聖ピオ十世公教要理詳解
     カトリックの教えとその主な部分
                    護教の盾より

使徒信経の第九箇条
教会についての概説
第九箇条「聖なる公教会と諸聖人の通功」では、何を教えていますか。
使徒信経の第九箇条では、イエズス・キリストが教会と呼ばれるひとつの可視的な共同体を地上におたてになったこと、またこの教会に属する者はすべて互いに一つに結びついていることを教えています。
なぜ聖霊に続いてすぐあとに、教会について述べるのですか。
聖霊に続いて、すぐあとに教会について述べるのは教会の聖性は聖霊に由来するものであり、聖霊はすべての聖性の源であることを示すためです。
教会ということばは何を表わしていますか。
教会ということばは、召集された人々の集団、あるいは集いという意味です。
どなたが私たちをイエズス・キリストの教会に招いてくださったのですか。
神が特別の恩恵により私たちを教会に招いてくださいました。それは、私たちが信仰の光を受け、神の掟を守ることによって、しかるべき礼拝を神にささげ、永遠の生命を得ることができるためなのです。
広い意味での教会に属する人々はどこにいますか。
一部の人々は天国に居て、「勝利の教会」を、他の一部は練獄に居て、「潔めの教会」を、そしてこの地上に居る人々は「戦いの教会」を形づくっています。
この色々な部分は、唯一の教会を形成していますか。
この色々な部分は、唯一の教会、同じ体を形成していますが、それは共に、イエズス・キリストを頭にいただき、同じ霊に生かされ、永遠の幸福を求めるという同じ目的において結ばれているからです。なお、ある者はすでに天国の幸福を得、またあるものは、それを待ち望んでいます。
使徒信経の第九箇条は、主に教会のどの部分について教えていますか。
使徒信経の第九箇条は、おもに現在私たちが属している教会、つまり「戦う教会」について教えています。

