか、主はこの無力なホスチアの中にあって、実際に聖会を治め、沈黙のうちに全てを教え、牧者の口をもって誤ることがないように、信者を牧者の指導にお従わせになるのである。
ああ、聖会の、聖体よ、御身の誉れと栄えとが、御身に贖われた人の子らによって認められ、あがめられ、愛されますように、
感謝 浄配にして頭なる大司祭イエズスが常においでになることは、聖会にとってどんなに大きな利益であろうか。
聖会が行くところにはイエズスも又必ず来たりたもう。炎熱を焼く熱帯の砂漠も、氷雪に常に閉ざされている寒帯の僻地もおいといならない。いや、むしろ主が聖会をこれらの地へ導いてくださるのである。
主はまた聖会と友に、あらゆる境遇に甘んじられるのである。敬虔な人たちによって聖会があがめられる時には、主も又光栄を受けられ、これに反して聖会が迫害される時には、主も又迫害されることになる。かって三百年間、聖会と共にカタコンブの中に隠れたもうこともあった。
このように二千年の昔、尊い御血をもって聖会を贖われて以来、主の忠実なみ心は一日とても、聖会を保護し、これを慰めることを怠りにはならなかった。主は又この間、言い尽くしがたい忍耐をもって、聖会の忘恩の子らの、主に対して絶えず犯される無数の罪過をお忍びになったのである。主は世俗の信者から、辱めを受けようと、又司祭から受けようと、一切を全て許し、忘れたもう。聖会に対するたぐいない愛、主の英雄的忍耐を覆す何ものもないのである。
これらの聖会に対して主の限りない愛のあかしをわきまえ、母なる聖会のよき子供として、深く主に感謝しよう。45-4
償い 主は聖会を愛して、悪魔の手からこれを救い出すためには十字架に上がることを少しもおいといにならず、世の終わりまで常にこれとともにとどまり、また、これを養い、一方では天父の許しを請い受けるために絶えず御身を祭壇の上に供えられる。その愛の深さはとう
てい測ることができないのである。だから、聖会がかずかずの試練や迫害に悩むとき、主のみ心は堪えがたい苦痛を感じられる。私たちがふさわしい償いをささげ、主をお慰めするためには、主のこれらの御苦しみを知らなければならない。
聖会がなめた試練の中で、まず最初にあげるべきものは、聖会の権威と教義とにそむいて
とったかずかずの離教と異端とである。これらのものは聖会を滅ぼし、神の真理を曲げよ
とする。慈悲の母なる聖会は、離教異端のやからによって、すでにどんな広大な領土を奪
われたことであろうか。
次には棄教、大罪、宗教的無関心、道徳的昏睡がある。神秘体なる聖会の肢がまひして、母なる聖会のからだより永遠に離れ去ってしまうことは、いかに主のみ心を傷つけることだろう。『なんじらに聞く者はわれに聞き、なんじらを軽んずる者はわれを軽んずるなり』とおおせになった救い主は、これらの著明な棄教や聖会に対する反逆をいかに苦しく感じられるであろうか。
最後に、ぎまんされて聖会を迫害する人民や、聖会を圧迫しその活動を妨害する政府がある。主は深くこれを憂い、かつてサウロにおっしゃったように『なんじ、何ゆえにわれを迫害するや』と彼らに向かって叫ばれるのである。実に聖会を迫害する者は、そのかしら、その浄配なるイエズスを迫害していることにほかならない。
これらいっさいの事がらについて、主のみ心はいかに嘆き悲しまれることであろう。
祈願 常に主のみ心を喜ばせし、いかなる場合にも聞き入れられる祈りは、はずかしめ
られ迫害されるなる会のためにささげる私たちの祈りである。この祈りこそ、まっすぐ種の御心に通うのである。
聖会は私たちの霊魂の母であるため、私たちの聖会に対する義務はなんじ、父母を敬べし』との神の第四戒に含まれる。だから常に聖会のために祈らない者はこのおきてにそむくものである。
主は、この点についても私たちに模範を示し、無数の祭壇上で絶えず聖会のために祈り、聖会のために御身をいけにえとして天父にささげられるのである。だから私たちもまた聖会このために熱心に祈ろう。教皇のため、司教のため、司祭のため、諸修道会のため、また聖会
の平和教勢の拡張のために、目に見えない教会のかしらの大司祭なる主といっしょに祈り、すべての異教異端のやからの改心、罪人の立ち帰りを神に求めよう。このように人々がみないっしょに聖体の中においでになる慈愛深い救い主を礼拝するように祈願しよう。
実行 使徒的熱心をもって常に聖会のために祈ること。
聖体は霊的生活の糧である
礼拝 秘跡の外観のもとに隠れながら、まことに生きたもう神にして人なるイエズスを礼拝しよう。主はかって次のように仰せになった。「我は生命のパンなり、我に来る者は飢えず。我は天より降りたる生けるパンなり。人もし、このパンを食せば、とこしえに生くべし、しかして我が与えんとするパンは、この世を生かさん為の我が肉なり、我が肉を食し我が血を飲む人は我にとどまり、我も又これにとどまる。我を食する人は我によりて生きん」と。主はとも尊い望ましい霊的生命そのものを、このようにかたくななあなたたちに約束なさった。48-6