教会について
カトリック教会とは何ですか。
カトリック教会とは、この世に生活し、同じキリストの信仰と掟を受け入れ、同じ秘跡にあずかり、正しい牧者、とくに教皇に従う、洗礼を受けた人々の団体のことです。
教会の構成員となるには何が必要かもっとくわしく説明して下さい。
教会の構成員とをるには、まず洗礼を受け、イエズス・キリストの教えを信じ宣言し、同じ秘跡にあずかり、教皇と他の正しい牧者の権威を認めることが必要です。
教会の正しい牧者とは、だれのことですか。
教会の正しい牧者とは、全教会の牧者であるローマ法王すなわち教皇と司教のことです。さらに、司祭とくに主任司祭は、司教や教皇に従いつつ、司牧にたずさわります。
なぜ教皇が全教会の牧者であるというのですか。
それはイエズス・キリストが最初の教皇、聖ペトロにこうおおせになったからです。「あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。私は天国の鍵をあなたに与えよう。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものはみな天でもとかれるだろう。」そしてさらに、「私の小羊を牧せよ、私の羊を牧せよ」ともおおせになりました。
洗礼を受けていても教皇を頭と認めない人々の集団がたくさんありますが、イエズス・キリストの教会には属していないのですか。
教皇を頭と認めない者はだれもイエズス・キリストの教会には属していません。
人間の創設になるのに、キリストの教会であると自称する沢山の団体や宗派がありますが、イエズス・キリストの教会とはどう区別すればよいのですか。
イエズス・キリストの教会と人間の創設になるのにキリストの教会であると自称する団体や宗派とは次の四つの特徴によって簡単に区別できます。つまり、イエズス・キリストの教会だけが、一・聖・公(カトリック)・使徒継承という四つの特徴を備えているのです。
なぜ、真の教会は「一」なのですか。
真の教会が「一」であるのは、同一の可視的な頭、教皇のもとに、同一の信仰と礼拝と掟において結ばれ、同じ秘跡にあずかるからです。
はかにも教会があり得ますか。
ほかに教会はあり得ません。なぜなら、神は一つ、信仰は一つであるように、唯一の真の教会のほかに教会は存在せず、存在することもできないからです。
しかし国や教区単位の信者の集まりを教会と呼ぶのではないのですか。
国や教区単位の信者の集まりも教会と呼びます。しかし、それは全世界的な普遍の教会の部分をなすもので、この部分が集まって唯一の教会を形成しているのです。
なぜ、真の教会は「聖」なのですか。
真の教会が「聖」なのは、その目に見えない頭であるイエズス・キリストをはじめ、大勢の教会の構成員も信仰も掟も秘跡も聖であって、この教会の外にまことの聖性は存在せず、存在することもできないからです。
なぜ、真の教会は「公(カトリック)」なのですか。
真の教会が「公(カトリック)」、すをわち、普遍であるというのは、時代、場所、年令、生活環境にかかわりなくすべての信者をふくみ、世界のすべての人間がこの教会に属するよう招きを受けているからです。
なぜ、真の教会は「使徒継承」なのですか。
真の教会が「使徒継承」なのは、今の教会が歴史的に何ら中断されることなく、使徒たちの時代まで遡ることができるからです。教会は使徒たちが信じ、教えた事柄をすべて信じ、教えています。さらに、使徒たちの真の後継者である牧者に導かれ、治められています。
なぜ真の教会は「ローマ教会」とも呼ばれますか。
真の教会が「ローマ教会」とも呼ばれるのは、一・聖・公・使徒継承という四つの特徴が聖ペトロの後継者であるローマ司教を頭と仰ぐ教会にのみ見出されるからなのです。
イエズス・キリストの教会はどのように構成されていますか。
イエズス・キリストの教会は、一つの真に完全な社会として構成されており、この共同体の中心には、人間に見られるように、霊魂とからだをみとめることができます。
教会の霊魂は何から成っているのですか。
教会の霊魂は、信仰、希望、愛、恩恵と聖霊の賜物さらに、罪のあがない主キリストと聖人たちの功徳からくる天上の宝などの内的、霊的を要素から成っています。
教会のからだは何から成っているのですか。
教会のからだは、信者の集まりや礼拝と教職、さらに秩序と統治に関する可視的、外的要素から成っています。
救いを得るにはカトリック教会に属するだけで充分なのですか。
救いを得るには、カトリック教会に属するだけでは充分ではなく、生きた肢体でなければなりません。
生きた肢体とはどういう人たちですか。
生きた肢体とはすべての義人、すをわち、実際に神の恩恵を持っている人たちのことです。
死んだ肢体とはどんな人たちですか。
教会の死んだ肢体とは、大罪を犯したままの状態にいる人たちのことを言います。
使徒継承のローマ教会外においても救いを得ることができますか。
教会の前表であったノエの箱船の外では、だれも大洪水を免れなかったのと同じように、使徒継承のローマ教会外において救いを得ることはできません。
それでは、なぜ旧約の太祖や予言者その他の義人が救われたのですか。
旧約の義人は、来たるべきキリストを信じ、すでに霊的に教会に属していたからです。
過失なく、つまり悪意なしに、教会に属していない人々は救われますか。
過失なく、つまり悪意なしに教会に属さない人も、洗礼を受けているか、あるいは少なくとも受ける望みを持つ人で、まじめに真理を求め、できるだけ神の御旨を果す努力をするなら、教会のからだからは離れていても、教会の霊魂には結ばれていると言えますから、救いの道を歩んでいることになります。
カトリック教会に属しながら、その教えを実践しない人は救われますか。
カトリック教会に属しながら、その教えを実践しない人は、死んだ肢体ですから救われません。成人が救われるためには、洗礼と信仰だけでは充分ではなく、信仰に合ったおこないが必要なのです。
数会が教える真理を全て信じなければなりませんか。
教会が教える真理を全て信じなければなりません。イエズス・キリストは、信じないものはすべて亡ぼされると宣言なさいました。
教会の命じることも果さなければなりませんか。
教会の命じることを全て果さなければなりません。キリストは教会の牧者たちに次のようにおおせになったからです。「あなたたちの言うことを聞く人は私の言うことを聞く人であり、あなたたちをこばむ人は私をこばむ人である。そして、私をこばむ人は、私をお送りになった御方をこばむのである。」
教会が信ずべきことがらを提示するとき、誤ることがありますか。
教会が信ずべきことを提示するとき、誤ることはありません。なぜならイエズス・キリストの御約束によって、教会は絶えず聖霊のお導きを受けているからです。
では、カトリック教会は不可謬だというわけですか。
カトリック教会は不可謬です。従って、教会の決定する教義を拒否する人は信仰をうしない、異端者となるのです。
カトリック教会が崩壊したり、破滅してしまうことがあり得るでしょうか。
カトリック教会は迫害を受けることはありますが、決して崩壊したり、破滅してしまうことはありません。約束されたように、キリストは世の終りまで教会と共においでになりますから、教会は世の終りまで存続します。
なぜカトリック教会は激しい迫害を受けるのですか。
カトリック教会が激しい迫害を受けるのは、神である創立者が迫害をお受けになったから、また、教会が悪徳、悪習を非難し、情欲をうち砕き、不正義と誤りを排斥するからです。
ほかにも、教会に対して果すべき義務がありますか。
信者はみな、教会に対する限りない愛を表明し、教会に属する自分が大きな恵みをいただいた幸福なものであることを自覚し、できる限りの手段を尽して、教会の栄光と発展に貢献しなければなりません。

教導教会と聴従教会
教会の信者の間になにか区別がありますか。
教会の信者の間には注目すべき区別があります。命令するものと従うもの、教える者と教えを受ける者の区別がそれです。
教会の、教えにたずさわる部分を何と呼びますか。
教会の、教えにたずさわる部分を教導教会(教える教会)と呼びます。
教会の、教えを受ける部分を何と呼びますか。
教会の、教えを受ける部分を聴従教会(聴く教会)と呼びます。
教会内のこの区別を定められたのはどなたですか。
教会内のこの区別を定められたのはイエズス・キリスト御自身です。
教導教会と聴従教会とは、二つの異なった教会ですか。
教導教会と聴従教会とは、唯一の教会の二つの異った部分を構成しているにすぎません。ちょうど、人間の体において、頭は他の部分と異なりますが、すべてが一つにまとまって唯一の体を構成しているのと同じです。
教導教会を構成しているのはだれですか。
教導教会を構成しているのは、教皇を頭とする全司教団です。司教は全世界に散在していますが、公会議では一同に会します。
聴従教会を形成しているのはだれですか。
聴従教会を形成しているのは、すべての信者です。
それでは教会内ではだれが教える権能を有しますか。
教会内で教える権能を有するのは、教皇と司教およびこれらの人々から委託を受けた他の聖職者たちです。
教導教会の指導には従わなければなりませんか。
教導教会の指導には従わなければなりません。イエズス・キリストが使徒たちを通して、教会の牧者に「あなたがたの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちをこばむ人は私をこばむのである」とおおせになりましたから、教導教会の指導に従わない人は永遠の罰を受けることになります。
教会は教導権のほかにも権能をもっていますか。
教会は教導権のほかにも特に、聖なることがらを司どる権能、掟を定め、その掟の遵守を要求する権能をもっています。
教会の権能は信者全体から与えられたものですか。
教会の権能は、信者全体から与えられたものではありません。これは異端的な考えです。教会の権能は神からのみ与えられたものなのです。
この権能を行使できるのは、だれですか。
この権能を行使できるのは、教会の位階聖職者、すなわち、教皇教皇に従う司教に限られています。