あらゆる生命の唯一の源は神である。人間の自然の生命、即ち感覚的並びに理性的生命もこの源から流れ出る。しかし神のみもとには、より高い、より尊い超自然の生命が存在する。それは神ご自身の生命であって、聖徳の生命、光の生命、愛の生命、無限の幸福の生命と呼ばれるものである。神は人に自然的生命を与え、なおそのうえ、超自然的生命を与えられたが、このよりよい生命の賜は決して創造主の義務ではなかった。しかし私たちの霊魂は、これをお受けすることの出来るものであったから、創造主の無限の御慈悲によって、人祖の霊魂にこれが与えられたのである。ところが人間は罪を犯してこれを失ってしまった。だから私たちの霊魂は、もともと霊的生活に適したように造られ、かっては実際にこれを受けながら、不幸にして失ってしまったその生命の消えない記憶と、それを取り戻したい限りない望みと、その喪失から生ずる癒やされない落胆とから出る深い悲しみを抱いているのである。しかしなんぴとがよくこれを私たちにこれを取り戻してくれることができるであろうか。それは最初にこの霊的生命を私たち与えてくださった神でなければ不可能であった。実際最初のたまものをくださったのは父なる神、これを取り戻してくださったのは子なる神であったのである。このようにして私たちが洗礼の秘跡によって主の御血で清められた瞬間に、私たちの霊魂の中に新しい生命の芽がもえでて、これが私たちの霊的生命の始まりとなったのであるが、この生命を保ち、はぐくみ、この生命をしてその全ての歓喜を味わわせ、聖なるわざを豊かにするためには、それを規則的に成長させる食物が必要であった。この食物こそ生命のパン、聖体のパンなのである。ああ、だから礼拝しよう。あなたにおいでになる永遠の生命、幸いな生命、聖なる生命、神の生命、あなたに約束され、聖体のパンによって強められ、確かめられた生命を、私たち霊魂の中に霊的生命の生きた養いとなったイエズス・キリストを。49-12
感謝 もし私たちが、霊魂の滅びの恐ろしさと、永遠の生命の尊さを真に知るならば、私たちのために聖体をくふうし、これを私たちに与え給うた主の御心の愛を、どうして絶えず祝福し、感謝しないでいられよう。
霊魂が肉体の生命の根源であるように、神は霊魂の生命の源である。神が永遠の生命を与えようと定められたにもかかわらず、私たちが現世の自然的生命だけで満足し、超自然的生命に達しようとしないのは、ちょうど茎だけで満足し、花を咲かせようとせず、或いは、花を咲かせても実を結ばせようとしないのと同様である。このたとえはまだ足りない。私たちは現在を持っているほかに、数々の罪を犯して霊魂の生命を失い、神から遠ざかり、神の御怒りと罰とに値した。これこそ真の死、永遠の死、恐れなければならない死ではないだろうか。
だから私たちはここに安堵と希望を持って喜ぶことが出来る。それは失ったところを補い、道をたやすくし、修業を助け、霊魂の生命を育み、これを支える糧があるからである。これこそ聖体のパン、生命のパンである。忠実にこれを食べるものは決して死ぬことがない。たとえ罪を犯して倒れることがあっても、このパンの力によってまたよみがえることが出来るのである。ああ生命のパン、私たちの弱さに力を添え、神ご自身の生命の功力を私たちにお伝えになる者よ、ああ誉れと栄えのパンよ、御身は卑しい罪の底、虚無のふちから私たちを天に導き、王子らと共に王の御食卓に列席させてくださるのである。ああ平和と慰めと愛と光明とのパンよ、もし私が忠実に御身の御力に寄りすがり、御身に導かれていくならば、必ず到達することの出来る永遠の幸福の幾分かを御身はすでにこの世でも私に味わわせ給うのである。あらゆる人々感謝を受け、永遠に愛され、祝され、讃えられますように。
償い しかし世間はこの生命の賜をまことに心から歓迎しているであろうか。私たち自身はどうであろうか。私たちは、果たして聖体による霊的生命の効果をあげているであろうか。
ある人々は、救い主の慈愛に溢れるこの賜を知ろうとも信じようとも欲しない。悲しいことにこのような人々は決して少なくないのである。彼らは主の御食卓から遠ざかり、あわただしい動物的生涯を送り、或いは悲哀と過失の入り交じった理知一方の生活満足する。彼らは自分の霊魂の滅びを知らない。傲慢によって心の耳をふさぎ、邪悪な心を持って尊いパンを拒み、頑固にも主が御体をお与えになるこの最上の賜を追い退ける。