 教皇と司教について
教皇とは、だれですか。
教皇は、ローマ司教の座を占める、聖ペトロの後継者であり、イエズス・キリストの代理者、可視的教会の頭のことです。
なぜ教皇は聖ペトロの後継者なのですか。
教皇が聖ペトロの後継者であるのは、聖ペトロが彼自身の内にローマ司教の位と教会の頭としての位をあわせ持っていたからです。聖ペトロは神の御旨に従って教皇座をローマに定め、そこで没しました。それゆえ、ローマ司教に選ばれたものが、同時に教会の全権能の後継者となるのです。
なぜ教皇はイエズス・キリストの代理者なのですか。
教皇がイエズス・キリストの代理者であるのは、この世においてイエズス・キリストの代りに教会を統治するからです。
なぜ教皇は可視的教会の頭なのですか。
教皇が可視的教会の頭であるのは、不可視的な教会の頭であるイエズス・キリストと同じ権能をもって、可視的教会を治めるからです。
それでは教皇の位とは何ですか。
教皇の位とは、この世のあらゆる権能のうち最高のもので、全ての牧者、信者の上にたち、最高かつ直接的権能を行使できる位のことです。
教皇は教会を教導するとき誤ることがありますか。
信仰と道徳に関する決定を下すとき、教皇は不可謬です。
なぜ教皇は不可謬ですか。
教皇が不可謬なのは、イエズス・キリストの御約束と聖霊の絶えまのない援助によります。
教皇はどんな場合に誤ることができませんか。
教皇は全教会が受け入れるべき信仰と道徳に関して、全力トリック信者の牧者、教師としての資格と最高かつ教皇の権威をもって、教義を決定するとき、誤りを犯すことはできません。
教皇の決定した教義を信じないものは、どんな罪を犯しますか。
教皇の決定した教義を信じない者も、疑いを持つ者も、信仰に反する罪を犯します。また頑固に不信仰の状態にとどまれば、カトリック信者ではなく異端者になります。
神が教皇に不可謬性の恵みをお与えになったのは、何のためですか。
神が教皇に不可謬性の恵みをお与えになったのは、教会が教える真理を私たちが確信して受け入れるためです。
教会が教皇の不可謬性を決定したのはいつでしたか。
教会は第一バチカン公会議において教皇は不可謬であると決定しました。もしこの決定に反論する者があれば、異端者となり、破門されます。
教会は、教皇が不可謬であることを決定することによって、新しい信仰の真理を定めたのですか。
教会は、教皇が不可謬であることを決定することによって、新しい信仰の真理を定めたのではありません。すでに聖書や教会の聖伝の中に含まれていた、教皇の不可謬性についての教えは神によって啓示された真理であるので、ドグマすなわち信仰箇条として信じなければならないということを、色々な誤った新説に対処するために、決定したにすぎないのです。
信者は教皇に対してどんな態度をとるべきですか。
信者はみな、教皇を父、牧者、普遍の師として仰ぎ教皇に心から一致しなければなりません。
神のお定めにより、教会内で教皇の次に尊敬されなければならないのは、だれですか。
教皇の次に尊敬されなければならないのは、神のお定めにより、司教です。
司教とはだれですか。
司教とは、教皇に従属しつつ、委託された司教区にある教会を統治するように聖霊によって定められた牧者のことです。
司教は自分の教区でどんな役目を持っていますか。
司教は自分の教区の聖職者、信徒、すなわち全信者の正当な牧者、父、師そして頭です。
なぜ司教は正当な牧者と呼ばれるのですか。
司教が正当な牧者と呼ばれるのは、自分の教区の信者を治める権能が教会の法と定めに従って司教に与えられているからです。
教皇と司教団はだれを受け継いでいるのですか。
教皇使徒の頭である聖ペトロの後継者であり、司教団は教会の普通の統治に関して使徒たちの後継者です。
信者はみな司教に一致しなければなりませんか。
聖職者であれ、信徒であれ、信者はみな教皇と一致している司教に一致しなければなりません。
信者は司教に対してどんな態度をとるべきですか。
聖職者、信徒を問わず、信者はみな司教を敬い、愛し、尊ばなければなりません。また、司牧と教区の霊的指導に関係のある事柄において、司教に従わなければなりません。
司教を助けるのは、だれですか。
司教を助けるのは、司祭、とくに主任司祭です。
主任司祭とはだれですか。
主任司祭とは、司教のもとにあって、小教区と呼ばれる教区の一部を治め指導するよう任命された司祭です。
信者は主任司祭に対してどんな義務を持ちますか。
信者は主任司祭と一体となり、かれの言うことを素直に受け入れ、小教区の統治に関する事柄については、尊敬と恭順の態度を示さなければなりません。

 諸聖人の通功について
使徒信経の第九箇条の「諸聖人の通功」は何を教えていますか。
使徒信経の第九箇条の「諸聖人の通功」は、教会の中では、全ての信者を緊密に結ぶ絆によって、教会に属する内的、外的な霊的善が信者すべての共有物であることを教えています。
教会の内的な共有善とは何ですか。
教会の内的な共有善とは、秘跡を通して受ける恩恵、信仰・希望・愛、イエズス・キリストの無限の功徳、聖母マリアと諸聖人のゆたかな功徳、教会で実践されるすべての善きおこないの実りなどのことです。
教会の外的共有善とは何ですか。
教会の外的共有善とは、秘跡、ミサ聖祭、公けの祈祷、さらに信者同志の一致を計るその他諸々の外的な宗教行事のことです。
信者はだれでも共有善を享受できますか。
内的共有善を享受できるのは、神の恩恵を持った信者であって、大罪を犯した状態にいる人は信者と言っても、共有善を享受することはできません。
なぜ大罪を犯した状態にある信者は、共有善を享受することができないのですか。
信者を結びつけ、信者同志の一致を可能にするのは神の恩恵です。ところが大罪を犯した者は神の恩恵を持っていませんから、霊的共有善を享受することはできないのです。
大罪を犯した状態にある信者は、教会の内的、霊的善の恵みを全然受けないのですか。
大罪を犯した状態にある信者は、教会の内的、霊的善を剥奪されてはいますが、全く、善の恵みを受けないのではありません。キリスト信者として、消えることのない印章を持っていますから、他の信者の善業や祈りに助けられて再び改心の恵みを得ることができます。
大罪の状態にある者は、教会の外的善にあずかることができますか。
破門され教会から離れていない限り、大罪の状態にある者でも教会の外的共有善にあずかることはできます。
なぜ、このような通功(交わり)を持つ人を総称して諸聖人と呼ぶのですか。
この通功(交わり)をもつ人を総称して諸聖人と呼ぶのは、すべての信者が聖性に至るよう招きを受けており、洗礼の秘跡によって聖化されていること、その上なかにはすでに完全な聖性に達した人もいるからです。
諸聖人の遺功は天国と練獄にも広がっていますか。
諸聖人の通功は、天国と練獄にも広がっています。凱旋の教会、潔めの教会、戦う教会の三つは、愛によって一致しているからです。また聖人たちは私たちと練獄の霊魂のために神に祈り、私たちは聖人を敬い、栄光をささげ、さらに、ミサ聖祭、献金、免償その他の善業を代願として練獄の霊魂にささげます。

教会に属さない人々について
諸聖人の通功にあずかれないのはどんな人ですか。
諸聖人の通功にあずかれないのは、死後の世界では永罰を受けている人々、この世では真の教会に属さない人々です。
真の教会に属さないのはどんな人ですか。
真の教会に属さないのは、未信者、ユダヤ教徒、異端者、棄教者、離散者、それに破門された人々です。
未信者とはだれですか。
未信者とは、洗礼を受けず、イエズス・キリストを信じない人のことで、これには偶像崇拝者のように虚偽の神を信じ崇拝する者と唯一の神の存在を認めながらも救い主がこの世においでになったことや、来たるべき御者であることさえも信じない者とがあり、これには回教徒などがあります。
ユダヤ教徒とはだれですか。
ユダヤ教徒とは、モイゼの法を信じても、洗礼を受けず、イエズス・キリストを信じない人たちのことです。
異端者とはだれですか。
異端者とは、洗礼を受けていながら、神によって啓示され、カトリック教会が信ずべきこととして教える真理を頑固に拒絶する人々のことで、アリウス派ネストリウス派プロテスタントの宗派などがあります。
棄教者とはだれですか。
棄教者とは、信仰を棄て去った者、つまり、それまで持っていたカトリックの信仰を外的なおこないによって否定する人々のことです。
離教者とはだれですか。
離教者とは、どの教義をはっきりと否定するということはなくても、イエズス・キリストの教会、つまり、正しい牧者から自発的に離れてしまうキリスト教徒です。
破門された者とはどんな人ですか。
破門された者とは、非常に重大な罪を犯したため、教皇または司教によって破門の罰を科せられ、教会にその名に価しない者として追放された人のことですが、教会はこの処置により、この人たちの改心を期待しているのです。
破門は恐ろしいことですか。
破門は、非常に恐ろしいことです。なぜなら、この罰は教会が、反抗したり、強情な態度をとる者に、科する罰のうち最も重く、恐ろしいものだからです。
破門された者はどのような善を剥奪されますか。
破門された者は、公的な祈り、秘跡、免償のめぐみを剥奪され、有罪判決または宣言判決があれば、教会の埋葬を受けることもできません。
破門された者に対して、助けの手をさしのべることができますか。
破門された者や教会に属さない全ての人々に、正しく忠告したり、祈ったり、善業を通じて、また、主に対しては、神の御慈悲によってかれらが信仰をとりもどし、諸聖人の通功にあずかることのできる恩恵をお与えになるように願うなどして、助けの手をさしのべることができます。

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使徒信経の第八箇条
第八箇条「聖霊を信じます」では何を教えますか。
使徒信経の第八箇条では、父と子のペルソナと同じく、永遠、無限、全能の神であり、万物の創造者かつ私たちの主である三位一体の第三のペルソナ聖霊が存在することを教えています。
聖霊はどなたから出ますか。
聖霊は、御父と御子を一つの源として、そこから意志と愛とによって出る御方です。
御子が御父より生まれ、聖霊が御父と御子より出ているならば、御父と御子は聖霊より前に存在しているように思えます。それでは、なぜ三つのペルソナはみな永遠から存在すると言うのですか。
三つのペルソナがみな永遠から存在すると言うのは、御父は御子を永遠からお生みになり、聖霊は御父と御子から同じく永遠の昔から出ているからです。
なぜ三位一体の第三のペルソナが特に聖霊と呼ばれるのですか。
三位一体の第三のペルソナが特に聖霊と呼ばれるのは、御父と御子の息吹(霊発)と愛によって出る御方だからです。
特に聖霊に帰せられている働きは何ですか。
聖霊には特に人を聖化する働きが帰せられています。
御父と御子は、人を聖化なさらないのですか。
三つのペルソナが同じように人を聖化なさいます。
では、なぜ人を聖化する働きが、特に聖霊に帰せられるのですか。
人を聖化する働きが特に聖霊に帰せられるのは、聖化は愛の働きであり、愛の働きはすべて聖霊に帰せられているからです。
聖霊は、いつ使徒たちに下られましたか。
聖霊は、ペンテコステの日、すなわちイエズス・キリストの御復活の五十日後、御昇天の十日後に、使徒たちに下られました。この日を聖霊降臨の日と呼びます。
聖霊降臨前の十日間、使徒たちはどこに居ましたか。
使徒たちは、聖母マリアや他の弟子たちと一緒に、最後の晩さんの高間に集って、イエズス・キリストが約束された聖霊を待ち望み、心を合わせて祈っていました。
聖霊使徒たちにどんな恵みを与えられましたか。
聖霊は、使徒たちの信仰をさらに確固たるものにし光と剛毅と愛と豊かな恵みで彼らを満たされました。
聖霊が送られたのは使徒たちだけのためですか。
聖霊は全教会と神の教えを信ずる全ての人々のために送られました。
聖霊は教会においてどんな働きをされますか。
聖霊は、からだの中の霊魂のように、恩恵とたまものによって、教会に生命を与え、真実と愛の王国を教会の中につくりあげ、信者がまちがいなく天国への道に導かれるようお助けになります。