又、これよりも卑劣な悪人がある。かの偽善者らは、罪悪の生活を送りながら聖体を受け、神の食卓に連なりながら同時に悪魔の招宴にも応ずるのである。即ち心を照らす信仰もなく、罪を清める愛徳も持っていないし、罪のために腐敗した自分の霊魂の中に、この生けるパンを受けるのである。しかしそれには、もっと大きな神の怒りを招くばかりで、さらに惨めな死の墓に葬られることになるのである。52-3
さて私はどうであろうか、私は果たして神の生命を霊魂の中にもっているであろうか。私の思念は神の思念に導かれているだろうか。主の愛が他の被造物の望みを規定しているであろうか。もし私が霊的に生きていないなら、それは私がこの天来のパンから十分養いを取らない為であろうか。或いは必要な準備もせず、相応しくもないのにこれを迎える為ではなかろうか。聖体によって生きるか、生命のパンを食べないで死んでしまうかの生死の問題であるにもかかわらず、人々はこれに頓着しない。度々聖体に近づくよう熱心に勧める教会の教えも聞かず、只年に一度の復活祭の務めをやっと守るという者があるのは実に情けないことである。
祈願 不思議な生命のパンの御約束を聞いて「主よ、常にこのパンを与え給え」と叫んだ人々に倣うがよい。主はこの言葉を主祷文の中に取り入れて「我らの日用の糧を今日我らに与え給え」と祈ることをお命じになった。あなたは、あなたの周囲にある悩める人、飢える人病む人、死んだ人の大群を眺め、彼らが自分の過失或いは無知から、この生命のパンから遠ざかっていることを嘆き、かつて使徒らが主の後に従った群衆の飢餓を哀れんだときのように彼らの為に主に願おう。「主この砂漠のただ中にあって、彼らはまことの糧となるべき食物を持たざるにより、願わくは彼らを憐れみ給え」と。
実行 忠実に主の御招きに応じ、よい準備をもって生命のパンを受けるよう努めよう。
聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛の証である
礼拝 聖体の中に在す主イエズス・キリストを仰いで感謝し、賛美し、礼拝して、聖体がここにおいでになるのは、ある意味で全くあなたひとりのためであることを悟ること。これはまことに不思議なことで、地上での主の慈愛のきわみである。主が私たちに、これよりもっと親密に、もっと完全に主と一致することを許してくださるのは、天国以外にない。キリストがこれによって実際に、そして完全に、私たち各自に尊い御体をお与えになることが出来るというのが、聖体の特微であり、ねらいどころであり、目的であった。
だからトリエント公会議は、聖体は主の愛のあふれであると教えた。その意味は、ちょうど高い崖からこんこんと湧き出る泉の水が谷間を潤すように、ご託身の際の救い主の愛が、聖体によっていや増し強められて、私たちに及ぶと言うことであった。54-3
聖トマスはこの事実を「み言葉が人となりたまいて、世界の全体にもたらされた全ての恩恵を、聖体は人間一人一人に別々に与えたもう」といみじくも言いあらわした。なるほど、この秘跡を想起することによって始めて私たちは「主は我を愛して、我がために御自らを与え給えり」との聖パウロの言葉の意味を悟ることが出来る。
カルワリオの頂で、主は一度死に給うただけである。しかし聖体拝領するたびに、主の御死去の効果は私たち各自に分かち与えられる。私たちが主を受ける時、私たちはもはや主が確かに私たちのものであることを疑うことは出来ない。私たちは主を持ち、主を捕らえ、私の胸の中に抱いてしまう。主は私の愛のとりこである。54-11
聖体拝領台で主と私たちの親しい会見が始まる。しかし御体を私たちに与えられることは決して主の義務ではないから、このお恵みが純粋に主の愛から出たことは明らかである。主はちょうど私たち各自が主の限りない愛の唯一の対象であり、主の御受難の目的の全てであるかのように、私たち一人一人を愛してくださる。
この驚くべき愛の証拠に感じ、イエズス・キリストを礼拝しよう。
いと高き無限の御者、天地の主宰者が、天からくだってあなたのために聖体となり、あなたのもとに来て、あなたの中に入り、あなたのため、虚無であるあなたのために、あなたの過去現在の過失を癒やそうと、あなたに御身を与えたもうからである。聖体を拝領するとき、主は全くあなたのものとおなりになるから、世界にはただ主とあなただけしか存在しないのである。
記上の事実、この親しい一致が、いとも感嘆すべき、いとも玄妙な聖体の奥義である。
感謝 イエズスが聖体を私たち各自に与えられるその大いなる慈悲に感じ、御心の限りない愛を感謝しよう。
み心は私たちの心を知っておられる。主は至上の愛の要求が、完全で直接な贈り物、親密な一致であるのを知っておられる。主は私たちと別々に一致し、各自に賜を与えなければ、主がいかに激しく私たちを愛したもうても私たちの満足をかち得ないだろうとお考えになった。これによって慈愛深い救い主は私たちのために生まれ、私たちのために死し、私たちのために一切をお尽くしになったのに、なおそのうえ私たち一人一人に、格別にご自身を与えて、その愛を完成されたのである。56-1