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使徒信経の第七箇条
第七箇条「かしこより生ける人と死せる人とをさばかんために来たりたもう」では何を教えていますか。
使徒信経の第七箇条では、世の終りに偉大な権能と栄光をもってイエズス・キリストが天より下り、すべての人間の善悪を裁き、それぞれに報いをお与えになることを教えています。
人はみな、死後すぐに、私審判においてイエズス・キリストの裁きを受けるのに、なぜもう一度公審判で裁きを受けなければなりませんか。
人がみな公審判において裁かれるのは、
1.神の栄光のため、
2.イエズス・キリストの栄光のため、
3.聖人たちの栄光のため、
4.悪人たちのこらしめのため、
5.そして、最後に、肉身も霊魂と共に報いを受けるため
なのです。
公審判において神の栄光はどのように現われますか。
この世では、しばしば善人が苦しみ、悪人が栄えているのを目にしますが、公審判のときには、神がどれほどの正義をもってこの世を統治しておられるかがみんなにわかります。公審判ではこのようにして神の栄光が現われます。
公審判においてイエズス・キリストの栄光はどのように現われますか。
人間による不正な裁きをお受けになったイエズス・キリストは、公審判において全ての人の前に、最高の裁判官として姿を見せることにより、御自分の栄光をお現わしになるのです。
公審判において聖人たちの栄光はどのように現われますか。
悪人にさげすまれ死んでいった多くの聖人は、公審判で全ての人の前で称賛を受け、その栄光を現わします。
公審判での悪人のこらしめとはどんなことですか。
公審判で悪人の受ける恥辱は非常なもので、特に、正しい人々を圧迫した者やこの世で善人、人格者として敬われるように体裁をつくろってきた人たちは、すべての人の前で、過去に犯した罪や隠れた罪までもあらわにされます。

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使徒信経の第六箇条
第六箇条「天に上りて全能の父なる天主の右に座し」では、何を教えていますか。
使徒信経の第六箇条では、イエズス・キリストが御復活後四十日目に弟子たちの目の前で天にのぼられたこと、そして、神としては全能の父なる神と同じ威光を持ち、人としては全ての天使と聖人の上に位され万物の主となられたことを教えています。
なぜイエズス・キリストは、御復活後、御昇天まで四十日間も地上にお残りになったのですか。
イエズス・キリストが、御復活後、御昇天まで四十日間も地上にお残りになったのは、何度も姿を現わし、本当に復活されたことを示し、使徒たちに、さらに教えを与え、ゆるぎのない信仰を持たせるためでした。
なぜイエズス・キリストは天に昇られましたか。
イエズス・キリストが天に昇られたのは、① 御死去によって御自分のものとなった王国を治め、② 私たちのために、栄光の座を用意し、御父である神のもとで私たちの代願者、弁護者となり、③ 使徒たちに聖霊をお遣わしになるためでした。
イエズス・キリストは昇天されたと言い、聖マリアは被昇天されたと言うのはなぜですか。
神であり人であるイエズス・キリストは、御自分の力によって天にのぼられたのに対し、御母マリアは、最も尊い御方とは言え被造物にすぎず神の御力によって天に上げられたからです。
「全能の父なる天主の右に座す」とはどういう意味ですか。
「座す」とは、イエズス・キリストが永遠の光栄を有しておられることを示し、「全能の父なる天主の右に座すとは、すべての被造物の上に立つ輝かしい位置を占めておられることを意味します。