主は私たちの性質、境遇、使命、必要、困難、誘惑、試練の違うままに、それぞれ違ったお恵みを与えて、主がどんなに私たちに取ってなければならない御方であるかを知らせようと望まれた。実に、かずかぎりない多くの霊魂の中に、全く等しい霊魂はひとつとして存在しない。だからこれら全ての相異なった霊魂の一つ一つの要求に応じて、それらに適した祝福を与えなければ、愛の勝利を得ることができないわけである。これが救い主のなされたところである。すなわち聖体をふやして、これを私たち各自の養いとなさるのも、ただ私たちの完全な愛をえようとされるからである。
だから感謝し祝福しよう、主の御慈愛がいかに深いかを悟ろう。かって砂漠の中で、数千のイスラエル人の糧として与えられたマンナよりも、はるかにすぐれた賜である聖体は、最後の晩餐の時から最後の審判の日に至るまで、人生の砂漠をさまよう数限りない群衆の、その一人一人の望みに応じて与えられるのである。
償い 与えられたご恩の大小に応じて感謝の程度も異なり、賜によって感謝の方法も変化するのが当然ではないだろうか。もしはたしてそうであるなら、イエズスが私たちを別々に慈しみたまい、私たち一人一人をその愛の対象となさったから、私たちも他の何ものをも顧みないで、ひたすら主だけを愛する全き愛、特別な愛を持って、主の愛に応えなければならないであろう。だから、主が私たちを愛される聖体の中で、私たちも主をお愛ししよう。私たちが失敗して悲しむときにも、成功して喜ぶときにも、また働いて苦しむときにも、いつも聖体のみ前に走り出で、主に私の愛をあかし、心を打ち明け、主のみなを賛美しよう。
私たちは、見知らぬ神に対するように、漠然として主に仕え、聖体に対して少しの親しさも示さず、被造物に対して溢れるばかりの愛情はあっても、主に対しては冷淡であり儀礼的であったり、ただ利益のためか、恐怖のためだけに主を愛しているが、これが、あれほどまでも惜しげなく、あれほどまでも激しく、私たちを愛し、ついにご自分さえも私たちにお与えになった愛すべき救い主に対する返報であろうか。この世の親子、友だち同士であっても、もっと細やかな愛情を持って相愛しているではないか。主にとって私たちは一切であるのに、なぜ私たちにとって主が一切ではないのだろうか。あなたは恥知らずだ、赤面すべきだ。私たちの心はそれほどまでに鈍いのだろうか。この世に愛してくださる主を、なぜこのよにわずかしか愛さないのか。
祈願 イエズスを親しくお愛しする恩恵を熱心に請い求めよう。親しく愛するとは、イエズスをイエズスのために、あなたの心の全てを傾け尽くしてお愛しすることなのである。
常に主を思い、胸の中にたいせつに主を宿し、主のために働け。主のため、主の愛のため、主の御心に叶うため、主に光栄を帰するために万事をなすように。また、常に主がおいでになる聖堂を訪れることを喜んで、できるだけ多くの時間を主のみ前に費やすように。友は合い共にとどまることを好むが、奴隷や召使いは用事があるときにしか主人の前に出てこない。用事が済むと自分の部屋に引き下がることを好むものである。聖体の秘跡によって私たちの友となることを望まれたイエズスに対して、私たちの方でむしろ主の奴隷となり召使いになろうとしているのは、主のご好意を無にすることではないだろうか。主の御喜びは人の子と共においでになることである。だから私たちも主と一緒にいることを私たちの幸福としなければならない。ああイエズスよ、私の最上の友よ、どのような被造物よりも大いなる愛を持って私をお愛しになる友よ、私もまた全てを超えて御身を愛し奉る。
実行 愛によって聖体の中においでになるイエズスを思い、聖体により頼み聖体に祈願しよう
聖体は地上における愛の中心であって信者の結合の鎖である
神の光栄と人の弱さとの間におかれた秘跡のおおいの陰からあなたを眺め、あなたの声を聞かれる救い主の御面影を心に描いて、主が使徒らの群れに取り囲まれ、最後の晩餐をおとりになった時のみ教えを聞こう。「汝ら相愛すべし、これ我が掟なり、我が汝らを愛せしごこく、汝らも相愛すべし、汝ら相愛せば、人みなこれによりて、汝らの我が弟子たることを知らん。汝ら我にとどまれ、我が愛にとどまれ」と。旧約のモイゼの掟に変わるこの新約の愛の掟が主の最後の御遺言であったことは明白である。主はこの御言葉を愛に最大の奇跡を行われたその場で発せられ、聖体の秘跡の中に、私たちがこの掟も守るに必要な恩恵をこめてくださり、またこの秘跡によって、主の愛の記憶を世々に至るまでお続けになるのである。
隣人に仕え、真心を持って他人を愛するためにはーすなわち気まぐれや利益からではなく、純粋に他人のために尽くし、他人の幸いをはかるためには、私たちの利己心と傲慢とに打ち勝つ必要がある。利己心は私たちの邪欲の根であり、私たちが生まれながらに持つ傾向であって、それはある事柄が自分の利益になるか、また自分の卑しい欲を満足させるなら他人の権利や必要を無視してでも、或いは他人を傷つけてでも、これを求め、これを奪うことである。これに反して愛徳とは、自分の好みや気持ちを犠牲にしてでも、他人の幸福をはかることである。このように愛徳は利己心の正反対の徳であるが、執拗な利己心のくびきを断ち切って、愛徳を実践するためには、どうしても、ご自分の子らのために、御生命まで捨てられた神の愛の最大の証拠である聖体の御力を借りて、超自然の勇気を奮い起こさなければならないのである。
実に聖体はイエズス・キリストのご生涯、ご事業、ご聖徳、御功力の完成であって、それ以外の何ものでもない。主は全ての人々に御身を与えようと聖体をおふやしになり、これををいつまでも続けようと聖体の中に絶えず生きておいでになり、どこでも又なんぴとにも恵みを与えようと、あらゆる場所に聖体をお広めになった。もともと人間は主の敵であったが、慈悲深くも主は私たちに「友よ」と呼びかけになるのである。
私たちが他人を愛するためには他人に仕えなければならない。そして他人に仕えるためには、自らへりくだらなければならない。しかし私たちの傲慢は愛を麻痺させてしまったから、キリストの御へりくだりの秘跡の聖体によらなければ、どうしても、傲慢に打ち勝つことができないのである。主にして師であるイエズスが、奴隷のように使徒たちの足を洗われた後に、今は万民に仕えようと最も卑賤なありさまを取って、ただ一塊のパンの外観のもとにへりくだられる聖体は、私たちの愛徳の模範であり原動力である。61-5
だから、いとも厳粛な御言葉を持って、愛の秘跡をお定めになった救い主を礼拝しよう。ちょうど泉に水が湧き出るように、聖体の中から克己、謙遜、真心の小川が流れ出る。主を愛するために他人を自分のように愛したいと望む者は、なんぴともこの流れを訪ね、この源から飲まなければならない。
感謝 イエズス・キリストのみ教えの中には、父なる神を愛する義務に次いで、他人を兄弟のように愛することが、最も幸福な義務として示されている。このみ教えの中にこそ、私たちはみ心の愛、すなわち、永遠無窮の神、御子が人のために自ら進んで肉とおなりになったみ心の愛の深さを悟ることができるのである。
イエズスは、まずこのように私たちを愛された後に、隣人愛の掟をお授けになり、私たちはこれによって無数の兄弟の愛を受けることができるようになった。罪人は義人の祈り功徳によって救われ、弱者は強者によって助けられ、無学者は学者の知恵を分け与えられ、貧者は必要に応じて富者の補助を受ける。だからいかなる貧しさも、苦悩も、艱難も、涙も、もうただ一人の肩の重荷ではない。この掟によって、あらゆる苦しみが地上の全ての人々に分け与えられるようになったのである。
ああ兄弟的愛のいかに美しいことよ。人々が、みな他人の弱さと重荷と必要とを推察して互いに助け合うこの愛徳は、聖会から影を潜めてことはない。なぜなら愛徳の源なるイエズスは、常に聖会の中にとどまって、愛の能力を生かし、犠牲を堪えやすくし、仕事を祝福しておられるからである。
その炎は全世界に広がり、悩む人々の苦痛を癒やし支えるために、奈落の底にまで行き渡るこのキリスト教的愛徳のかまどはどこだろうか。これこそイエズスの生けるみ心、燃えるみ心、憐れみ深いみ心、宇宙よりももっと広いみ心、全能なるみ心である。私たちのために聖体の中にあって私たちに模範を示し、たゆみない愛を分かち与えられるところのみ心である。だからもしあなたが隣人に感謝する事柄があるなら、彼の愛の源はみ心の愛であることを考えて、彼に感謝すると同時に聖体に感謝することを忘れてはならない。62-15
償い 漠然と隣人に対する愛を黙想するだけでなく、あなた自身がこれをどのように実行したか糾明すべきである。他人を尊敬し、彼を愛したか、祈りと善業をもって他人に霊的及び肉体的の助けを与えただろうか、他人によい模範を示したか。他人の欠点を忍んだか、他人の悪を許したか、などである。
なおこの際、聖体のみ光のもとに、あなたのしわざを糾明することが肝要である。言いかえればあなたの主イエズスがあなたを愛されたように、あなたは他人の不徳を忍び、主のなさったようにあなたは他人に仕え、他人のために尽くしただろうか。
最も多くあなたが陥る過失に関して、特にけんそんに堅固な遷善の決心をするように。
祈願 あなたの家族、日本国、全公教会のため愛の一致の恩恵を願い、救い主の尊い御祈りを繰り返そう。『わが祈るは彼らのためのみならず、また彼らの言葉によりて、われを信ずる人々のためにして、彼らがことごとく一ならんためなり。父よ、これ、なんじのわれに