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使徒信経の第五箇条
第五箇条「古聖所に下りて三日目によみがえり」では何を教えていますか。
使徒信経の第五箇条では、イエズス・キリストの霊魂が御体を離れ、古聖所に下ったあと、三日目に再び御体に戻り、それ以後離れることはなかったと教えています。
古聖所とは何ですか。
古聖所とは旧約時代の義人の霊魂がイエズス・キリストの来臨と罪のあがないを待ちつつ止まったところです。
なぜ、旧約時代の義人の霊魂はイエズス・キリストの御死去の前に天国に入れなかったのですか。
旧約の義人の霊魂がイエズス・キリストの御死去の前に天国に入れなかったのは、アダムの犯した罪のため、天国の門が閉ぎされており、まず最初にイエズス・キリストがこの閉ぎされた扉を開く必要があったからです。事実、イエズス・キリストの御死去によって、天国の門はふたたび開かれました。
なぜイエズス・キリストは、御復活を三日目まで、延ばされたのですか。
イエズス・キリストが御復活を三日目まで延ばされたのは、本当に死去されたことをはっきり示すためでした。
イエズス・キリストの御復活は、他の人間の復活と同じようなものでしたか。
イエズス・キリストの御復活は、他の人間の復活とは異なります。イエズスは御自分の力でよみがえられたのに対し、他の人間は神の力によってよみがえったからです。

     

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使徒信経の第四箇条
第四箇条「ボンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架につけられ死して葬られた」では何を教えていますか。
第四箇条では、イエズス・キリストがその尊い御血で世の罪をあがなうため、ポンシオ・ピラトの管下で苦しみを受け、十字架につけられ、死去され、葬られたことを教えています。
「苦しみ」とは何を意味しますか。
「苦しみ」とは、イエズス・キリストが御受難において体験されたもろもろの苦痛を意味します。
イエズス・キリストが死去されたのは、神としてですか、それとも人としてですか。
イエズス・キリストは人として死去されました。神としては、苦しむことも死ぬこともないからです。
十字架の責めはどんなものでしたか。
十字架の責めは、あらゆる責苦の中で最も残酷で屈辱にみちたものでした。
だれが、イエズス・キリストを十字架の刑に処すよう命じましたか。
イエズス・キリストを十字架の刑に処すよう命じたのは、ユダヤ地方の総督ポンシオ・ピラトでした。ピラトは、救い主イエズス・キリストの無罪を認めながら、卑怯にも、イエルザレムの人々の脅しに折れたのです。
イエズス・キリストは、お望みになれば、ユダヤ人やピラトの手から逃れることができませんでしたか。
イエズス・キリストはユダヤ人やピラトの手から逃れようと思えばできました。しかし、御父の御旨に従い私たちを救うために、すすんで敵の前に姿を現わし、捕らえられ、苦しみ、死ぬ運命に御自分をゆだねられたのでした。
イエズス・キリストは、どこで十字架につけられましたか。
イエズス・キリストは、カルワリオの丘で、十字架につけられました。
イエズス・キリストは十字架上で何をされましたか。
イエズス・キリストは、十字架上で、敵のために赦しを乞い願い、聖母マリアを弟子ヨハネに母として与えヨハネを通して私たちにも聖マリアを母としてお与えになりました。さらに、御自分の死を犠牲としてささげ、神に対する人間の罪のあがないを成就されました。
私たちの罪をあがなうためには、天使をおつかわしになるだけで充分ではなかったのですか。
私たちの罪を購うために天使をおつかわしになるだけでは充分ではなかったのです。それは、人間が罪によって神に加えた侮辱は、ある意味で無限ですから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方が必要だったのです。
神の正義にふさわしいつぐないをするために、イエズス・キリストは神であると同時に人間である必要がありましたか。
苦しみ死去するためにイエズス・キリストは人間でなくてはならず、この苦しみが無限の価値を有するためには同時に神でなければなりませんでした。
なぜ、イエズス・キリストの功徳が無限の価値あるものでなければなりませんか。
人間が罪によって侮辱を与えた神は無限に偉大を御方ですから、イエズス・キリストの功徳も無限の価値あるものでなければならなかったのです。
イエズスにはあれほどひどい苦しみを受ける必要があったのですか。
イエズスには必らずしもあれほどひどい苦しみを受ける必要はなかったのです。イエズスの行ないはすべて無限の価値を有するものですから、わずかな苦しみだけでも私たちの罪をあがなうには充分であったのです。
では、なぜイエズスはそのような苦しみを受けられたのですか。
イエズスがそのような苦しみを受けられたのは、神の正義に対してよりゆたかなつぐないを望まれ、人間には、神の愛をさらに印象づけ、徹底的に罪を忌みきらう気持を植えつけようとされたからです。
イエズスの御死去に際して異変が起こりましたか。
イエズスが死去されると、太陽は暗み、地はふるえ、墓が開き、多くの死者がよみがえりました。
イエズスの御遺体は、どこに葬られましたか。
イエズスの御遺体は、十字架にかけられた所の近くにあった、丘の岩に堀った新しい墓に葬られました。
イエズス・キリストが死去された時、その神性は肉体と霊魂から離れましたか。
イエズス・キリストが死去された時、その神性は肉体からも霊魂からも離れず、霊魂だけが肉体から離れました。
イエズス・キリストは誰のために死去されましたか。
イエズス・キリストは全ての人間のために死去され、すべての人間の罪をあがなわれました。
イエズス・キリストは全人類のために死去されたのに、なぜある人は救われない可能性があるのですか。
イエズス・キリストは全人類のために死去されましたが、イエズス・キリストを認めない者、掟を守らない者、また、人のために残してくださった聖性に達する手段を利用しない者がいますから、ある人は救われないという可能性があるのです。
人が救われるためには、イエズス・キリストが死去されたことだけで充分ですか。
人が救われるためにイエズス・キリストの御死去だけでは充分でなく、私たち一人一人が主の御受難と御死去のもたらす恵みを正しく受け入れねばなりません。この恵みは特に秘跡を通して受けます。しかし多くの人は秘跡も受けず、受けても正しい受け方をしないので、主の御死去もその人たちには無意味なものとなるのです。