まし、わがなんじにあるがごとく、彼らもわれらにお一ならんためにして、なんじのわれを遣わしたまいしことを世に信ぜしめんとてなり。われ彼らにおり、なんじわれにまします。こは彼らが一に全うせられんため、またなんじのわれを遣わしたまいしことと、われを愛したまいしごとく彼らをも愛したまいしこととを世のさとらんためなり。』
実行 聖体拝領後の感謝のしるしとして、毎日何ごとか兄弟的愛徳の行為を実践しよう。
聖体はキリスト信者の慰めである
礼拝 聖体の中に隠れたもう哀れみ深く慈愛あつい救い主イエズス・キリストを礼拝しよう。そして最後の晩餐において、主との別離を憂い悲しんだ弟子たちを優しく慰められた主の御言葉を思い起こそう。「今や憂い汝らの心に満てり、されど我再び帰りきたる。我汝らを孤児として残さじ」と。
主の御商店は、我々の救霊の為にも、又、天父の光栄を目的として全ての労苦をいとわなかった主に対する報償のためにも、極めて必要なことであった。
しかしどうかして、何らかの方法によって地上にとどまろうというのが主の御心お望みになるところで在り、又それは私たちにも必要であった。すなわち、主は救霊の業を完成されるためにも、又私たちの弱さを助けてくださるためにも、この地上におとどまりにならずにはいられなかったのである。65-1
こうして聖体の秘跡は、師を失う使徒たちを慰め、苦痛に際してキリスト信者を力付けるために制定された。聖トマスは、パンと共に葡萄酒が秘跡の材料として採用された主要な理由のひとつはそれであると教えている。ぶどう酒は人々を力づけ、心を温め喜ばせてくれる飲み物であるからである。実に聖体は「全ての重荷を負える者よ、我に来たれ」との主の限りなく優しい御約束が、常にどこまでも繰り返され、苦しむ悩むどのような人も、この御言葉を思い起こして勇気を奮い起こすように定められたものである。
まことに、主はここにおいでになるのである。主は万人のために聖体の中にとどまって、万人にご自身をお与えになる。イエズスは最上の善、無限の富、諸天使諸聖人の歓喜、光明、幸福である、天にある諸霊が永遠の至福を楽しめるのは、主が彼らと共においでになって、彼らの全てになっておられるからである。はたしてそうであるならば、今日の地上で、私たちが主を受けるなら、主は私たちにとっても一切となり、私たちはこれによってこのうえもない幸福を得、どのような試練の時でも、主によって慰められるはずであろう。たとえ、他の何ものを欠いても、主さえ私たちのものであるなら、これが全ての欠乏を補ってあまりあるはずである。65-15
地上では天国と異なっていて、主は、その御おもてを隠し、ただ信仰によってだけ知ることができる神秘的な方法をもって存在しておいでになる。又、主の存在にもかかわらず、この世には苦悩があり、しかも時として私たちが主をお愛しているにもかかわらず、この苦悩がだんだん増していくことがあるのも事実である。これが原罪以来の人生の状態である。聖体は私たちが罪を償い、天国をかち得るために必要な艱難をなくすものでなく、
又、この逐謫の地を、すぐに光栄の楽園と化すものでもない。それは、ただ悲しみを忍びやすくして、試練の功徳を与、涙をあまり苦くないようにするために、すなわち、私たちの希望を支え、強め、動かないものとし、慰めのない悲哀、恐ろしい苦痛のただ中にあってもこれに寄りすがり「我は主に希望するゆえに倒れることなし。我は十字架に釘づけられたり。されどそはイエズスとともなり。主の愛より我を引き離すものはなんぞ」と叫ばせるために存在しておられるのである。66-11
感謝 イエズスを有することによって生じてくる慰めの力を味わい、いろいろな悩みの中にも、なぜこのように適切に、又このように確実に私たちの希望が強められるか、その理由を細かく調べよう。それは主ご自身が本当にお苦しみになったからであって、私たちの一切の悲しみよりも、もっと大きな悲しみをお味わいになったからである。「主は自ら我らの弱さを取り、我らの悲しみを担えたまえり」と聖書に記されている通りである。主は全ての慰めを失い、悲しみの他何ものも持たない悲しみの人となって、このご自分の経験から苦難を知り、そのきわみをはかられた。苦しみを経験した者でなければ、他人の苦痛を理解してこれに同情することができない。しかしこれに反して自分で苦しんだことのある者は、自分の経験から他人の苦痛を理解し、この理解が他人に慰めを与えるための第一の必要な条件となるのである。だからイエズスは私たちの苦しみに同情して私たちに哀れみを得させようと、進んで全ての恐ろしい苦痛をお受けになったのである。
聖体は実にこの御受難の記念であり、同時に日ごとに私たちの目前で繰り返される生贄である。そして又、それは、私たちを主の御血と御母の涙とに潤わされた十字架の道を歩かせるための御模範である。この道には今もなお、主をめぐる人々の誹謗、攻撃、呪いの声が響き、又、弟子らの背信、御母との別離、天父からの遺棄を嘆かれる主の御苦悩さえ聞こえるのである。
しかし聖体の中においでになる主は、死を征服し、光栄をもって蘇り、天父の右に世々にお座りになる主であるから、又同時に、もし私たちが神の御名のためにしばしの苦痛をしのぐなら、この苦痛は化して終わりない生命、神との永遠の一致、無限の幸福と変わることを、声高く告げられるのである。
ああ悲しみに沈み、困難に気をふさがれた信者たちよ、聖体を受けて主とともにおとどまりせよ。あなたたちの唯一の不幸はイエズスから離れ、世の中のたった一人の真実の慰めぬ死より遠ざかっていることである。
償い それ故私たちが艱難の時にあたって、祈りをやめ聖体拝領を中止するのは、罪であるばかりではなく、罪以上の愚かさである。それはあたかも病人が必要な薬を拒むのにいている。実際それは、私たち自身に対し、又同時に慈悲深い救い主のみ心に対する最も残酷な振る舞いである。私たちが困難にあう時に、まことの慰め主を捨てて、世間の快楽のうちに慰めを求めようとするなら、それはもう盲目以上の狂気である。精神は錯乱し、霊魂は夢幻の中に空想の幸福の国をさまよい、それで平和をつかむことができたと思い込んでしまう。しかし夢がさめて現実に戻った時、私たちはどんなにか憂鬱になって、絶望的な孤独を感じることであろう。かって苦しみ悩んだ時に、あなたが取った態度を思い出して、慰め主なるイエズスのみ前で、あなたの過去の振る舞いを、どのように償うか考えよう。
祈願 苦痛に出会う時、いつも聖体を思い出す恩恵を願おう。このような時、まず第一に聖体の御許に走り寄り、試練の続く限り聖櫃に逃れ場を求め、それが激しければ激しいほど、聖体拝領を怠ることがないように決心すべきである。
聖体を受けても祈ることができない、考えることができない、などとあまり心配しないように。あなたは聖体拝領をする権利を持っているのである。あなたの苦しみそれ自身がすでに立派な準備である。イエズスを信じよう。主に向かって「我をあわれみ給え」と叫びながら、あなたの苦痛を示すなら、それで十分である。
実行 悩む苦しむときには、常に倍して聖体を訪問しよう
聖体は地上の天国であって終わりのない生命の保証である
礼拝 尊いホスチアは光栄と勝利に輝く天国の主宰者、天使の王を隠すひとむらの雲である。このように主が聖体の雲に隠れて地上に近づかれるのは、私たちを主に近づきやすくするためである。
しかし、いと高き天の玉座に大いなる御稜威をもって座したもう時でも、又私たちのか弱いのをいたわるために聖体の雲に隠れて地上におくだりになる時にも、主はいつも同じ主である。主は私たちが他日天国で光栄のうちに所有する幸福の保証、その先駆けとしてここに来てくださるのである。
聖体が天国の保証であるというのは、私たちにこれを与えるとの約束が聖体によって結ばれたからである。だから、「我が肉を食する者は永遠の生命を有する。我は天よりのパンなり。我を信ずる者は死をみることなかるべし」と主はかたく約束されて御身をその保証としてお与えになったのである。だから聖体はこの御約束をどこにあっても繰り返し、それを実行されるのである。70-11
今日聖体によって御身を私たちに与えてくださる以上、主は後で天国の幸福を私たちにお与えにならないことができない。いったい、天国とは何か。イエズスを有すること、永遠に、確実に、イエズスを所有すること、神秘的に余すところなく終わることなくイエズスを所有することである。主は完全に私たちのものとなり、私たちは完全に主のものとなる。天国とはこれである。では、聖体とは何であるか。イエズスを有すること、その中に常に永久にイエズスが存在されること、私たちが秘跡的にイエズスをお受けすることではないか。イエズスの存在、並びに私たちがイエズスと一致する方法は、天国と聖体におけるのとでは相違がある。なぜなら地上にあっては、一方にイエズスはその存在をお隠しになり、他方に私たちは主を完全所有して、いつも主と共にいることはできない。ここでは天国のパンを食する時にも、主を認めるのな信仰だけで、感覚は少しも主に触れないばかりか、感覚は度々信仰を弱め、その光を曇らせて、霊魂が天高く駆け上ることを妨げさえする。しかしながら同じ実在が天国と聖体とにある。主は天国と同様に、この地上においても聖体によってご自身を私たちに本当に与えてくださるのである。71-9