 


                    聖ピオ十世公教要理詳解
     カトリックの教えとその主な部分
                    護教の盾より

使徒信経の第三箇条
聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれた」という第三箇条は何を教えますか。
使徒信経の第三箇条は、神の御ひとり子が、聖霊の御力によって、処女マリアの清らかな御胎内で、人間の体と霊魂をおとりになり、お生まれになったことを教えます。
御父と御子もイエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造に参与されましたか。
イエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造には、神の三つのペルソナが一緒に参与されました。
なぜ「聖霊によりて宿り」とだけ言いますか。
神の御子の御託身は、善性と愛の働きの結果ですが、これは聖霊に帰せられますから、「聖霊によりて」とだけ言うのです。
神の御子は人となられた結果、神であることをおやめになりましたか。
神の御子は人となられても、神であることに変わりはありませんでした。
とすると、イエズス・キリストは、神であると同時に人であるわけですか。
人となられた神の御子、イエズス・キリストは神であると同時に人です。すなわち、真の神、真の人なのです。
そうすると、イエズス・キリストは二つの本性を持っておられるのですか。
神であると同時に人であるイエズス・キリストは、人性と神性の両方を持っておられます。
同じように、イエズス・キリストには神としてのペルソナと人間としてのペルソナとがあるのですか。
人となられた御子には、たった一つのペルソナ、すなわち神としてのペルソナしかありません。
イエズス・キリストには、いくつの意志がありますか。
イエズス・キリストには、神の意志と人間の意志との二つがあります。
イエズス・キリストには自由意志がありましたか。
イエズス・キリストには自由意志がありました。しかし、悪をおこなうことは出来ませんでした。それは、悪をおこなうことは完全な自由ではなく、自由の欠陥を意味するからです。
神の御子と聖母マリアの御子は、同じひとつのペルソナですか。
神の御子と聖母マリアの御子は同じひとつのペルソナです。つまり、真の神であり、真の人であるイエズス・キリストです。
童貞マリアは、神の御母ですか。
童貞マリアは、真の神であるイエズス・キリストの御母ですから、神の御母です。
どのようにして、聖マリアはイエズス・キリストの御母となられましたか。
聖マリアは聖霊の働きと恵みとによってイエズス・キリストの御母となられました。
聖マリアが終生処女であったことを信じるべきですか。
聖マリアが終生処女であったことを信じるべきです。聖母は、童貞のなかの童貞と呼ばれています。
聖母マリアがからだと霊魂と共に天国におられることを信じなければなりませんか。
聖母マリアがこの世の生活を終えたあとからだと霊魂と共に天国にあげられたことが、一九五〇年十一月一日より信仰箇条と定められました。聖マリアの受けたこの栄誉を「聖母マリアの被昇天」と呼んでいます。