だから、聖体が天国の保証だと言っても、別に、不思議ではないだろう。救い主がすでにこの最初の御恵みを与えてくださる以上、どうして他日天国でご自身を完全に与えることを拒まれるだろうか。この真理をよく味わい、私たちが主に対して、はなはだ不忠実で変わりやすいのに反し、決して御約束を変えられない主を礼拝しよう。
聖体は又この世での天国の先駆けであって、その意味で保証以上のものである。先駆けとは、のちに与えられる祝福の一部を、あらかじめ前もって味わうことである。すなわちそれは、私たちのために用意された天国の完全な幸福の最初の味わいである。72-1
天国とはどんなところであろうか。それはあらゆるよいものを全部完全に自分のものとするところである。だから旧約聖書は「聖体を全ての喜びを含むパン」と名付けた。イエズスも又聖体を「天よりのパン」とお呼びになった。実際、聖体はその名にそむかず、神を直感する至福は神のパンによって味わわれ、天使の歓喜は天使のパンによって測られ、天国の幸福は天からのパンによって始めて知られるのである。
この涙の谷に、このようなおびただしい災いと、不幸とが絶えないのは、聖体の無力によるのではなく、責任はみな私たちにあるのである。すなわち私たちの信仰は地上の財宝に惑わされ、私たちの心は物質的欲望によって弱くなっているために、ついに永遠に清い喜びを楽しめぬようになったのである。
だから礼拝しよう。この世を楽園の入り口にするために、天からおくだりになった生きたパンを。感謝と感嘆の心を持ってこれを礼拝しよう。
感謝 主の御慈愛のいかに大いなることよ。主の愛のいかに激しいことよ。私たちの上に施し給う主の哀れみにいかに深いことよ。なぜなら、かりに私たちの労役と戦いとの報いとして天国の御約束があるだけで、これを得るのに必要な功徳は、私たちが独力で積み上げなければならなかったとしても、それで主の愛とご好意とっは十分に証明されたわけだからである。ところが主はそれで満足されなかった。私たちのために死んで私たちに天国に入る件を得させ給うた救い主、御血の功徳をもろもろも秘跡を通じて皆に分かち給うた救い主、尊いみ教えによって完徳の道をお示しにになった救い主、まずご自分から天国に昇って私たちのために席を用意したもう救い主は、まだこれをもって十分とされず、私たちの手を取って天国に導くために、聖体の中に隠れて再び地上に帰り来ることをお望みになった。主は私たちに天国を保証するために、前もってご自身を私たちにお与えになるのである。それは天国の歓喜の幾分かを地上ですでに私たちに味わわせ、これによって私たちを、この世の一時的な財宝の誘惑から退け、天井の永遠の幸福を慕わせようとするためであった。
ああ主よ、私たちを天国に導くために、なを主のなさることが残っていたであろうか、御身の愛は実によくゆきとどいている。これほどまでご配慮されるのに、もし天国に行くことができなければ、私たちが懲罰を受けるのは当然であろう。どんな懲罰も、これを避けさせるために主が私たちに示したもう御慈愛に比べるなら、もののかずではないからである。
償い ああ主よ、汚れない美、終わりない命、全ての幸福と善そのものなる神よ、御身がこの天来の秘跡をもってお与えになる御約束と御招き、又天国の保証とその先駆けとを心に思い浮かべる時、私たちは、どのように恥じなければならないであろうか。私たちはこの世の快楽が奪い去られてしまって不幸に陥った時でなければ、天国のことを考えようとしない。すなわち、地上の不幸をいやすために始めて天国を望むのであるから、その反対に少しでもも原生的の幸福を得、自分の心、自分の感覚の欲望が満たされると、目を神の方にあげることをやめてしまう。たまたま天国のことを考えるかと思うと、それは主にに向かって「願わくはこの幸福の杯を飲みほすまで、我を天国に呼び寄せたまわざれ」と嘆願するのである。
ああ至聖なる聖体よ、御身が親しく来てくださるのは、このような地上の迷いに捕らわれた汚れた霊魂の中である。そこで御身はわずかしか愛されない。だから御身は私たちの中で無力無為に始終し、熾烈な愛に燃えた聖人らの霊魂の中に生じさせられたような、神と天国に対する感激、熱望、歓喜、法悦を私たちの心にお起こしにならないのである。
祈願 天来のパンなるいとも尊い聖体のみ前に出るたびごとに、望徳を盛んにする最もまじめな決心をしよう。あなたの日々の祈りと聖体拝領の際に、かたときも望徳を忘れないように。また、あなたの感謝の時にも、この決心に忠実であったかどうかを糾明しよう。
これまでの事がらの実行は、必ず肉のきずなから私たちを引き離し、私たちを地上の細事から超越させ、私たちに現世を軽んじさせ永遠を愛させるようにするであろう。
実行 聖体拝領のたびごとに最後まで主に忠実である御恵みと天国を恋い慕うたまものとを願い、また永福を得る妨げとなるいっさいの事がらをぎせいとしてささげることを決心しよう。